西塔菫 1
うだるような暑さだ。梅雨の合間のカンカン照りの午前、大学生の西塔菫は黒いTシャツにベージュのバギーパンツを合わせた格好で、右手に持ったハンディーファンから風を受けながら法学部棟に向かっていた。ハンディーファンは生ぬるい風を送ってよこすばかりでさほど効果が感じられないので、次は濡らして凍らせたハンドタオルが必要かもしれない。夏本番が更に暑いことを考えると、げんなりする。暑がりの彼女はその件を思考からシャットアウトした。
大学への道はさほど広くなく、狭い道を車がどんどん行き交っている。大学の敷地を囲う柵は立て看板が並んでいるが、一つ一つを見たりもせず、何も考えず通り過ぎる。コンビニに寄ろうか、とちらりと道路の向かい側を見るが、そんな時間はなさそうだ。足早に歩き始める。学生らしい姿は変わらず多く歩いている気がするが、何となく数が減ったような気がする。
ふと違和感があったので、足元を見下ろす。カラフルなごついスニーカーの紐が、緩くなってほどけていた。彼女はいつも大股で歩くので、しっかり紐を結んでいないとよくほどける。菫はその場で片膝を立ててしゃがみ、急いで結び直す。
いかに馴染んだ学び舎と言えど、ここで立ち止まるのは危険だった。
「こんにちは。お話いいですか?」
彼女は大きな釣りあがった目を、ぎょろっと相手に向けた。穏やかな、何もかも知り尽くしたような顔のその人物は、この辺りの道でよく見るビラ配りの学生だった。隙を見せると始まる。
「未来からの使者について」
「どうでもいいです」
「昨今の隕石衝突についての未来観測なのですが、新たなメッセージが入ったのです」
「そうですか。どうでもいいです」
「未来人は我々現代人にメッセージを送り続けていますが、多くの人々は信じることをせず」
「そうですね」
「次の日曜日に集会が行われるのですが、どうですか? いらっしゃいませんか?」
彼女は学生を呆れた目で見た。穏やかな目をした、大人しそうな青年だ。それなのに、やたらとしつこく、粘っこい物言いをする。
「行かないです」
「そうですか。では――」
話が続く前に、彼女は大急ぎで敷地内に歩いて行き、大学の建物の中に素早く入った。男子学生は、目だけ微笑んだまま彼女を見つめていた。嫌な感じが背中に残った。視線が貼りついているかのようだった。
最近、あの手合いがかなり増えた。巨大隕石がぶつかる目算が高いと発表されてから、終末論が盛んになり、誰も彼もが陰謀論に夢中になった。彼女はそれを馬鹿馬鹿しいと笑うことなどできない。来年になって多くの人々が死んでしまうかもしれないというのは、とても深刻で尊重すべき問題だと感じたからだ。でも、彼女は世界が滅亡するだとか世界が終わるだとか、そんなふうに大袈裟に考えることはできないのだった。
まだ時間があるうちに発表があったのだし、政府にも世界の首脳にも考えはあるのだろう。巨大隕石衝突の問題を解決するための、世界各国の様々な取り組みがテレビや新聞や本で紹介されているし、そのどれかは成功するかもしれない。まだ絶望するときではない。それくらい冷静に考えていた。
講義を終えて昼休みになると、いつも一緒に食事をしていた唯がいなかったので、食堂に一人で向かい、一人で食事をした。周囲を見渡すと、ひと月前より学生が減っている気がする。徐々に減っているようで、唯もその一人だ。あの発表から唯は無気力になり、最近はあまり大学に来ていなかった。
菫はスマートフォンを取り出し、メッセージを送った。他愛ないあいさつ文だったが、返事はしばらく返ってこなかった。食べていたカツカレーの最後のひと匙をすくって口に入れた瞬間、メッセージは来た。
「ごめん、やっぱ私も休学するわ」
はっ?と素っ頓狂な声を出し、菫は猛烈にフリック入力を始めた。
「大学休んでどうするの? 健康なくせに」
「ちょっと休みたくなって。彼氏もしばらく旅行とかしようって言ってて。思い出作りにさ」
思い出作り、の一言に鳥肌が立った。友人が向こう側に取り込まれてしまったような気がした。違和感に背中を粟立てながら、今度はゆっくりと文面を作る。
「変な宗教にハマってるんならやめたほうがいいよ」
「宗教じゃないよ! ただ休みたいだけ。疲れが出てさ……」
もういい、と菫はぐいっとスマートフォンをズボンのポケットに入れ、立ち上がって食器を返却口に運んで行った。この事態になっても変わらず過ごしている人間は、少数派らしい。
彼女は軽くため息をつきながら、憂鬱な顔で歩き出した。陽炎が揺れ、室内から見ても炎天下の凄まじさが感じられた。