表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蜜柑色の希望  作者: 星原 蠍
4/4

部活動

あの後、物置のようなマットレスやバスケットボールが乱雑に置かれた部屋の中、しばらくして涙が滲むのを抑える事ができて、瞬きしても涙が流れる事が無くなったその時、襲ってきたのは激しい羞恥心だった。

 小さな子どものように、いや自身の幼い頃でさえこんな風に泣いた記憶はない程、号泣した上に、しかも人前、更には芦家という人間の前でみっともない姿を晒してしまった事に、泣いたせいだけではなく頬が熱くなって、何を言うべきか、迷ってしまって静寂が室内をつつんだ。

 その間、彼ら何も言わずに僕から目を離す事なく、側にいて、僕らは休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴るまでそうしていて、チャイムが響いた時、彼は一言「行けるか」と言ってきた為、流石にこれ以上みっともない姿を晒したくなくて「うん」と返す。すると彼は散らばったパンをビニール袋へと拾い片付けはじめて、その様子に僕のせいで食事を取れなかった事に気がついて、心の内に罪悪感がジワリと湧く。

 

「……食事」

「ん?」

「……僕のせいで、ごめん」

「あぁ、別に……いや、そうだな」

「…………」

「たしかに、黒瀬のせいで飯食えなかった」

「………それは、申し訳なかった」

「だから責任とって、明日から飯は一緒に食ってくれ」

「……なんだ、それ」

「腹減って死にそう、だから、そのお詫びに明日から黒瀬は俺と飯を食ってよ」

「……君さ、僕、君が苦手って言ったのに全く気にならないの……?」

「気になるぜ」

「……そうは見えないけど…」

「いや、本気でショックだぜ…、俺お前が居た時すげぇ嬉しくてぜってぇ仲良くなりてぇって思ったのに、まさかこんなにに嫌われる事になるなんて思わなかったし」

「…………」

「だから、せめてお前が昔みたいな顔になってくれたら、関わるのやめるよ」

「……何で、そうなる?」

 

 

 そう言って、真剣な顔をして頷く芦家に僕は本当に今度こそ理解ができなかった。

 とにかく、何だか色々とよくわからないが、僕がいくら苦手だと関わりたくないと拒否した所で無駄らしく、僕が昔のような顔をするまで関わってくるのをやめないなんて断言までしてきた上に、今日の昼食が取れなかったお詫びにこれからも食事をするように要求までされて、何故そうなったのか訳もわからないが、一言で言えば僕は彼に負けたのだ。

 彼の断固たる意思に抗うほどの熱量もなく、僕に関わってくる事を止めることは出来ないのだと何だか諦めてしまい、もうそれ以上抵抗する事はできず、脱力してしまう。

 

「お、もうこんな時間だ。早くいかねぇと授業に遅れるな、行こうぜ」

「…………」

「そういや、知ってる?今日から部活の入部受け付けるらしいぜ」

「…………」

「俺は推薦でバスケの入部決まってるんだけど、黒瀬はなんかやんの?バスケ一緒にやる?」

「……やらない」

 

 体育館の階段を上がった小さな物置位の個室を後にして、階段を降りながらそんな事を言われて、僕なりのささやかな抵抗で、彼の言葉に何も返さなかったのに彼は気にする事なく、会話を続けて来られ、さらにはバスケ部を勧められて僕は辟易してしまう。

 僕がバスケ。そんなの出来るはずがないのに何を言っているんだと、苦々しく思う。

 

「バスケは嫌いか?」

「……僕が運動できるように見えるの?」

「うーん、わかんねぇ、誰だって最初は出来ねぇしな」

「……僕は運動なんてした事ないんだよ、出来るはずない」

「んなことねぇよ、やってみねぇと分かんねぇじゃん」

「……そんなのわかるだろ」

「いや、わかんねぇって、さっき一緒に走ってきたときフォームとか悪くなかったぜ」

「……あのさ、君は日本の……アニメキャラみたいな人だからわからないかも知れないけど、僕みたいな人間が運動、しかもバスケなんてできる訳ないだろ」

 

 細く頼りない鉄板出てきた階段を鐘を鳴らすような音と共に降りて、ステージから体育館のホールに降りる階段へと向かう為に開けたステージの所まで言ってそんな事を言うと、いきなり前を歩いていた芦家が立ち止まった為彼を追い越したが、そのまま立ち止まってる芦家を訝しんで後ろを振り返ると、今まで見た中で一番驚いたような顔をしていて、僕まで驚いた。

