前奏
ピアノソナタの『月光』を聴いて思い浮かんだ小説です。
その時のことは、今でも覚えている。暗闇の中にはっきりと存在している、一筋の月の光。そんなことを彷彿させる、ピアノソナタ第十四番『月光』の第一楽章。もともとは、ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調という名で、『月光』はとある詩人が名付けたものとされている。作曲者であるベートーヴェンがつけた名前ではないけれど、僕はこの曲にはこの名前しかないと考えていた。
もちろん、ほかの曲が嫌いなわけじゃない。ピアノの音を聴くのが好きで、毎日のように聴いている。けれど『月光』は毎日欠かさず聴いている。
そんな生活で、いつの間にか耳にはイヤフォンかヘッドフォンを付けているのが日常になった。
僕の日常は、高校生活が始まってからたったの二か月で崩れた。クラス内で、僕を標的とした、イジメが起こったからである。理由については聞いても教えてくれなかった。
傍から見ると、僕は陰キャで友達のいないイジメをするのには最高の人材だったし、高校生活の鬱憤を晴らすのにはちょうどよかったのだろうか。
はじめは三人ほどの少ない人数のみでの嫌がらせで済んでいたが、だんだん周りを巻き込んで、遂にはクラス全体でいじめが行われるようになった。暴力は当たり前で、何かを命令されて、犯罪行為もやらされた。地獄のような日々で、教師も見て見ぬふりを貫いた。
けど、僕はやってこれた。『月光』を聴いていると自分の人生はまだ第一楽章で、薄暗くわずかにしか光が感じられないけれど、このまま進めば、第二楽章のように明るく月が満天の星空とともに輝いてくような未来があるはずだ。と、そう思うことができたから。
僕は片時も『月光』を聴くことをやめなかった。やめられなかった。
――だから、車のクラクションなんて、聞こえるはずなかった。
いつもの嫌がらせにより、下校時間より一時間遅い状態で帰る。冬に近づいているせいか、もう真夜中のようになっている。暗くて危険だが、あいつらがいないことで音楽を自由に鑑賞できる、この時間が好きだった。
ヘッドフォンを付けて、『月光』やその他のクラシックの音楽を流し、信号が変わるのを待つ。
青信号になり横断歩道を渡ろうとしたとき、
――赤信号なのにも関わらず、スピードを緩めず交差点に突っ込んできた軽車両に僕ははねられた。
打たれたところが焼けるように痛い。いつも殴られているよりも、ずっと痛い。脳にもダメージがあるのか、体が動かせず、めまいがして、頭が杭でも刺されているかのように痛い。
車の運転手が降り、僕に悪態をつきながら近づいてくるが、僕の状況を見て、顔を真っ青にする。運転手は急いで携帯電話を取り出すが、ふと動きを止めたかと思うと、携帯電話をしまい、周りを警戒しながら車のある方へ向かい始めた。
――まさか、このままひき逃げするつもりなのだろうか。
そう考えた僕は運転手の足を掴み、握る。絶対に逃がさないとばかりに。
一方の運転手は、僕がもう意識を失っているものだと考えたのか、「ヒッ」と悲鳴を上げるが、恐怖と焦りが合わさったような顔で僕の頭を蹴った。
力を出し切った僕はボールのように蹴られた先へ転がっていき、これ以上体が動かせなくなった。
視界が暗くなっていき、意識が遠のいていくのを実感する。
――せめて、自分の人生の第二楽章まで見たかったなぁ……。
そう思い、僕の意識は深く沈んでいった。