芦家亮介
「おはよう、光さん…、よく眠れたかしら?」
「おはようございます…はい…」
「………………」
「朝食の支度が出来てますよ、どうぞ召し上がって」
「…はい、いただきます」
「…………」
木造住宅の黒褐色の階段を踏み鳴らし、階段を降りて真っ直ぐに延びた廊下の先にあるガラス窓が取り付けられている扉を開くとダイニングテーブルには、祖父がもう座っていて、僕は慌てて席へと座ると祖母はキッチンへと向かい、お盆に朝食を僕の前に刺しだきたので、僕は日本食を食べる時は手を合わせるのだと昔教わった父の教えの通り、手を合わせる。
祖父が啜る、味噌汁の音はいくら頭でわかっていても慣れず、嫌悪感が沸くが僕はそれを顔には出さず、出された味噌汁を啜らずに口に含んだ。
湯気がその熱さを知らしめるように立ち、ふっくらと立った白飯が入った茶碗、サーモンの切り身にほうれん草のおひたし。日本らしい朝食がこの家の定番の朝食なのは、此処に住み始めて日が浅いが最早理解していた。
あまり食べ慣れてはいないものの、父が稀に家に帰ってきた時、日本食を作れる家政婦に言い付けて出された事があったから、特に拒否感もなく手をつけて、でもアメリカで食べたその食事より、美味しいなと素直に思ったものだ。
数年前であれば、クロワッサンやポタージュスープ、サラダやベーコンエッグなどを好んで朝食を取っていたけれど、今はそう言ったものも食べたいと思う事もなく、僕は用意された食事を黙々と口に運ぶ。寡黙で静かな祖父母との食事は特に何か話す事も無く粛々と行うのが、浅い日々ながらそれが日常であった。
「…光、日本は慣れたか」
「………ッ」
殆ど食事中に話す事がないのにいきなり言われた一言を、僕は食べていたサーモンの切り身を喉に引っ掛けた。
慌てて、淹れてもらった緑茶を口に含み、飲み込んで祖父を見ると長期の人生を表す、深い皺が刻まれた父を彷彿とさせる、鋭い鷹のような目つきを僕に向けていて、僕は迷いながら口を開く。
「……まだ、余り慣れません」
「…そうか」
「……まだ、日本に来て2ヶ月程度だものね」
喉を低く鳴らし、頷く祖父と微かに微笑む優しげな祖母を一暼して、僕はまた用意された食事を一口食べる。
「学校生活はどう?どなたか気が合いそうな方は居たかしら」
「…………あ」
「あら」
そう言われた瞬間、箸の先から一口大の白飯が溢れてしまいテーブルの上に落としてしまう。
やってしまったと慌ててティッシュを取ろうとするよりも、早く祖母がそれをサッと手早く片付けてくれて、僕は慌てた手を引っ込める。
「申し訳ありません…」
「気にしないでいいですよ」
何をしているんだと、自分自身に呆れてみっともないなと、恥ずかしさを感じながら食事を再開したがその後は、更に質問をされる事も無く僕も態々その言葉に答える事も無く流れた場の空気のままに、食事を行いながらも、祖母から言われた言葉に何故か、脳裏に美柑色の頭髪を持つ人物を思い浮かべてしまい、咀嚼する歯に力を込めてしまう。
いや、それは違うだろうと片頬を引き攣らせながら食事を飲み込む。
入学当初から何かと嫌な思いをさせられているというのに、如何して彼のことを思い出したのか自分自身に戸惑った上で脳裏に思い描いた彼の姿を掻き消すと共に、自分の状況を正しく見つめ返して、息を吐く。
まさか祖母も入学してまた日が経っていないというのに、嫌われ始めているなどと思ってもいないだろうと思いながらほうれん草を噛み締める。
日本の雰囲気も掴めない上に、言い回しや余りにも今までと違いすぎる同級生に、僕は対応を間違えた事は気がついていたもののだからと言って、どうにかしようとは余り考えていなかった。
余りにも自分とは違う世界の住人たちを前に、別に彼等に受け入れられなくとも構わないなと半分は本気で思ったし、それを撤回しなければという焦燥も生まれなかった。
