明地翠 3
ある日、登校すると教室がわっと湧いていた。翠は不審に思いながらも席に着き、ホームルーム後の授業で行われる小テストの勉強を始めようとした。
竹本、おめでとう、そんな声が聞こえてきた。ふと顔を上げると、竹本が日焼けした顔を照れたように赤黒くして笑っていた。
ずっと好きだって言ってたもんな。
体が一直線に地面に沈むような気がした。
竹本に恋人ができたらしい。それで、翠は竹本に対する気持ちを、恋だと、初恋だと気づいた。
竹本は浮かれたような笑顔で、友人たちにもみくちゃにされている。
そのとき、教室のスライドドアが開いた。美登里だった。ホッとして彼女からの「おはよう」を待った。それを聞いたら、今の心のざわつきも、癒される気がする。
しかしそこで聞こえてきたのは、竹本の友人の冷やかしの声だった。
「彼女来たぞ、竹本」
すると、竹本も、美登里も、真っ赤になって黙った。
「もう、竹本君何で言うの」
美登里が真っ直ぐに竹本の元に行き、竹本を非難した。翠の横を素通りして。
「ごめん。バレちゃって……」
「絶対秘密って言ったじゃん」
「ごめん!」
竹本が手を合わせて頭を下げる。美登里は泣きそうな表情をしながらも翠を見つけ、急いでやってきた。
「おはよう、みーたん。もう信じられない! 事後報告になるけど、聞いてくれる?」
翠は、笑った。いや、笑えていたか、わからない。今となってはわからない。
ホームルームが始まり、それまでの騒動は終わり、水を打ったかのように静かになった。
起立、礼。礼儀正しく、誰からもはみ出さず。そんな学校の、ちょっとした幸せな出来事。それだけだ。ただそれだけ。
「石ころさんの学校ってどんな感じ?」
Xで知り合った、静岡県の同い年の高校生だという笑い猫は、翠によく話しかけてくる。最近は東京の大学生の桔梗も混ざり、よくDMでも話をする。
「別によくある低偏差値の普通科高校だよー」
「ふうん。私のところも普通科高校」
笑い猫の場合、言葉の端々から賢さを感じるから、多分高偏差値高校なのだろう。
「校則が今よく聞くブラック校則ってやつで、色々自由にできなくて窮屈な感じ」
「前髪の長さとか決まってるやつ?」
「そう。髪も染められないし、メイクもちょっとした肌の質感の違いで呼び出される。まあ私には関係ないけど」
「大変だね。野球部とか運動部も全員丸坊主とかなのかな」
胸がちくっと痛んだ。竹本は美登里とうまくやっている。美登里とうまくいかなくなったのは翠のほうだ。最近は全く話していない。
「そう。てか聞いてくださいよ、笑い猫さん」
「何でしょう」
「私の友達、男嫌いって言ってたのに、爆速で彼氏作っちゃって、前とは全然別人みたいになっちゃって、私友達やめました」
「そうなの? てか、彼氏作って別人になったら、友達をやめられちゃうもん?」
笑い猫の言葉に、ぐっと胸が詰まる。
本当は、美登里が変わったのは翠とのつき合いをやめてからだ。美登里は翠に影響を受けて、少し地味に、とにかく明るく、楽しい性格でいてくれたのだ。彼女と自分は、一つの軸に対して対称的な、陰と陽だった。それだけだったのだ。今は竹本の影響を受けて、男慣れした、少し男勝りな彼女になっている。
もう二学期も終わりだ。美登里とのつき合いをやめてひと月。寂しいと言えば、寂しい。
教室で見かける美登里は、ポニーテールの位置が少し高くなった。教師に目をつけられるギリギリの位置。化粧だってする。体育の授業のあとは、必ずボディーパウダーの香りが体中からも顔からも香るし、目立たない色のカラーリップクリームを塗っている。友達とのつき合い方も変わり、彼氏持ちの女子とよくつるむようになった。
竹本ともよく一緒に歩く。もうあのころの男性嫌いの美登里ではなかった。大きな声で話し、竹本に甘え、ポニーテールを竹本に触れられ、照れ臭そうに笑う。
一方の翠は、地味なグループに入れてもらい、さほど興味のない漫画の話題に参加する。『ぼくらのホリデイ!』は完結し、全三巻として発売され、美登里の部屋の本棚に並んでいる。六谷怜が発表する次の漫画を、笑い猫も桔梗も楽しみにしていた。美登里はどうだろう。少なくとも、翠は大して楽しみではない。全てのきっかけである漫画家の作品を、まっさらな気持ちで楽しみにすることなどできない。
そんなふうにして日々を過ごした。しかし、三学期の極寒のある日、ラインのメッセージが来たのだ。
「みーたん、話せない?」
翠は本屋のバイトから帰って部屋でくつろいでいるところだった。小遣いを稼ぐために始めたバイトだが、給料は最近美登里と会わないから使い道がなく、ただ無意味に貯まっていて、専門学校への進学費用に足そうかと思うくらいだった。
既読スルーにしようか迷った。何も話せることがなかったから。でも、メッセージは矢継ぎ早に来た。
「話したくないなら今はいいよ。でも、明日会ってくれないかな。いつもの駅の南口で待ってるね。朝の十時だよ。絶対に来てね」
翠は肩で息をし、涙がぽろぽろ落ちてくるのをただ感じていた。スマートフォンの画面は濡れ、涙は傾いたほうへと落ちていく。どうしようもない自分を恥じるしかなかった。
たかが、恋で。たかが、初恋で。そんなもので失っていい関係ではないのは明らかだと思った。行こう。行こう。絶対に行こう。
翌日の十時、翠は行かなかった。家のダイニングで動画アプリを見ていた。許す勇気がない自分を責めていた。弱くて、ちっぽけだ。こんな自分と、美登里は友達でいる必要などない。
あっ、と母の切羽詰まった声がした。振り返ると、掃除機をかけていた母が、つけっぱなしのテレビに釘付けになっていた。
「駅前で通り魔だって! こんな地元で……」
慌ててリビングに行き、テレビを見ると、騒ぐ人たちの様子が映っていた。テロップには、通り魔事件と書かれていた。場所は、よく行く駅の――。
「三人死傷だって。やだあ、怖い」
母の言葉が凍りついて聞こえる。テレビに映る、地面に広がる血液の赤黒さが妙に目立って見えた。血は、非日常だった。
美登里は、死んでいない。今も、死んでいない。
ただ、あの日長くて鋭い包丁で刺された彼女は、今も目を覚ましていない。