西塔菫 4
家を出る前、スニーカーを履いていると、幸太がふと彼女に声をかけた。姉や両親のことかと身構えていると、
「夏哉、メジャーデビュー駄目になったらしい。話聞いてやんな」
と彼女の両親を気にしながらささやいた。彼女はぽかんとし、うなずいた。
自転車での道は、空白のようだった。何も考えられず、自動的に進むだけ。道行く人にぶつかったり、事故を起こしたりしなかったのが奇跡のようだ。駐輪場に自転車を停め、スマートフォンを開く。夏哉のアカウントを表示させたままぼんやりしていると、気づけば通話ボタンを押していた。気楽な音楽が鳴り出したと思った瞬間、びっくりするほど大声で「はい」と夏哉の顔が画面いっぱいに表示された。
「うわびっくり。菫から連絡あるの、久しぶりやない?」
夏哉は耳のピアスの数が増えていた。丸い目と幼い顔は変わらずで、くしゃくしゃの髪は、何か考え事をしていたことを表していた。今はカラオケボックスにいるらしく、特有のいくつか繋がったオレンジの座席とテーブルと、カラオケマシンが見える。カラオケマシンはなぜか使われておらず、おまけに彼は一人のようだった。
「こんな時間にカラオケ? 大学は?」
菫がからかうように言うと、夏哉はくしゃくしゃに笑って、
「ちょっと事件があってさ。頭冷やすためにギター弾いてた」
ほら、と彼はいつも大事にしている飴色のアコースティックギターのネック部分を持って見せた。菫は何となく息が詰まって言葉が継げなくなった。
「新曲たくさんあるっちゃん。聞いてくれん?」
「いや、それって……」
「駄目んなったけん。メジャーデビュー。やっぱこんなご時世じゃ無理かあ。さ、まずは一曲目」
アップテンポな曲を軽く弾き始めた。彼が歌い出すと、曲は厚みを増して彼独特の深みのある低い声を際立たせた。彼の歌声は柔らかく、明るく激しさのある曲調でも、優しさを感じさせる。
「いい曲やろ。じゃ、二曲目」
菫が拍手をする暇もなく、夏哉は次の曲を弾き始めた。メロウな、菫の好きな曲調だ。恋愛ソングのようで、夏哉は何度も目を閉じて情感を込めて歌う。とてもいい曲だった。
「じゃあ三曲目……と思ったら時間や。もう出んと」
菫は感想を伝えようと口を開いたが、カラオケボックスの利用時間が終わったらしく、夏哉が「あとでラインする」と言うのでそのまま通話を切った。
胸がいっぱいだった。夏哉の音楽には力があり、彼が有名になろうがなるまいが菫の感情を上向けるエネルギーがあった。
それに、彼女は彼に伝えたいことがあった。
歩き出し、人の多く行きかう駅に入って改札を抜けたとき、夏哉からのメッセージが届いた。
「菫のことが好きです」
一瞬、時間が止まった気がした。やがて肩を上下させてスマートフォンを見つめ続け、震える指で返信しようとした。震えたまま指は動かない。そのまま電源を切り、走り出した。頭の中では姉のつるりとした腕についた無数のためらい傷がフラッシュバックしていた。
涙が止まらなかった。
彼に本当の気持ちを伝えたかった。彼女がどんなに彼を愛おしく思っているかを。
本当は、叔父のバンドに飛び入り参加をして歌った彼女の歌声を、夢中で褒めてくれた彼の輝かんばかりの笑顔が好きだった。彼女のハスキーな声が好きだと言ってくれた。少し奇抜な金髪の毛先が水色に染められた彼女のショートヘアの髪型を、お洒落だと笑ってくれた。長身の彼女に対し、彼はさほど背が高くないけれど、気にせず彼女に積極的にアプローチしてくれて、何て真っ直ぐで曇りのない人なのだろうと思った。何度も二人で食事をして、仲良くなった。彼の少し長い髪も、自分をきちんと評価できるところも、自信を持って行動できる積極性も、冷静な考え方も好きだった。
ホームで息を荒くして並んでいると、周囲に怪訝な顔で見られた。呼吸を整えるが、涙はどんどんこみ上げ、溢れてくる。そのまま電車に乗り、座席に着くとずっと泣いていた。
車窓に目を向ける。地下鉄なのでコンクリートの壁が見えるばかりだ。誰とも目を合わせないようにするにはあまり向いていないが、皆下を向いている。彼女がどんなに泣こうが、存在しないかのように。
桔梗が死んだのは、三年つき合った恋人から振られたせいだ。そんな単純でありふれたことで人は死んでしまうのだと思った。
彼女は人を好きになるのが怖かった。夏哉の好意に応えたとして、そのあと自分がどうなってしまうのかが怖くて仕方なかった。二人の恋愛の行きつく先が不幸な結末だったとしたら、自分は耐えられる気がしないのだ。たらればの世界でしかないのに、姉の結末は自分の結末であるような気がした。
結局、答えられないまま数日が経った。
大雨の降るじめじめした日のバイト帰り、マンションの駐輪場で自転車を降りてレインポンチョを脱いだ瞬間、そのDMは来た。笑い猫からだった。
「しっかり考えたけど、私北海道行きたい。桔梗さんが反対なのはわかるけど、それでも行きたい。桔梗さんがもし責任とか色々気になるんなら、石ころさんと二人で行くから、心配しなくて大丈夫だよ」
雨が絶え間なく地面に打ちつける音を聞きながら、菫はその文面をじっと見つめていた。このところ眠れていなくて、彼女は無表情に青ざめていた。
「いつ行くの?」
そう返すと、返事はすぐに返ってきた。
「明日。新幹線に乗って、少しだけのんびり行こうってことになった」
菫はスマートフォンでJRの公式サイトを検索すると、
「私も行くわ」
と返した。それからすぐにマンションの自宅に帰ると、静まり返った家で大きなリュックサックに必要な荷物を詰められるだけ詰めた。そして、夕方になると東京駅に向かった。東京駅は、日常の利用客に加え、大荷物を持った旅行客やビジネス客で溢れ返っていた。壁に寄りかかってDMの画面を睨みながら待っていると、声をかけられた。
「あの、桔梗さんですよね」
大きな透明フレームの眼鏡をかけたおかっぱ頭の少女がいた。神経質そうにまばたきをし、小さな黒いスーツケースをお守りのようにぎゅっと握って立っている。
「そうですけど、そっちは石ころさん?」
石ころと呼ばれた少女は、うなずく。彼女は鮮やかなグリーンに白で柄の入ったTシャツを着ていた。下は細身のジーンズで、歩きやすそうなスニーカーを履いている。
「えっと、よろしくお願いします」
「よろしくね」
菫が微笑むと、少女はひくっと片頬を上げて笑った。