音楽を、ピアノを失ってから何だか何もかもがどうでもいいなと自暴自棄であった。勿論、嫌われているよりは嫌われていない方がどちらかと言えばいい訳だが、かと言ってどうにかしようと思えず、これからどういった対応をするか結論を出す事も出来ず、食事を飲み込んでいく。
全く本当に面倒な事になってしまったと、一度掻き消した彼の事を脳裏に浮かべて、その時同時に、昨日の出来事を強く思い出す。
『あー、今は内緒』
そう言ってはにかみ、照れた顔で笑った彼の顔や車から守ってくれた事を考えて、ぐしゃぐしゃな胸の内が更にぐしゃぐしゃになっていく。
よりにもよって彼から助けられたという苛立ち。しかし、素直に助けてくれたという感謝。
大切なものであろう、手に怪我を負わせてしまった負目。
様々な感情が織り混ざり、僕は箸を止める。
別に、こんな音楽を無くした僕を守らなくて良かったのに。何故彼が僕の手をそんな風に言っているのか、何も分からないけれど音楽を無くした僕の手などにそこまでの価値があるとは思えず、ぼんやりと昨日のことを考えしまう。
「…光さん、どうしたの?」
「…え」
「具合でも悪いのかしら」
「…いえ、すみません、…何もありません」
箸を止めて茫然自失していたようで、祖母に言われて我に帰り、急いで食事を再開する。何もかもがぐちゃぐちゃで、もう何が何だか取り留めのない心持ちのまま、最後の一口を食べ終えて、ごちそうさまでしたと一言祖母に伝えて、食器をシンクに下げて洗面所へと向かう。
気持ちを整理させなければ、と思わなくはないけれどそれをしてしまうと、何だか本当に全てが終わってしまうようなそんな気がして、僕は心の内に蓋をした。
僕は自分の心の内のぐちゃぐちゃになった絡まり合った糸を解くことなく、見えない場所へと隠し祖父母に学校に行く事を伝えて、憂鬱な気分のまま家を出た。
日本はいまだ慣れないけれど、通学路は慣れてきて初日いきなり大音量で吠えられ、腰を抜かしそうになった壁の様に聳える生垣を避けて真っ直ぐ歩いてきた細い交差点を右に曲がる。
そこから程なくすれば、出勤や通学で賑わう人々が行き交う然程大きくない駅の入り口にたどり着いて、改札機に定期を翳し人の流れに沿って進むとアメリカより数段綺麗に整備されたホームで電車を待つ。程なくすれば高校がある最寄りの駅に着いて、僕は通学路を歩く。
寝坊までは行かないが、今日は何時もよりも登校が遅いから近辺には同じ制服を着た青藍高校の生徒達が通学路を歩いていて、僕は今日も学校生活が始まるのだと少し気持ちが影を差したが、スクール鞄を抱え直し僕は高校へ向かう。
その時、前方に予期しなかった蜜柑色の頭髪が周りの生徒達の誰よりも高くに飛び抜けているのを見て、立ち止まる。
芦家だ。そう思って、一瞬彼を視界から遠ざけようと足を止めたけれど、昨日助けてもらった事が脳裏を過り、僕は彼を視界にとらえたまま通学路を歩くことにした。
挨拶は自分からするような気持ちにはなれなかったけれど、嫌悪感から素知らぬフリをするには余りにも昨日のことを無視することは出来ず、彼を見つめ歩く。
彼と僕の距離は5メートル程度、彼は賑やかな生徒達に囲まれて歩いていた。この数日でよく分かっていた事だが、彼は人望が本当に厚いらしい。彼の周りの人達は、皆彼を見て楽しそうに笑っているようだったし、遠巻きから見る彼は蜜柑色の髪を煌めかせて、周りのみんなに分け隔てなく接して居るのが伝わる。
ふと、彼が横を向いた時に見える横顔は大きな垂れた目が優しげに細められて、明るく周りを照らすような笑顔で、まるでそれは向日葵や太陽を連想させる表情だった。
彼に人気があるのは、客観視すればすぐに理解することができた。いるだけで気持ちを明るくできるような、そんな人間なのだろうと笑顔を見れば伝わってくる。
仮にもし、僕が音楽を失う前に出会っていれば、きっと僕は彼に好印象を持っただろう。
まあ今現在、僕は彼に良い印象は抱いていないけれど、それでも客観的に見て彼は魅力が多い人間なのは理解はできる。