 一体何があったというのか。

 

「えっ……アニメキャラみてぇなのは黒瀬の方だろ」

 

 酷く驚いたような顔をしてそんな事を言う彼に僕は眉を顰める。何を言っているのか理解ができなかった。

 身長が高くスタイルがよくて、顔立ちも整っていて、性格もよくてみんなに好かれていて、尚且つバスケットボールの優秀な選手だ。そんな人間より、僕の方がアニメキャラみたいだなんて何を言ってるのかさっぱりわからない。

 

「……いや君だろ」

「いや、お前だって」

 

 僕らはそんな事を言いながら、言い争って教室までの道のりを歩いたけど、この事に関しては僕も引く事は無かったし彼も引かなかった。

 こんな話をしているうちに、僕達は教室の前着いていて、僕は何だかその時間がとても短く感じられて目を瞬かせた。

 何だか芦家と話しながら、帰ってきた道のりは一瞬の言葉ようで、いつもはとても長く感じるのに、とても不思議に思えた。

 

「バスケ部くるなら歓迎するぜ」

「……しないよ」

「そっか、じゃ、なんか違う部活は入らねぇの?」

「……入らない」

「ふぅん?まあでも今日は午後から部活の勧誘活動あるから、それ見て決めてもいいんじゃねぇ?」

「…………」

「なんか入りたいのが見つかるかもしんねぇし」

 

 そんな事を言いながら、彼は教室の扉を開けると教室内の生徒達の注目を集めたのが分かった。

 芦家に手を振ったり、笑いかけたりしている生徒達。そしてその後を僕が入った瞬間、何か白けたような視線に、居心地が悪かったが芦家はそれを知ってか知らずか、僕の席の椅子を引いて座るのを促してきた。

 その様子はふざけた若い男子生徒の悪戯だったのに、どこか絵になる様子だったのか、クラスメイトの女子の黄色い悲鳴が小さく上がって、僕はその様子に呆れて隣の席に座った彼から目を離してまっすぐ前を見つめた。

 それと同時に、入ってきた教師の今から部活勧誘イベントあるぞーなんて声に、盛り上がるクラスメイト達の声の中、僕だけが置き去りにされるように落ち着き払っていた。

 

 日本では学校で部活動というものがあるのは知っていた。父から昔、日本の学校について少しだけ教えてもらった時に聞かされいたし、音楽院のクラスメイト達に幼い頃アニメで見せられた話では、スポーツ選手を部活動を通して有望な人材を育てている描写を目にして事もあり、何となくではあるがどういうものかは理解していた。

 だからこそ、僕は全く興味を持つ事は無かった。

 僕がそんな興味を持つものなんて、この世に一つしかない。だから僕には関係ないなと冷たく氷のようなため息を一つ吐いた。


先程も足を踏み入れた体育館内の、ワックスで磨かれた光沢ある床板に引かれた緑のラインに沿って歩き、先頭はステージから三馬身程の場所で立ち止まると、教室からの移動中も賑わっていた声が更に興奮したように湧き上がる。

 昼飯時にも芦家に連れて来られた体育館に再度足を踏み入れた時は、芦家の前で涙を流してしまった時日が鮮明にフラッシュバックされて頬が小さく痙攣を起こした。

 僕は、そんな思い出したくない残影を振り払うように、小さく首を振って前に向き直ると、心が湧き立つ様子で楽しげに話すクラスメイト達の輪に加わる事なく早く、ただ静かに時が過ぎ去るのを待っていた。

 

 その時、新入生達が騒めく体育館の中に活気ある一声がその場に響き、僕を含めた生徒達の注目を集める。ステージ上にはポスターや旗を持った僕達とは違う、上級生が数十人が悠々とそこに立っていた。

 これから部活勧誘のイベントが始まる事を表す先輩方の姿に、目を煌めかせている両隣の生徒達の中、僕は静かにその光景を見て、部活勧誘のイベントを開始を表す言葉を虚無の中見つめる。

 僕が冷眼傍観の目でステージ上を見つめる中、進む部活勧誘の出し物や先輩方の熱い決意表明が行われていき、それに感銘を受けた新入生の拍手が体育館の開けた空間に響き渡る。

