明地翠 7
「翠ー、お風呂入っていいぞ」
家で富良野のことを調べていたら、父が部屋のドアを開けて中を覗き込んできた。
「あー、ありがと。入る」
「最近スマホばっかいじってるなあ。たまには勉強しろよー?」
「わかってるよ」
翠はため息をつく。父の必要以上に絡んでくるところは、あまり好きではない。
「あ、最近見つけたネットフリックスのドラマでいいのがあったから、お兄ちゃんとお母さんと一緒に観ないか? サスペンスで面白いんだよ。イケメンも出るし」
「いいよ。みんなで観て。私は観ない」
父はしばらくベッドでスマートフォンをいじっている翠を見つめて、ドアを閉じて出ていった。それから少し経って、隣の居間でドラマが始まったようだ。大袈裟な、スリルを際立たせる音楽が響く。韓国語のセリフや、効果音、沈黙、それからまたセリフと場面の転換、しばらくして、終わりの音楽と家族の安堵感も容易にわかる。
また父が入ってきた。
「翠ー、風呂入れー」
「うん。すぐ入る」
翠はようやく起き上がり、バスルームに向かった。スマートフォンの用事は済んでいた。旅行の予算は充分に足りそうだとわかったからだ。
リビングで、三歳上の区役所で働く兄がくつろいでいた。今日家族とドラマを観ていたことを、翠は珍しく思う。短く整えた髪の兄は、昔はサッカーをしていて活発だったが、働き始めてからいつもどんよりした表情を浮かべている。今日も疲れているはずで、それでもドラマを家族と観ていたのは、何か今回のことに感じるものがあったのかもしれない。
「翠、何でドラマ観ねんだよ。家族団欒だぞ」
粘っこい言い方で絡まれた。ソファーの前には缶ビールが二本開けてある。どうやら兄は酔っているようだ。今年二十歳になったので、よく酒を飲んでいる。
「地球は終わっちゃうんだからさ、家族くらい仲良くして終わりたいじゃん? それなのに翠はさあ」
「晴、やめろよ。翠は風呂入れ」
父が割って入る。困り顔の父は、そっと翠の顔を覗き込むようにする。
どん、と鈍い大きな音がした。キッチンを見ると、母がお茶の入った急須をカウンターに叩きつけていた。顔は見えない。兄も父も黙り、会話はこれで終わった。
毎日じめじめと湿度が高い。吸う息の水分の多さに、呼吸すら鬱陶しくなる。梅雨に入った街は、雨の音がする。通学路を歩いていると、排水溝に入る間もなく溜まってきた水で、スニーカーがじっとりと濡れる。坂道を歩く生徒は、憂鬱そうな表情だ。
あの放送から一月、ニュースで見る世界は、少しずつ緊張感を増していっているようだった。強盗事件、理由のない殺人事件、通り魔などが溢れ、フランスやアメリカでは暴動が当たり前になっていて、特にアメリカでは銃を用いた犯罪が増えたらしい。ここ日本でも治安は確実に悪くなっていて、コンビニ強盗や車泥棒、身内間での殺人や小さなきっかけから起こった刺殺事件が連日報道される。いつか破裂しそうな、誰かが矢を弓につがえて強く引いているかのような日々。
対して一般市民である翠の実感としては、どんどん無気力になっていく自分と他人を感じるというほうが近いかもしれない。いずれみんな死んでしまうという諦念は、多くの人々の生きる意欲を奪った。まず、学校に来る生徒が減った。おしゃれをする女の子も減った。華やかだった学校の人気者たちは、学校に来ない者も入れば、校則を完全に破って派手な格好をする者もいた。美登里の友達の夏希も、学校に来なくなった。本屋のバイトのときに通りを歩く彼女を見かけたが、髪をブリーチして派手なグラデーションヘアにしていて、恋人と共にやけになったかのような笑顔で歩いていた。
大きな企業だとか組織にいる、この状況に対して何かできる人はいいけれど、何もできない人はただただ諦める努力をしたほうがましなのかもしれない、と翠は思う。美登里は目を覚まさないまま世界の終わりを迎えるのかもしれない。それは不幸なのか幸せなのか、わからない。美登里の選択肢を奪った自分が判断することは、単純におこがましいと思う。