グローバルな環境で育ってきた僕から見ても、彼は整った容姿をしていたし、その笑顔や表情は単に言えない魅力があるのは面白くは無いけれど、充分に伝わってきた。
今ここには居ない、クイーンビーの白石が言う通り彼は人を悪戯に傷つけるような人間では無いのだろう。そんな事を考えながら彼の後ろを静かに歩いて居ると、いきなり足家が彼の周りの人間を置き去りに弾かれたように走り出す。
僕はそれを置き去りにされた彼の友人達と同じように、立ち止まり呆然と目で追いかけると彼は長い足で颯爽と駆けて、あっという間に遠い場所にある歩道橋に辿り着き、よく見ればそこで荷物を抱えて降りていた老婦に手を差し伸べて、その手をとった老婦はとても嬉しそうに笑っているのが見える。
それを認めると、芦家の友人達は急いで芦家の方に駆けていくのを僕はただそれを見て、彼は本当にいい奴なのだと、その事実を認めた。
僕はそんな眩しい彼の姿に、事実として良い人間だと思ったし素晴らしい行動だと思ったけれど、更に彼に対して薄暗い気持ちが渦巻くことになって、そんな気持ちを抱く僕はとても嫌な人間だと自己嫌悪に苛まれた。
僕に音楽があれば、彼と対等に話をする事もできたろうし彼の素晴らしさを何の引け目にも感じる事なく、賞賛しただろう。けれど今の僕には何も無い、ただの抜け殻だ。
人生をかけて積み上げてきたものが何も無い、僕。そんな今の僕には彼は余りにも眩しくて、とても惨めに思えたのだ。
そう考えて僕は、やはり彼とはもうあまり話したく無いなと結論付ける。
心はぐちゃぐちゃで纏まりが無かったけれど、彼に関してだけはそう考えることが出来て僕はその事実を、自分だけは肯定するように頷く。
この数日間の様子では彼は僕にまた話しかけてくるのは明白だった。その為、僕は彼にきちんともう関わらないでほしいと考えて、友人達と笑い合う芦家の後ろを散漫に歩む。
程なく、着いた学校の門を潜り玄関口を通ると、スニーカーからシューズに履き替えていた芦家が僕に気がついたらしく、僕の方を見てパッと光を差したかのように明るい顔色を更に輝かせた。その様子に、ゴールデンレトリバーを思い出して僕は少し毒気を抜かれる。
「黒瀬っ!おはよう!!」
「…っ、おはよう…」
屈託のない笑顔で挨拶をされれば、挨拶くらいは返さなければと口から自然に言葉が漏れて、その言葉に芦家は更に笑みを濃くする。
しかし後ろから次々と来る生徒達に、このままここで話す訳にも行かない為僕はとりあえず、ローファーからシューズに履き替えようと背を丸めて履いていたローファーを脱ぎシューズを掴んで、玄関口から少し離れた校内まで歩いて履こうとした時だった。
「昨日は大丈夫だったか?」
「………ッ」
いつのまにか来ていたのか、芦家は僕のすぐ横に居て彼の声が耳のすぐ近くで聞こえて、身体が跳ねる。
小声で尋ねられた内容にもだが、耳の近くで囁かれた事で頸がゾワリと泡立ち、疼く感覚に顔を上げると、そこにはすぐ近くに芦家の顔があって僕はその近さに彼の男性としての逞しさを感じさせながら整った顔に真剣な表情を浮かべて居るのを、とても近くで目にすることになり、一瞬息が詰まった。
「…っ、離れてくれ」
「あ、わりぃ、あんまデケェ声で言わねぇ方が良いかと思って、手、大丈夫か?他の場所も痛めてない?」
「………それは、平気だったよ」
「ならよかった」
心底安堵した様子で、胸を撫で下ろした彼の様子に自分のペースを崩されてしまうのが面白くなかった。もう関わりたくない、と思っているのにいつもこうして、彼のペースに持って行かれてしまう。だから今度こそ僕は彼に伝えなければと、また調子を崩される前に彼を見上げると、彼の瞳としっかりと目が合った。
「…芦家、話があるんだけど…」
「おぉ、何?」
そのまま伝えてしまおうと、口を開きかけた瞬間、先ほど通学路を歩いていた芦家の友人達が周りにいるのに気がついて、僕は口を閉ざす。このまま伝えるのは僕としては然程構いはしなかったけれど、そのせいでまた揉めるのは好ましくは無かった。