 勧誘がつつがなく行われていく中、青藍高校はバスケだけでなく他の運動部もある程度強さがあるというのは、バレー部の紹介をされている時に、立っているクラスメイト達が話しているのを耳にしたその時、体育館内を切り裂くような轟音を起こしたサーブなどが披露され、興奮した新入生の歓声と拍手に見送られて、バレー部の部長が日本人らしく腰を曲げた挨拶を行う。

 彼等のパフォーマンスの後は「すげぇバレー入ろうかな」や「かっけーな」などと賑やかす声が響いていたが、次にステージ上に出てきた彼等の様子に、場が一瞬静まり返る。

 いや、静まり返ったのではない。彼等の雰囲気に呑まれた事は明白だった。

 

 ステージ上に悠然と立つ青藍のその名の通りの色を基調としたユニフォームに身を包んだバスケットボール部の部員達。

 

 全く興味が無い僕にも伝わる程に彼等から放たれる雰囲気に緊張して固まるクラスメイトを尻目に、僕は早く終わらないかと身じろぐ。

 確かに独特の雰囲気を感じ取ったが、様々な国際コンクールに出場して、巨匠達や観客の前でピアノを演奏していた時に比べれば大した事のない事であった為、他の一年生達のようにその場の雰囲気に呑まれるとは無かったのだ。

 

 ある種の緊張感が支配する中で行われる、バスケットボールに対しての並々ならない熱意と努力を滲ませる演説に、体育館の中央付近に居る僕から見える新入生達は耳をすませて聞き入っているようであったが、やはり僕にはあまり興味が唆らられる事は無く、程なくして演説は終わりバスケットボールの選手達はステージ上で技を繰り広げ、更に場を盛り上げた後に部活勧誘を締め括ると感銘を受けた生徒達から体育館が破れんばかりの拍手が湧き上がった。

 周囲は興奮した様子であったが、やはり僕は興味が持てなかったなと一つため息を吐いた時に思い返したのは、芦家の言葉であった。

 

 

 

『なんか入りたいのが見つかるかもしんねぇし』

 

 

 

 その言葉が脳内で響いて、僕は口元を小さく歪めた。

 そんなものは存在しないのだと、ほら見てみろと心の内で吐き捨てて、運動部から文化部に移った教師のアナウンスと共にステージ上から、運動部か去って文化部が並んでいく様子を漫然と見つめていると、ふと、目の端に金色に輝く光を捉えて、僕は目を瞬かせる。

 眩しく光を受けて輝くその姿は。

 

(…サクソフォンにフルート、トロンボーン……)

 

 木管楽器と金管楽を主に持ったステージ上にいる少人数の集まりに自然と目が吸い寄せられる。

 僕はピアノ専攻だからあまり馴染みはないが、それでも懐かしく思えるのは音楽院で触る機会もそれなりにあったからだ。

 楽器達はピアノ程ではないが、神聖な輝きを纏っているかのように光り輝いて見えた。

 その楽器と演奏者を残して、他の文化部の部員達はステージ横へと去っていく。どうやら、吹奏楽部が部活勧誘を行う順番のようだ。

 

 周りの人間は先ほどのバスケの事で盛り上がりを見せていて、あまり吹奏楽の方に関心を寄せてはいない様子であったが僕は目を釘付けにしてしまう。

 久しぶりの音楽の”気配“に血が肉が本能的に疼き出す。

 その時、演奏の準備を行う上級生達の前をステージ横から一人のスーツを着た教師が横切った。

 薄茶色の髪とその前髪を上げて晒された額の下の銀縁眼鏡は記憶にあった。

 先日、音楽室らしき部屋を見つけた時に入ってきたあの教師だ。

 

(……指揮棒だ……部活の、指導者なのか…?ということは音楽教師なのか)

 

 その様子と先日のことで推察して、教師を興味深く観察していると彼は少人数の吹奏楽部全員を見渡すと、部員達の顔つきが真剣な面持ちに変わった。

 その様子に僕は固唾を飲んで目が乾く程、瞬きせずにその瞬間を待つ。

 

(……下手、だ…………)

 

 訪れたその音色に、僕は微かに俯く。あまりにも酷い音な訳ではない。ただ、決してその音色は上手いと呼べる音色では無かった。

 

(……それはそうだ)

 