一番増えたと思うのは自殺者だった。テレビは報道を控えるようになったが、芸能人が自死を遂げるたびにSNSでは一大ニュースになる。SNSはネガティブな投稿が増え、真剣に未成年の使用を禁止すべきか話し合われるようになった。皆死を意識しすぎて怖くなって、自分でやってしまうのだろうな、と思う。
最近の翠はさほど怖くない。富良野に行くという目標があれば、しばらく気持ちが保つ気がする。
母はそんなに信心深くもなかったのに、最近は神社仏閣巡りをしたり、お経を唱えたりしている。母方が檀家をしている菩提寺に、祖父母の家に行くたびに訪れているようだ。変な宗教にハマるよりはいい、と諦めている。近頃陰謀論や新興宗教の活動が活発で、同級生の両親や兄姉が取り込まれたということを聞いたりするからだ。
最近は「未来からの使者」というグループがあり、SNSでもよく活動している。桔梗には関わるなと言われていて、話題にもしないようにしているが、選ばれた人たちを隕石衝突から救うための未来からのメッセージを、グループの代表者から受け取るために金銭を授受するというのは、いかにもこの状況に便乗した詐欺だと思う。
クラスメイトが減って、教室には三分の二しか人がいない。こんな状況でも、授業は行われる。翠はこっそり机の下でスマートフォンを出した。漫画アプリを開くと、『ブルー・ブルー・ブルー』は変わらず更新をしている。世界はこんな風なのに、絵が荒れたり急に社会派になったりもせず、淡々と穏やかな作風を貫く漫画。これまで作品しか意識してこなかった六谷怜という人物への興味が、ふと湧いた。どんな人なんだろう?
笑い猫と共に計画を練り、捲し立てるように桔梗を旅行に誘い、それでも彼女は気にも留めない様子で二人の行動を諭すだけだった。笑い猫は苛立ちを募らせ、「何で嫌なのかな」「世界終わっちゃうのにね」と翠に向けて愚痴を綴った。翠は少しホッとしていた。桔梗には何となく気後れするのだ。年上らしい落ち着き、たまに見せる鋭い言葉を、たまに怖いと思ってしまう。会っても気まずくなる気がする。
でも、桔梗がいないと困るのだ。翠と笑い猫は未成年で、未成年者だけだとホテルに泊まれない。すぐに補導されて終わりだ。桔梗もそれをわかっているのか、自分がいなければ道中に困ることも多いということを盾に、二人を行かせないようにした。
「絶対行く! 桔梗さんがどう思ってようが行くよね?」
笑い猫は翠に同意を求める。途中でホテルに泊まれなくても何とかなる、と言う笑い猫の言葉に、疑問を覚えながらも同意する。しかし、前日になって笑い猫が二人の決意を伝えたあと、ついに折れたのか、桔梗が「私も行くわ」と言った。
「え? マジマジ?」
笑い猫が浮かれた様子でメッセージを載せる。桔梗からの返事はなかったが、彼女の性格上、これで確定のようだ。翠も急展開に驚きながらも、準備を進めた。黒いスーツケースは、修学旅行に持って行こうと思っていたものだ。今年はおそらく中止になるだろうから、これが最後の活躍になる。お気に入りのTシャツを何枚も入れ、その他の着替えもいつもより多めに入れた。梅雨はまだ明けていないが、晴れた日のカンカン照りの日差しの強さはひどいものだ。いくらあっても困らないだろうと思った。
「ハンディーファンとか氷を入れるマグボトルとか、忘れないようにね」
桔梗の、同じく暑さを心配するメッセージを見た瞬間、今までSNS上の人物で、実在の人間と思いきれてなかった彼女のことを、ようやく生きた人間だと感じた。
朝、誰も起きていない時間帯に家を出ようとした。お気に入りの透明フレームの眼鏡をかけ、好きなバンドのTシャツを着、自分なりに気合を入れた格好だ。早い時間に出れば、誰にも気づかれない。あとでラインで「しばらく友達の家に泊まる」というメッセージを送るつもりだ。こんなご時世だし、納得してくれるかもしれない。
「どこ行くの?」
玄関のたたきで靴を履いていたら、後ろから声をかけられて飛び上がった。振り返ると、母だった。最近顔をよく見ていなかったので、誰だっけ、と一瞬思った。雰囲気も以前とは全く違って陰気になってしまったので、本当に母だとはすぐに思えなかった。パジャマ姿の母は、ジロジロと上から下まで翠を見ると、