「…あの、2人で話したいんだけど、休み時間時間をくれないかな…」
「えっ、マジ?!やった、じゃ、昼飯一緒に食おうぜっ!約束なっ」
「…えっ…、ちょ、ちょっと待ってくれ…!そうじゃなくって…っ!」
「わりぃ!俺ちょっと今から用事!!後でなーっ!」
少し、休憩時間に周りに人がいない所で話した方がきちんと伝えられるかと思って言ったのだが、彼は何故か食事の約束をして、足早に教室へと向かい足早に行ってしまい、彼を止めようと差し出した手がそこに取り残されて、僕は静かに手を降ろす。
そんなつもりでは無かったのに、しかし致し方ない為、昼に伝えれば良いかと思い僕は息を吐くと、ふと周りに居た人達に、怪訝な目を向けられているのに気がついて僕はその視線を静かにその視線を受け止めた。
「この人だよね?昨日…」
「俺聞いたけど、やばかったよ」
コソコソと話している内容に、昨日の事で僕に対して嫌悪感を抱いてる人達だと悟り僕はそこから離れようとした。その時その中の1人が、俺が聞いてみると前に出てきて、なぁ、と声をかけられたので足を止めて其方を振り返る。
「なぁ、芦家くんに何、話あんの?」
「……君には関係ない」
「…、あのさお前みたいなやつは知らねぇだろうけど、芦家くんって中学の頃から有名な奴で皆仲良くしてるし、なんていうかさ…別に陰キャでも性格とかいいなら良いんだけどさ…嫌いなんしょ?芦家くんに関わんないでくんない?」
鼻息荒く言った1人の男子生徒に、マジよく言ったーとか本当それだよね、と多分だが同調した言葉に僕は呆れて、目を細める。
なるほど彼らからしたら、何故か僕が彼に付き纏っているように見えるらしい。
ちゃんと見ているのかと言ってやりたくなる洞察力だ。
僕は相手にする気力も無くて、その場から立ち去ろうと階段に向かおうとするとそのいく先を遮るように、今度は女子生徒が僕のいく先を阻む。
「あんまり調子乗んない方が良いよー?高校デビューかなんかでイキると碌なことになんないよ?」
「…君達の話はよく分からないんだけれど、なんで僕が調子乗っていると思ったんだ?」
「…そういう態度の事言ってんのっ、陰キャの癖に態度悪いし、芦家には嫌いとか言っておいて2人で話そうとするし…、なんかそういうのやめた方が良いって、私ら黒瀬くんの為を思って言ってあげてるんだよ?」
「…はぁ、そう…何かよくわからないけど、今態度悪いのは君たちの方だろ?それに、確かに僕は芦家が苦手だけど、それが君達に何が関係あるの?」
スラスラと捲し立てると女子生徒は何故かギョッとした表情を浮かべて此方を見ていたが、僕はそれに構う事なくそのまま石のように固まった女子生徒の傍を通って、階段を登ると後ろから「まじうざい」や「性格わる」やら、そんな言葉を背に、僕は教室へと向かう。
とりあえず、昼にきちんともう関わるのを芦家にやめるように伝えては話せばこんな風に、絡まれる事も無くなる事だろう。無くなって貰わなければ困る。
しかし少しだけ、僕は芦家に同情した。芦家の行動や発言はともかく、友人である彼らの行動は芦家の為といって、彼の品位を傷つけるような事をしている。
この時僕は彼に対し初めて、彼のような人にも不条理な事があるのだなと少しだけかわいそうに思いながら、僕は教室へと足を踏み締めた。
教室についたが、芦家の存在は無かった。彼は何か用事があるようだったのでそれだろうと考え、僕は連日の通り机に座り支度を整えて教科書を読む。特に勉強は得意な方でもないが、音楽院が音楽を学ぶ場であったのと同じく此処は学業を学ぶ場である事から、特にやりたい事や周りのクラスメイト達と話すような中でもない為、暇つぶしがてら歴史の教科書を、読むがあまり興味深いものでは無い。