 当たり前だ、今まで聞いてきた演奏家達は由緒正しい入学も容易ではない音楽院に通っていた音楽のエリート達だ。そんな彼等を良く知る僕が上手いと思う演奏が此処で聴けるはずはなかった。

 

(……でも)

 

 俯きながらも、演奏する様子はやはり気になり前髪から覗くようにその演奏を見つめると、僕は部員達の表情に目を瞬かせた。

 

(……とても、良い顔だ)

 

 別に特別なパフォーマンスをしているんじゃない。平凡で稚拙な演奏で何かが秀でてる事なんて何もない、でも、先輩達の顔はとても楽しそうに演奏しているのが印象的だった。

 僕はその姿を見て、素朴な疑問を持った。どうして彼等はこんな演奏で、あんな楽しそうな顔をしているのか理解はできなかった。

 ふと一瞬、横を向いた銀縁眼鏡をかけた教師も生徒達と同じように笑っているのが見えて、僕は息を詰まらせた。

 どうして、こんな演奏なのにそんな楽しそうにしているのか、輝いた表情を晒しているのか僕は悔しさに唇を噛み締める。

 音楽は楽しむものだ。それこそ、そう。彼等のように煌めいた顔をして弾く事が大事な事でもある。

 稚拙な到底レベルの低い演奏でありながら、僕が必要だと思う表情の理想はすぐそこにある事実に僕は言葉を失い、立ち尽くす。

 僕はその演奏が鳴りやんでからも、動く事が出来なかった。


自分のクラスがある場所は、まだ帰っていないクラスメイト達の声で賑わっていたがこの辺は閑静な雰囲気で、人影もなく廊下の電気は消されており、薄暗く寂しげであった。

 部活勧誘イベントの全ての部活が紹介された後に戻ってきた教室で、簡素に行われたホームルームの最後に配られた一枚の紙。

 入部届と印刷されたプリントを見つめながら、一度来た事が覚えのあるその寂しげな廊下を歩み。

 

 別に入部するつもりなんてない。別に何の興味もそそられてなんて微塵もない。ただ少しだけ、演奏していた上級生達のあの顔を思い返すと、理由は分からないがとにかくもう一度近くで聴いてみたくなって、自ずと足が向かっていたのだ。

 

(……吹奏楽なんて興味ない、気まぐれで行くだけだ……それだけのことだ)

「吹奏楽入部すんのっ?」

「うわ…っ!」

 

 ブツブツと自分に言い聞かせるように小さく呟いていた所に、爽やかな声色で後ろからいきなり声をかけられて驚嘆の声を上げ、後ろを振り返るとそこに居たのは芦家でその姿に僕は目を瞬かせる。

 何故、彼がこんなところに。

 

「……っ、何できみが…」

「いつもみてぇにさっさと帰るのかと思ったら、なんか違う方に歩いてくのが見えたから着いてきた」

 

 楽しそうに笑う芦家の姿に僕は、呆れて一つ息を漏らし前に向きなおると、彼は僕の横に足早にやってきて並んだ。

 まるで大型犬が飼い主と散歩を楽しむような馴れ馴れしさに、僕は辟易して彼を一瞥する。

 着いてきた、なんてこんな友人でも無いのにそんなことをする理由が意味も分からない。そもそも、今日から入部を受け付けているのだから僕なんかに構わずに、期待されているバスケ部に行くべきでは無いのかと怪訝に見つめる。

 

「着いてきたって……、君はバスケ部に行くんじゃ無いのか」

「あー……、手を怪我した事顧問に言ったら入部受付までまだ時間あるからゆっくりしておけって言われたからまだ入部しねぇんだ」

「怪我…って」

 

 彼の左手をよく見れば、制服の袖からかすかにサポーターが手首に巻かれていて、僕はその怪我が前に僕を庇った時に生じたものな事に気がついた。

 

「……その、芦家…」

「気にしなくていいから、ほら、行こうぜ?吹奏楽部入部すんだろ?」

「……いや、入部はしない、……君は何故吹奏楽部に僕が入学すると思ったんだ?」

「この先にある部活は吹奏楽部しかねぇからこっちにきた時点でそれしかねぇと思ってた」

「そう……少し見に行くだけだよ」

「ふぅん、そっか?」

 