「どこ行くの?」
とまた聞いた。
「友達の、家」
翠がか細い声で答えると、
「美登里ちゃん?」
と言われる。美登里の家に行けるわけがない。翠は彼女を裏切ったし、美登里自身は病院で眠っている。答えずにいると、薄暗い玄関で、母は真顔で続けた。
「変なこと考えないでね」
「変なこと?」
「変なこと。世の中で起こってるような、めちゃくちゃで信じられないようなことを、翠はしないでね」
ごくりと、喉が鳴った。母は何もかも見通しているのだ。
「じゃ、行ってくるね」
「お母さんの言ってること、本当にわかってね」
母のくしゃっと歪んだ顔を、呆然と見る。頭の中は真っ白になったが、美登里の顔を思い出し、行動を続けた。
「行ってくる。ちゃんと戻るから」
翠は機械的にそう言うと、玄関の鉄のドアを開いた。白い光に照らされた母の顔は、思っていた以上に老け込んで見えた。
歩きながら、メッセージを送る。母ではなく、美登里に。
「今までありがとう。ごめんね。行ってくる」
既読にならないメッセージを、送信する。これは誰にも読まれない遺書だった。
地元の駅から電車を乗り継ぎ、東京駅に着いた。案外地方に行こうという人は多いのか、がやがやと賑わっている。旅行目的の人が多いようだ。こんなときこそゆっくりと地方で過ごそうと思っているのかもしれない。親子連れも多い。
新幹線の券売機の前で、桔梗や笑い猫と待ち合わせをしていた。手持ちの金は二十万円ほどあり、十分すぎるほどだった。大金を持って歩くのはかなり怖かったが、リュックや洋服内に下げたカードケースに分散させて、紛失しないようにした。
桔梗はもう着いているようだった。笑い猫は静岡から向かっているところのようだ。
「金髪とでかいリュックを目印に、声かけてね」
桔梗がそう書いていて、それらしい人物を探した。その人はすぐに見つかった。とても背が高く、目にかかるほどの長さの金髪が目立っていた。ぽかんとした。桔梗さんって本当にいたんだ、と当たり前のことを思い、今から彼女に声をかけなければならないのだ、と考えて少し震えた。勇気を出して近づくと、彼女はこちらを見て品定めするような目をした。
「あの、桔梗さんですよね」
そう声をかけると、桔梗は、
「そうですけど、そっちは石ころさん?」
と首を傾げながら真顔で聞いた。心臓が大袈裟に打って、怖くてたまらない。それでも思い切り頷き、こう答えた。
「えっと、よろしくお願いします」
翠の言葉に、桔梗は微笑んだ。こういう艶やかな笑い方をする人なんだなと妙に感心した。
「よろしくね」
桔梗は思ったより優しい人なのかもしれない。そう思って、こわばりつつも笑った。
「笑い猫さんは静岡からだったよね。東海道新幹線はあと十分くらいで着くみたいだから待ってようよ」
思ったよりハスキーな声の桔梗は、歌ったら映えそうだと思った。声も姿も、目立つ人だ。こんな機会がなければ会うこともなかっただろう。ふと、どうして桔梗は急に来る気になったのだろうと思った。
「石ころさんは千葉の人だったよね。ここまで遠かった?」
「えと、まあまあ……。隣県なので笑い猫さんほどじゃないですけど」
そうだよね、と微笑みつつ、桔梗はスマートフォンをちらりと見た。先程から何度かラインの通知音が鳴っているようだ。
「桔梗さんは、実家住みですか? ご家族からですか?」
ふと聞くと、彼女はぎくっとしたかのように翠を見た。不安と後悔のような表情がそこにあった気がした。
「ご両親とか、友達とか……」
「そうだね。今叔父からかなりライン来てて困ってる」
仲のいい叔父が、家を出たことを心配して何度もメッセージを送ってきているらしい。母親だとか父親だとかではないのか、と翠は思った。
「親はさ、まあいいんだけど叔父が心配性でね……」
ラインのアプリを消すのも後々困るし、叔父からの連絡も気になるので、先程から鳴ったままにしているらしい。翠は思わずラインの設定の仕方を教え、通知の切り方を実演してみせた。桔梗はお礼を言い、隠し事って大変だよね、と独り言のように言った。
「桔梗さんは大人だから、自由なのかと思ってました」