目を伏せて、何となしに読んでいると、右斜め前に座っていたクイーンビー、いや、白石と言う名の女子生徒が此方を見て、友達らしきクラスメイトと笑ってガリ勉、と小さく呟いたのを聞いてその意味を考える。
聞いたことがある、昔、音楽院のクラスメイトに見せられたアニメに出てきた勉強をして頭がいい真面目な生徒に、そう言ったシーンを見たのを思い出す。
そこで気がつく。なるほど、自分は周りからそう思われているのだと。
僕は然程頭が良い方ではない。音楽院では音楽だけで無く他の分野でも優秀な人間も多かったが、僕は他の分野は然程得意な事も無かった。他の事を学ぶならば、音楽だけをしていたかったしピアノを弾いていたかった。食事よりも眠るよりもピアノを弾くことのほうが好きだったから、僕は然程他の分野で優秀だと言われた事はない。
一応、ある程度の教養や知識は必要だからとつけられた家庭教師のおかげで、全くできないわけでは無いが。それでも、ガリ勉、などと思われている中で教科書を開くのは少しやりづらく思ったものの、他にもやる事もないから教科書をあまり頭に入れる事もなく、ただ手持ち無沙汰に教科書を捲り、眺めていると後ろを誰かが通る気配と共に、左隣から椅子を引き摺る音が聞こえたので、僕は横目でそちらを見やるが、横に座った彼の周りにはすぐ人が集まってきて、視線は遮られた為僕はまた教科書に目線を戻した。
「どこ行ってきたの?」やら「芦家くん、身長何センチ?」やら「超かっこいいよね」やら、そんな纏りのない言葉が投げかけられるのに対し芦家は「内緒っ」やら「190cm位だな」やら「さんきゅ!」やらと、一言ながらもみんなに上手く答えた上で、彼を亮介と呼び捨てに呼ぶ男子生徒の1人とは、楽しげにノリよく話をして、その話に皆んなが笑っている様子で彼を中心に盛り上がりを見せていて、少しうるさく感じたけれど、何だか本当に彼はアニメに出てくるキャラクターみたいだと、僕は少し思った。
聖人である上に身長や体格、顔の作りにも恵まれていて、尚且つ人助けを率先して行い、とても優しい上に、誰に対しても屈託なく接している。
何だか人間味がない気がしたけれど、そんな人間もいるのだ思って、またおざなりに読んでいた教科書を1ページ捲った時、ホームルームを知らせるチャイムが鳴った。
するとゾロゾロと彼を取り囲んでいたクラスメイト達が解散して席へと着くのだが、そのうちの1人に机を蹴られて大きくズレ、衝撃が走る。
ガタン、と大きな音をたてた机、蹴ったのか偶然かは分からないが、何か言うのも面倒なのでそのまま机を元の位置に戻したと同時に、芦家が大きな声で「おーいっ!当たったぜ!」と声をかけて、僕は目を見張ったし僕の机を蹴った、彼も芦家にそう言われて振り返り、少し慌てた様子を見せていた。
「あっ、いや…、多分当たっちまっただけだと思う…」
「なんか一言言った方がいいぜ!俺まで驚いた!」
一番窓際の席から、教壇側の前の方の席に真っ直ぐ投げかけられたその声は、ホームルーム前の教室内に響き渡り、クラスメイトの注目を集める。前にいた彼はそんな中しどろもどろに小さく、「あー…わりぃ」と僕を見ずに呟き、座ると同時に教室内に入ってきた担任の言葉で漸くその場は、いつも通りのこの学校内の雰囲気を取り戻したが、僕は何だか、まさか彼がそんな事を大声で言うとは思わず、そのまま横を見ると、彼は僕の方を見て、小さく大丈夫かと声をかけてきたのに対して僕は何も言わずに顔を背け、教師の方に顔を向ける。
庇ってくれたことは理解したが、元々は君のせいでこうなったんだと苛立ちながらも、やはり良い人なのだろうと思って、何だか少し複雑な気持ちにさせられながら、僕は教師の話に耳を傾けた。
正直に言えば、本当もう放っておいてくれという気持ちが強かった。いくら良い事をしてくれているのだというのは理屈ではわかっても、やはり僕はなんだか彼が苦手だしこの学校生活もとりあえず卒業できればそれで良いので、気にかけてもらうより彼が僕に関わらなければ、その内こんな抜け殻な僕を気にする人間はいなくなって、静かに暮らせる。