 怪我の事に僕が何か言う前に、彼の言葉に流されて会話が進む。

 流石に怪我の事は気がひけて、僕は彼の言葉にそれなりに返して会話を行うと彼は僕の言葉に頷いて、吹奏楽部に向かう道を促してきて、やはり吹奏楽部を見に行くのはやめようと後戻りが出来なくなったその足を、引き摺るように進める。

 

「やっぱり、バスケは興味無かった?」

「……興味があるか無いかと言われたら無いかな」

「そっか、一緒にやれたらいいなと思ってたけど、んじゃ仕方ねぇな」


 その言葉にまさかバスケ部を勧めていたのが本気だったのかと、驚かされ僕の顔よりずっと上の方にある顔を見上げるとその身長の高さを分かっていたのも関わらず驚かされた。

 すぐ横を歩いていると、本当に身長が高い。頭一つ以上違う気がする。

 僕が見ている事に気がついた芦家に笑いかけられたのと同時に、僕は前へと向き直り足を早める。

 その後も彼は、昨日食べた夕食のカレーの話や日本で流行っているらしいYouTuberの話を返事も漫ろな僕に一人楽しげに話した。

 彼が喋る度に僕達がいる静かで薄暗く寂しげな廊下を、彼の明るい声がそれを照らすようで、彼一人いるだけで雰囲気を一新するのを目の当たりしながら、音楽室へと足を運ぶと微かにサクソフォンやトランペットの華やかな音色を耳が捉え、僕はその音色に一瞬立ち止まる、

 

「…黒瀬…?」

「……………………」

「……………」

 

 立ち止まった僕の様子に3歩程先を言った芦家が振り返り、僕に声を掛けてきたが僕は彼に言葉を返す事はなく、その音の方に歩き出す。

 弾いている曲は知らないけどそれでも上手くは無い事は伝わる、稚拙な音。その音に導かれて僕は前に偶然来た、音楽室の前へと立った。

 その扉を開けるか、迷う。

 

「はい、ストップ!皆いいけど、このボカロ曲はもう少しマスターに対しての恋慕を隠す感じがいいと思うんだ、なんというかもっとボカロの娘の気持ちを汲み取って演奏してみて……」

「せんせー、面白すぎるからやめて」

「あはは、先生完全にオタクみたいになってるよ」

「いやここは譲れない所だよ皆、僕は昨日このボーカロイドプロデューサーのSNSを調べに調べてこの曲を作曲していた時に呟かれたコメントを読んできてまとめたんだけどね、この曲はただのラブソングでは無くてね……」

「やば、先生、熱意凄すぎる」

 

 音楽室の扉を隔てた向こう側から聞こえる会話に、僕は目を瞬かせる。音楽の話をしているのだろうが、僕には何を言ってるのか全く理解が出来なくて戸惑う。

 オケ用語とかではない、単語の羅列に生徒達は何がおかしいのか笑っている、それは僕には未知の世界で、僕と彼等を隔てるこの扉を開けるのを迷う。

 

「よし、早く入ろうぜ。また演奏始まっちまう」

「……っ、ちょっ、まって……っ」

 

 音楽室の扉を開くか迷い、力無く扉に添えていた僕の手に、芦家の大きな手が上から被さってその扉を止める間もなく開く。

 薄暗い廊下から、音楽室の光が洩れて眩く照らされたせいで目の奥が点滅するのを瞬きをした。

 瞬間、中にいた少人数の上級生とその前で指導していた教師の視線が僕達に集まる。

 皆んなが呆気に取られた顔をした後に、一人の上級生が「新入生だっ」と叫んだ瞬間、僕の周りに楽器を置いて、人がワラワラと一斉に集まってきた。

 

「新入生だよねっ?入部希望者?」

「二人もいるーっ、こんな早くに来てくれるなんて嬉しすぎて涙出てくるわ……」

「やってみたい楽器とかある?」

 

「ちょ、ちょっと……、いや、僕らは」

「あ、すみません、先輩達、俺はもう部活決まってて友達の付き添いっす」

「いつ僕が君と…ッ」

 

 友達になったんだ、と言おうとしたがそれは上級生の「あー、残念だ」やら「じゃあ友達は入部希望でいいんだよね」やら、盛り上がる上級生の言葉に掻き消されて、あれよあれよという間に音楽室の前に招かれる。

 少人数ながらも圧が凄くて、僕は目を白黒しながら対応に困っていると、僕らを取り囲む上級生の後ろから、落ち着いた低い声が聞こえた。

 