翠の言葉に桔梗は笑った。
「全然だよ。大人って言っても成人したてだし、身内からしたら子供みたいなもん。心配かけてるんだよ、私たち」
私たち。その言葉がぐっと重くのしかかってきた気がした。今から三人で家出をするのだ。その事実が胃の中に落ちてきたような気がして、少し痛んだ。出かけるときの母の表情を思い出し、辛くなった。
自分が黙って死んだら。そのことを考えないようにしていた。というか、意識になかった。翠は自分の死後の家族のことを考えた。ひどく悲しむのはわかっているが、実感はない。
ぐるぐる考えていると、スマートフォンがバイブレーションで鳴った。Xのようだ。
「あ、笑い猫さん着いたって」
Xの画面を見ているらしく、桔梗が内容を教えてくれた。翠も見たが、「着いたよ! セミロングの髪と水色のワンピース」と書いてあった。翠も桔梗もそれぞれの特徴を書いて送る。
「あー、おはよう! 石ころさんと桔梗さんだよね」
後ろから声をかけられた。振り向くと、驚いた。翠より五センチ以上は背の低い、華奢な女の子が立っていた。ウェーブの長い髪で、くるぶしまでのマキシ丈の、ストライプのワンピースを着ている。可憐な女の子だった。睫毛がくるっと上を向いて、化粧は軽くしているだろうが、素材のよさを感じさせる顔立ちだった。
「今日は来てくれてありがとう。笑い猫です」
桔梗はにっこり笑って「桔梗です」と答えた。翠はうまくしゃべれず、どもってから自分のXのアカウント名を告げた。笑い猫とは散々XのDMで話した。にもかかわらず、本物の彼女が現れるとひどく緊張する。笑い猫は翠をじっと見つめ、
「石ころさん、眼鏡とTシャツおしゃれだね」
とにっこり笑った。人懐っこくて、明るい女の子だ。翠は何とか笑って返した。
三人は、新幹線の券売機の列に並びながら、話をした。主に話しているのは笑い猫と桔梗だ。翠は気後れをしていてなかなか参加できない。結局、手続きは桔梗がまとめてやってくれた。指定席は取れなかったから、自由席車両で席を探すことになりそうだ。新幹線の乗り場に向かい、東海道新幹線での出来事をにこにこ笑いながら話す笑い猫は、とても魅力的な少女だ。東北新幹線の乗り場は東海道新幹線のそれと近いらしく、慣れた様子だ。
「石ころさんは新幹線初めて?」
笑い猫が聞くので、翠は緊張しつつ、答えた。
「初めてかも」
「そうなんだね。新幹線は二時間くらいで仙台に着くし、それまでに石ころさんと仲よくなりたいなあ」
笑い猫の表情は柔らかく、本気でそう思っているのだなと思った。緊張ばかりしている自分が情けなくなる。すぐに伝える。
「人見知りなんだよね。すぐ慣れるとは思う」
例えば美登里と仲よくなったときのように。笑い猫はにっこり笑って「よろしく」と言った。
準備中の新幹線やまびこの自由席乗り場の列は思ったより長くなっていない。これなら思ったよりもバラバラにならずに座れそうだ。車両ドアが開き、列が動き出す。ビジネスマン風の人、スマートフォンを見ながら歩く人、カップル、子供連れの人。様々な人が北を目指して新幹線に乗り込むのだ。不思議な感慨が湧く。白い機体はつるつるとして、じっと見ていると陶器の乗り物に見える。順番が来て中に踏み込み、数十年使われた乗り物と思えない清潔な匂いがする。普段乗る電車とは少し違う、整えられた乗り物の匂い。
「三人席座れそう。あの辺りでいい?」
桔梗が指さしたのは車両の中ほどで、荷物を上に置くと、やっと席に落ち着くことができた。窓際は翠、真ん中に笑い猫、通路側に桔梗だ。
「うー、ドキドキするね」
笑い猫が本気で楽しみであるかのように顔をくしゃくしゃにして笑う。車内アナウンスが聞こえてくる。これを聞いて、翠は旅立つという実感がやっと湧いた。
新幹線が滑り出す。窓の外の風景は動きだす。東京のビル街が見えるばかりだが、思い出されるのは千葉にある我が家だ。
さようなら、さようなら。
翠は丁寧に別れの言葉をかけた。景色に、家に、家族に、美登里に、最後に自分に。
もう戻らない。さようなら。
新幹線はゆっくりと、やがて猛スピードで、走り始めた。