そうなったら良いのにと、纏まりのない気持ちの中でそんな風に此処最近に一番鮮明に、心の底からそう思って、僕は頬杖をついた。
◇
昼休みを知らせるチャイムの音が教室内に響いて、クラスメイト達の緊張の糸が解けるように身体を伸ばして、騒めく中、僕は唾をごくりと飲み込み、左隣の席を見ると芦家の周りには人が集まりかけていたが、彼は勢いよく立ち上がると、わりぃ!今日は用事があると言って僕の側へとやってきた。
「黒瀬は弁当あんだよな?俺も買ってきてるから、行こうぜ」
「…いや……分かった」
食事はしなくていい、と言いかけたが、周りの芦家を取り囲むクラスメイト達が僕に怪訝な目線が突き刺さるのが居心地悪く、僕はまたここで揉め事を起こしたくなくてカバンの中から持たされた弁当を取り出して、立ち上がる。
瞬間、この芦家の周りにいたクラスメイト達が男女問わず挙って不満を口にする。
「えぇーっ、芦家どこ行くのっ?!」
「一緒にご飯食べたいーっ」
「芦家、今日見たがってた漫画持ってきたぜ」
「亮介、後でな」
「わりぃっ!今日は黒瀬と約束してんだ!漫画も持ってきてくれて、さんきゅなッ!後で貸してくれ!」
「…ッ、え、ちょっとま…ッ!」
そう言って彼は僕の手を掴み、走り出す。手を引かれて、教室の外に連れ出されて真っ直ぐ伸びた廊下を駆ける速さは僕を引いているというのに誰よりも早くて、もたついて転びそうになるのにそれさえも彼が引っ張り起こして、颯爽と駆けるものだから転ぶ暇さえなく僕は彼に連れられて、昇降口の前まで連れて来られて、彼はそこで漸く走る速度を下げて、立ち止まった。
今まで室内はおろか外もこんな早く走ったことはなかった為、息が上がりゼェゼェと喉が鳴って、僕は今まで酷使したことなど無かった脚が震えるのを落ち着かせようと息を整えて余りのスピードに目を回していたのを、首を左右に振って正常に戻そうと、していると隣で芦家が「大丈夫か?」と声をかけてきたのを、僕は呆然と目を向ける。
大丈夫な訳がない。何故こんな事をしたのかと、落ち着かない呼吸で言葉で問いただせない代わりに、目だけで彼を非難すれば、彼は走ってきた事など感じさせない様子で、顔の前に片手を出して、謝罪のジェスチャーと共に一言「わりぃ」と言ったが、僕はまだそれに対して何も返す事はできず、ただただ荒い呼吸を繰り返した。
「アイツらから離れたい時は、ちょっと強引に離れるしかねぇんだ、ごめんな」
「はぁ…ッ、ハァ…、そ、れにしても、こんな…ッ、そもそも廊下をこんな速さで走るのは危険だろ…ッ」
「それはそうだな…、本当わりぃ…、でも、こうでもしねぇと芦家と話す事、出来ねぇと思ってさ」
「…ッ、な、に?」
「芦家とやっと話せると思ったら嬉しくて、仲良くなるチャンスだと思ったら此処はぜってぇ逃せねぇと思ったんだ」
「…ッ」
僕はその言葉に息を詰まらせる。何なんだこの直球の好意は…?内緒だと言っていた、理由によるものなのだろうが、こんなにも真っ直ぐに、そして爽やかに仲良くなりたいなどと言われた事は、アメリカでも無かった。
何故彼が僕とそんなに仲良くなりたがっているのか、それはあの事故に遭いそうになった時に言っていた内緒だと教えてはもらえなかった、事によるものなのだろうか。そう考えて、すぐに僕はその事を考えるのをやめる。
どんな理由だろうと、そんなの僕には関係ない。思っていた事を伝えてもう関わってくるのをやめてもらおうと、僕は漸く治ってきた息を、深く吸い込んで浅く吐いた。
「芦家、それで話なんだけど」
「此処降りた所、体育館のすぐ側なんだけと、飯そこで良い?」
「…っ、ちょっと話を…」
そう言って、芦家は今度は此方を気にする事なく階段を足早に降りていってしまい、僕は追いかける以外に選択肢がなく、眉を顰めて階段を長い足を利用して、さっさと降りていった芦家を追いかける。