「皆、ちょっと落ち着いて……、見学だけかもしれないし………あれ、君は……」

「…………ッ」

 

 上級生に落ち着くように声をかける銀縁眼鏡をかけた、髪を上げた教師が僕の姿を目に止めてその瞳を見開いた。

 その瞬間、その教師の瞳が煌めいたのを僕は目にしたがその理由は定かでもなく、周りで獲物を逃すまいと群がる肉食獣の如き、上級生達を前にそんな事を気にする余裕はなかった。


吹奏楽にしては少人数の上級生達が集まり輪になって僕と芦家を取り囲んできた時の圧は、様々なコンクールに出場してきた僕からしても強く感じるもので、たじろぐ。

「ちょっと待って」と教師が輪の外で静止している声も聞かず、男女問わず上級生達は僕に興味津々と言わんばかりの様子だ。

 それにまるで入部が決定してしまったかのように、盛り上がりを見せられて僕は焦燥が駆け巡る。

 違う、そんなつもりじゃ無い。少しだけ疑問に思っただけなんだ。僕はもう、音楽なんて。

 

「中学の時は何部?もしかして吹奏楽かな?」

「……ッ、いや、その」

「あ、楽器初心者?全然大丈夫だよっ!楽譜の読み方とか最初から何でも教えるから、心配しないで」

 

 その言葉に、僕は顔が火が吹き出る程熱くなる。

 僕に、楽譜の読み方を教える?僕は物心ついた時にはもう既に、楽器の読み方なんて知っていた僕に?

 激しい激情が身の内を包み、腑が煮え操り返る。

 あんな稚拙な演奏しか出来ないくせに。音を聞けば分かるのだ。別に才能だけの話じゃ無い。圧倒的に練習量が足りていない。楽器を向き合いきっていない。

 演奏する事に縛りが何も無いというだけの彼らに、何故僕が彼にそんな事を言われなければならないのだと、あまりにも悔しかった。

 

「僕は……ッ、吹奏楽部に入りに来たんじゃないっ!」

 

 僕は、興奮を露わに思わず声を荒げる。

 その瞬間、ピアノが鎮座する音楽室は静まり返って、まるで時が止まったかのように沈黙が場を制した。

 突き刺さる視線は、戸惑いときまりの悪さが混じった気まずい物の中、肩を上下にさせてどうにか息を整えようと俯く。

 

「……ほらほら、皆、新入生がびっくりしてるよ、席について」

 

 程なくして、沈黙を裂くようにあの銀縁眼鏡の教師の一声が穏やかに響くと、それに従い波が引くように上級生達は元の配置へと戻っていく。

「何あの一年」や「言い方な」と言った声が微かに耳に捉えたが、そんなものを気にする余裕はなく、僕は音楽室の入り口付近で俯いていると隣の芦家が身じろぐ気配を感じとる。

 

「……黒瀬」

「………………」

 

「続きをするよ。四小説目から、クレッシェンドを使って表現してみよう。サックスはそのまま、フルートは入りの音をちゃんと聞くように……ほら、一年生達も入りなさい、ここに来たという事は見学しに来たんだろう?後ろで聴いていくと良い」

 

「はいっ、お願いしますっ」

 

 元の配置に戻った上級生の前に指揮棒を持った音楽教師が指示を出す中、僕は俯いて身動きを取る事はなかったが、音楽教師の言葉に芦家が答えると、二の腕を掴まれて吹奏楽部の後ろ側へと引きづられる。

 それに反応する事もなくそのまま後ろ側に回り込み、間を置かずに演奏が始まる。

 部活勧誘の時と同じ曲なのが分かったが、知らない旋律に誘われて顔を上げる。サクスフォン特有の華があり艶やかな音色とトランペット特有の勇ましく輝く音色から始まり、程なくしてフルートやパーカッションといった音色が混ざり華々しい旋律が教室内に響き渡るが、その音色は先ほどと同じように、稚拙な印象を拭いきれない。

 しかし、僕はそこよりも上級生達の表情が気になった。

 最初のうちは硬かった表情が演奏しているうちに穏やかなものへと変わっていく。その表情は心の底から音楽を楽しんでいる顔だった。

 

(……羨ましい)

 

