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あくる日の彼女たちは  作者: 酒田青
西塔菫
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西塔菫 3

 夜、バイトを終えて家に帰ると、両親はとっくに寝ているらしかったが、薄暗いリビングのソファーでは、寝息と共にグレーの薄物の毛布がかすかに上下していた。「ただいま」と菫が声をかけると、毛布の下の男性は不明瞭な声を出し、彼女に顔を向けて「お、菫か」と言った。菫が一番好きな叔父である幸太は、いつもの大袈裟なくらいの笑顔を見せて「おかえり」と返し、眠気を存分に含んだあくびをしながら起き上がった。やや長い黒髪がくしゃくしゃになっている。


「何時? 菫はこんな時間まで遊んでたのか。不良か」

「違うよ。バイト」


 菫は子供のような口調で笑いながら返した。幸太は、気にせずローテーブルの上をごそごそ触ってリモコンを押した。無機質な音と主に、そこはいつもの明るいリビングになった。


「時間が早いバイトのほうがよくないか?」

「夜バイトのほうが大学の時間を削らずに済むからね。それにライブハウスは時間遅いじゃん」

「にしたって……」

「学生バイトだから週三日だよ。大したことない。他は勉強とか遊びとかできるし」


 幸太は少し考えたが、上目遣いに、


「しつこいかもしれないけど、明るくても夜道は気をつけろよ。夜と昼じゃ危険度は段違いだから」


 と言うので、菫もくすくす笑いながらうなずいた。


「こうちゃん心配性だよね」


 菫がいつもように愛称で彼を呼ぶと、幸太はにこにこ笑ってうなずいた。四十代になったばかりの幸太は、まだ若者らしさが抜けない。社会人バンドのギターを務めていて、趣味に生きる独身の幸太は、菫をかわいがるのも楽しみなようで、菫が生まれたときから猫かわいがりしてきた。菫との関係は、ずっと良好だ。


「また俺らのバンドに参加してよ」

「いいけど、しばらくは無理かも」


 菫はキッチンでミネラルウォーターを氷の入ったグラスに注ぐと、一気飲みした。生き返るような冷たさだ。


「夏哉も会いたがってるよ」


 グラスを傾ける手が、一瞬元に戻る。


「あいつ結構しつこいよな。迷惑なら言っとくけど」

「ううん。迷惑はしてない」


 被せ気味に答えると、幸太はきょとんとした。菫が慌てて話題を変える。


「そういえばこうちゃん何で今日来たの?」


 夜に来たら泊まるのは予想の範囲内だが、今年は初めて夜までいる気がする。幸太の表情に一瞬で影が差した。あ、しまった、と思ったときには、もうそのことについて話さざるを得ない空気ができていた。


桔梗(ききょう)の三周忌の話をしてて」

「あー……」

「お寺でやるか、斎場でやるかってことになって。お寺かなということになった。あ、菫も意見あったら何か言っていいぞ」

「ううん。大丈夫」


 菫は二年前から続く憂鬱がぐっと色濃く自らに差してきた気がして、心臓の位置を押さえたくなった。どんなふうに動揺しているかを確かめるため、そしてそれを収めるために。こんなとき、いつも桔梗を恨めしく思う。自死をして肉体から逃れた姉を。


 桔梗は九月二十日の自らの誕生日に、自宅マンションのバスタブで手首を切って自殺した。発見者は菫だった。真っ赤なバスタブ、(ろう)で作られたかのように青ざめた桔梗の顔、半開きの目と口。何より、バスタブから必死で姉を出したとき、見えたものは何度もつけられたためらい傷だった。それは何度も夢に見た。


「桔梗の話をするのは嫌か?」


 幸太の声に、びくっとする。菫は幸太の真顔なのか微笑んでいるのかわからない顔に、お姉ちゃんはこうちゃんをこんなふうに見たことのない表情をさせるようになった、と恨めしい気持ちになった。


「まだ、混乱しててさ」


 菫がそれだけ答えると、幸太は、


「わかるよ」


 と返した。




 朝、大学に行く準備をしていると、両親と叔父がキッチンと続いているダイニングのテーブルで、朝食をとっていた。それぞれに明るく挨拶をしあうが、昨日の幸太との会話のあとだと何となく全員が暗さを感じさせる表情だ。


 テーブルのメニューを見ると、いつもと違って見えた。手の込んだシーザーサラダに買ったばかりらしいクロワッサン。


「こうちゃんが用意してくれたの?」


 菫が聞くと、幸太がにっこりと笑った。幸太は飲食店系の会社に勤めていて、料理や食に精通している。クロワッサンも、評判のいい店のものを買ってくれたに違いない。すぐに食卓に着き、一緒に食べ始める。


 菫と幸太が賑やかに会話する間、両親は笑って聞いているばかりだ。気の抜けたようになった父を、疲れたような母を、この二年間、ずっと見てきた。そうしたのは姉だ。


 昔は明るい人たちだった。けれど変わってしまった。家族仲はよかった。姉と菫はべたべたするほど仲がいいわけでもなかったが、それなりに会話を交わし、漫画の貸し借りをし、児童文学の話題を共有し、洋服を借りたりもした。ずっと一緒だった姉が突然自分たちの前で残酷な死を遂げたとき、生まれたのは怒りと悲しみと、恐怖だった。


 世界が終わるのなら、自分で死ぬ必要なんてなかったのに。


 菫は、そう思いたいのをずっとこらえてきた。


 この場でぶちまけてやろうか。姉は無意味に、残酷で残忍でグロテスクな死に方を私たちに見せつける必要はなかったのだと叫んでやろうか。


 けれど、そうしたくなどない。姉に対抗するために、彼女は世界の滅亡なんて不合理で悲観的で、喜んで迎えることも悲劇的に迎えることも必要などないのだという気持ちであの放送のあとを生きてきた。死をことさらに感情的に迎え入れたり、当然のものだと思ったりしたくない。


 だから食卓で姉の話など、しないのだ。

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