全く彼のペースに巻き込まれてばかりで、気分は良くないし苛立ってしまう。でもそれも今日が最後にしてやると僕は気持ちを強く持って、一階まで降りると芦家は体育館へと向かって伸びる渡り廊下へ向かって歩いていて、僕もそれを追いかけて渡り廊下へと向かう。
彼は脚が長く、歩幅が大きいようで少し小走りなだけでどんどんと先を歩いてしまっていくから、僕は必死にそれを追いかけて体育館へと入った。
まだ授業でも、来たことが無いその場所に芦家は何故か慣れた様子で体育館のステージの階段を登り、奥にどんどんと入っていこうとするので、流石にこんな所に入って良いのかと、僕は焦って口を開く。
「…っ、こんな所、入ったら駄目なんじゃ…ッ」
「大丈夫大丈夫、もう顧問にも昼飯此処に来て食ってもいいっておっけーもらってるし、先輩達にも使って良いって言われているからっ」
そう言って、奥に入っていく芦家に僕は目を瞬かせて先に行く彼を追いかけるしか無い。
彼の言う事に、そんな馬鹿な、と思う反面まだ少し彼の事など知らないが、彼がそういうならば嘘でもないのだろうと思わざる得ないのは、彼と言う人間の成せる所なのだろう。
埃っぽい細い階段を上がり、その先にあった扉を開いて中に入り手招きする芦家に、素直に聞くのは嫌だったものの小さく息を吐いて、その扉を潜るとそこにはバスケットボールが転がった部屋とロッカーだらけの小さい部屋であった。
「ここ、前の部室で今使ってないらしいんだけど使っていいぞって鍵もらったんだ」
「…どうやって…?」
「へへ、内緒」
埃っぽい室内の中、芦家は小く高い所につけられた小窓をその長身を活かして開くと、篭っていた空気が循環され詰まった感覚が抜け、呼吸が幾分楽になった気がする。
そして芦家は部室にあったマットにドカリと腰掛け、ビニール袋をガサガサと音を立てて漁り始める。
「よし、食おうぜ…、これ近所のパン屋さんから買ったのとおまけで大量にくれたパンが入ってるから黒瀬も好きなのあったら食えよ」
そう言って彼は胡座をかいた自分の上に、個別に薄いビニール袋で包装されたパンを抱えて笑う。
僕はその顔が、なんだかとても眩しく見えて息を詰まらせた。そして小さく息を吐く。
「パンはいらない」
「えぇ?でもこんだけあるんだし、なんか食えって…、あ、これとかうまいよ?」
そうして差し出されたクロワッサンを、僕は無視して芦家を見つめると、芦家その大きな目を瞬かせて僕を見つめていたので、自分の拳を握って、思っていた事を漸く伝えられると少し震える口を無理やり開く。
「もう、僕には関わらないでくれ、…迷惑だ」
「………………」
「君が僕となんで仲良くしてみたいと思ったのか知らないけど、僕は君が苦手なんだ……。それに、僕は何か君が思うような人間じゃないよ…、君、僕がピアノが上手いから話してみたかったんだろ?」
ピアノがない僕なんて、何もない抜け殻だ。それはそうだ、だってずっと全てを賭けてピアノだけに没頭してきたんだから。
だから、それを無くした僕は、黒瀬光という形をした何者でもない存在だ。だからもう、昔の僕の面影を僕に見ないで欲しかった。
なんの価値も無くなった僕に、価値があった頃の僕を重ねないで欲しかったんだ。
「……君が知っているかは知らないけど、僕はもうピアノは弾けないんだよ……ッ」
「………………」
「……、話はそれだけだ」
それだけを伝えて彼を残し、僕は踵を返そうとした。その時、彼の澄んだ声が蛍光灯がぶら下がりバスケットボールが転がる室内に通る。
「確かにお前のこと、ピアノの事で知っていたよ」
「………………」
「でもな、俺はピアノ以外のお前の事が知りたかったんだ」
最初の言葉にやはりなと、顔が歪んだが次の言葉になんと言われたのか理解ができず、出て行こうとした扉の方を向いていた顔を、思わず彼の方に振り返った。
その時の彼の表情は、一寸の迷いもなく此方を確りと曇りの無い瞳で射抜いていて、僕はその目に気圧されてしまいそうになって、手がピクリと痙攣を起こす。