 胸の内に、ただ一言その言葉が込み上げて、目を見開く。本当に楽しんで弾いているのが伝わってくるようなそんな表情だった。

 昔は僕も、あんな風に弾けたのに。手さえ動けば、弾けるのに、その感情に気がついた時、僕の胸にはぽっかりと穴が空いて吹き荒ぶかのように、空洞ができたかのようだ。

 僕はその演奏を、聴いて、一筋の涙を流した。

 そして、その事に自分自身に絶望をした。

 音楽で泣いたのは、初めてでは無かった。オーケストラの演奏やピアノの演奏で涙を流した事はあった。その時と全く違う涙を流している事に、僕は自分自身に対してうんざりし許せなかった。

 サクスフォンとトランペットの主旋律が華々しい、その演奏を虚空を見つめてただ静かに見つめる事しか出来なかった。

 

 ◇

 

「少し休憩にしよう」


 演奏の練習を繰り返した後、そう音楽教師が言うと上級生達の緊張の糸が緩まり部屋が雑談で賑わいを見せた。

 そんな様子を薄ぼんやりと眺めていると、目の端で隣の芦家が長い腕と足を伸ばしている所に、女子の上級生数人が集まってきた。

 

「ねぇ、もしかして芦家くんだよねっ?」

「超有名な一年の子じゃん!バスケの時期エースだって噂凄いよ」

「番号交換してーっ!」

 

 そんな女子学生の声に反応して、他の吹奏楽部の人達も集まってきて、今度は芦家の周りに集まる人集りに弾かれて輪から外れる。

 そこでピアノ側にある教壇の前に立ち、指揮棒を布で拭いていた音楽教師が群勢に弾かれた僕を見つけ、手招きをした為少し迷ったが素直に従い、教師の側へ近寄るが何も言わずに音楽教師はただ指揮棒を磨いていた。

 指揮棒を布で扱き、汚れを落とす様子をただ見つめていると反射して白く光った眼鏡の光に目線を誘われ教師の顔を見つめる。

 銀縁眼鏡をかけ、鳶色の髪を外に跳ねさせ前髪を上げ額を晒しているその教師の瞳は、アジア人の中では極めて薄い色であった。

 鼻筋や口元は細く筋が通っていて、品を感じさせるその見た目は音楽院にいた頃にいた似たような先生の面影を見た。

 薄茶色の瞳が数回、瞬きを行った瞼に閉ざされた後に此方を見る。

 

「……会うのは二度目だね」

「……はい」

 

 その言葉に、僕は素直に返事をすると扱いていた指揮棒を教壇に置いて、眼鏡を中指で直した教師が此方を見て、その薄茶色の瞳に僕を写した後に沈黙が訪れ、僕は怪訝に眉を顰める。

 呼んだからには、何か用があるだろうに何故僕を何も言わずに見つめるのか。

 

「あぁ、すまない、自己紹介が遅れた。僕の名前は清水俊一、吹奏楽部の顧問で音楽の教師をしている」

「……はあ」

「君は、黒瀬光君だね?」

 

 その言葉に、何か含みを感じて清水を見つめると彼は静かに僕を一瞥して、その目に潜む熱いナニカに焦がされそうで居心地が悪い。

 その視線から逃れるように目を背ける。


「…そうですが」

「そうか…」

 

 冷静さを醸し出す冷たい印象を醸し出す見た目なのに比例して、その視線は身を焦がす程熱い。その熱が籠った視線には身に覚えはあった。

 音楽院での先生や生徒の一部、それ以外でも僕に取材を熱心に母が断っても断っても、しつこく取材を打診する記者や父が家に帰ってた時に行ったレストランで、ステーキを食している時にいきなり現れたシェフ、そしてそれ以上にその視線を僕に送っていたのはウィーンを本拠地にしている歴史と格式高いグレンツェン・ティストン管弦楽団の指揮者であるコンサートマスターである巨匠サディ・ヴァイアンの前でピアノを演奏した後に受けた視線によく似たものであるのは明白だった。

 狂信的なその視線は、昔は受けたものであり数年前までそれは僕にとって日常的なものだった。

 だから、視線を受けて気がついた。この教師、清水は僕をよく知っているのだろうと。

 だから、僕はこの場から逃げ出したくなった。昔であれば、彼等のその熱い視線は何だか気恥ずかしいものであったけど、そこに孕んだ想いに応えるのが、自分の使命であると思っていたし応えたかった。

 でも今は違う。彼等の目が怖かった。その音楽を愛しているからこそ、僕に対して並々ならない想いを持っているのが崩れ去る所を見るのは耐えられそうに無く、僕は再度目を合わせる事無く、俯く。

 

「君は彼らの演奏を聴いて、率直にどう思ったか教えてくれないかな?」

「…………え」


 想像していたような言葉では無く、予想外の一言に僕は間の抜けた声を漏らして、思わず視線を上昇させると、清水が冷たく硬く思わせる表情の奥に激しい炎を灯している目をしていて、僕はその熱に気圧されて口を開いた。

 

「……下手でした」

 

 率直にと言われて、最初に思った事を伝える。

 これは事実だ。飛び抜けた才能を感じるような演奏でも磨き抜かれた旋律でもない、聴くに耐えない程では無いがやはり一言言うならば下手な演奏だった。

 その事を清水に伝えると、中指で眼鏡を押し上げたが、表情はその言葉に歪むことは一切無く此方を見つめていた為、僕は続ける。

 

「……でも、この演奏を聴いて此処に来てしまったのが、演奏に対しての答えです」

 

 悔しいが更に事実を、偽らずに伝えると清水は小さく頷い僕から視線を逸らし此方に背を向けた様子に僕は怪訝に眉を顰める。

 こんな事を聞いて、一体なんだと言うのか行動の意味がわからなかった。

 

「…………あの」

「君からの評価は胸に刻んだよ、ありがとう」

「…………いえ」


 何か満足げな清水の様子に、僕は訝しむ気持ちを払拭できずに唇を尖らせると、清水は何かに気がついたかのように此方へと向き直る。

 

「音楽の授業中に君の姿は無かったが、他の選択科目は音楽は選んでいないのかな?」

「…はい」

「成程?……黒瀬君、昼休みなど音楽室の鍵は僕がいる時や直ぐに戻ってくる時は開いているから、君が来たい時は来ていい」

「…………何故、ですか?」

「何故か、理由という理由は無いが強いて言うならばこの間、君が音楽室に居たのが理由だろうか?」

「……はぁ」



 答えになっていない返答になっていない言葉に僕はこめかみが痙攣を起こす。

 穏やかな口調でありながら冷たく見えるのにも関わらず、何か掴みどころが無い清水が「さて、そろそろ休憩やめて練習するよ」と上級生達に向き直るが、芦家を囲っている上級生達は芦家にまだ夢中の様子で芦家を取り囲み興奮が冷めやらない様子だ。

 そんな様子を「困ったな」とボヤく清水は数回また上級生達に呼びかけると、少しずつ上級生達は芦家から離れて持ち場へと戻って行った。

 その様子に僕は少し迷って、先ほどと同じ芦家の横に戻る事にした。

 

「何話してたんだ?」

「……特に何も」

「ふぅん……?」


 何を話したかと言われても、何の説明もしようもない特に中身もない会話だったそう伝えると、何故か芦家は今までに見せた事のない口元を尖らせた、いじけた表情を晒した為僕はその姿に目を瞬かせる。一体どうしたというのか。

 一体どうしたのか聞く前に、上級生達の演奏が始まり、開きかけた口を閉ざし横目で芦家を見上げるが彼はもう、いつも通りの穏やかな表情で上級生の方に向き直ってた為、僕もそちらに向き直った。

 そこからは、練習が終わるまで演奏を見学していた。その中で一つ気がついたのは、清水を見る上級生の表情だ。

 あまり言っていることは理解出来なかったが『ボカロ』という単語や、察するにその曲への個人的な理解を清水が述べる度に、上級生達は清水に笑顔を向けているのが印象的で、穏やかな雰囲気での練習だった。

 僕はピアノ専攻であまりこういう他の楽器が集まる中で練習をした経験は少ないがそれでもこの雰囲気は緩いのは、察することが出来た。

 音楽と向き合っているというには、不十分なその練習光景に複雑な気分にさせられて、その部活は終了した為、帰宅しようと踵を返すと芦家に引き留められ振り返るが彼はまた上級生達に取り囲まれて様子だったので僕は彼を置いて音楽室の扉を開く。

 

 一度、音楽室を振り返ると清水はまたピアノ近くの教壇に立って何かしている様子であったのを見て、僕は先の清水の言葉を思い返しながら、音楽室を後にした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