「俺はお前の事、ピアノ以外何もしらねぇから知りてぇと思ったんだ」
「…………何を言って…」
「……俺の事苦手なのは分かった。でもな、やっばり俺、放っておくのはできねぇ」
「……何で?」
「俺、お前に助けられた」
「……助けられた?僕に…?」
「あぁ、お前のピアノで、俺はすげぇ色々助けられて…。だから、ずっと死にたそうな顔しているお前の事、放っておくなんて俺はしたく無い」
「…………ッ…」
「だからさ、動画でしか見た事ないけど昔みたいな顔していてくれるようになったら、俺から話しかけんのはやめるよ」
「……ッ、本当、勝手なことばかり…ッ!昔みたいな表情ってなんだよッ、いつの事を言ってるのか知らないけど、そんなのはもう無理なんだよ…っ」
彼の言葉に、頭に血が上り頬がカッと熱くなる。何を言っているのか分からないし、自分勝手な事ばかり言う彼に腹が立った。
昔のように?当たり前だろう。昔と今で表情が違うのは。音楽があった頃の僕とそれが無くなった僕とでは、中身が全く違うのだ。それを、昔みたいな表情にならなければ要求を飲まないなどと、言う彼に対し僕は沸々と煮えたぎる怒りが湧き出した。
「何でだよ?」
「何でって…ッ!何度も言わせないでくれっ!僕はもうピアノが…っ」
「ピアノが弾けなくなったからって、ずっとそんな顔してなくていいだろ」
何でもない事のようにそう言われて、呆気に取られる。晴天の霹靂だった。驚愕に目を見開いて、しかし、すぐに沸々と湧いてきた怒りにそれは覆い隠される。何を言っているんだ、この男は。
どれだけ僕がピアノを想っていたのか知らないからそのような事を言えるのか。自分の命よりも大切なものを失って、君もそう思えるのかと、口元を引き攣らせる。
「君は何も知らないからそんな事を言えるんだっ!!……ッ、僕がどれだけピアノを…っ!」
「…言い方が悪かった…、黒瀬がピアノをすげぇ大事に想ってるのは知ってんだ…、じゃ無かったらあんな風に人の心を動かせる訳がねぇって…」
蜜柑色の頭髪を少し困ったように掻き回して、少し反省したように目を伏せる様子を見せる芦家を見て、僕は自分が興奮して呼吸が荒くなっている事に気がつく。
こんなに感情を揺さぶられたのは、本当に久しぶりの事だった。そして気がつく。ピアノを失ってから全てが色褪せてどうでもいいのに、そんなのを気にせず僕の中に入り込んでくる彼にだけ、こんな風になってしまっているのだと。
「大事なものを無くしたら辛ぇけど、でもやっぱり、俺はお前にそんな顔していてほしくねぇんだ」
「……ッ、僕にはっ!ピアノしか無いんだよっ!ピアノが無い僕なんて…っ!」
何の価値も無いのだ。そう思って、そう言おうとした瞬間、座っていた彼が勢いよく立ち上がり、辺りに包装されたパンが音を立てて辺りに散らばる。
その音と共に、口を大きな節くれだった手で抑えら包み込まれていて、その言葉は口にする事なく飲み込まれた。
「そんな事ねぇ」
「………ッ」
言ってないにも関わらず、彼は僕が言いたかった言葉を真っ向から否定した。
彼を見上げると、彼は真剣に僕を見てその目は何か大海原を思わせる程、深く澱みが無い目をしていた。
その時、僕は目の奥がジンと熱くなって、色んなことに対する悔しさ涙が溢れてしまった。
ポタポタと彼の手に降りかかる自分の涙に、僕は彼の腕を力無く押すと、彼の腕はそのまま意外にも簡単に離れていった。
抑えられていない口から少し嗚咽が漏れてしまうのを抑えられなかった。
「……俺は、お前の事まだ何もしらねぇけど、でもすげぇ手が綺麗なやつだってのは知ってる」
「ふ…っ…うぅ……、そ、んなのが何だって…ッ」
「ただ綺麗だったんじゃねぇ、あんなふうに自分の手を管理できるのってすげぇと思う」
「…それだって!ピアノを弾く為だから…ッ」
「ピアノを弾く為に努力したのはお前だろ」
そう言われて、そんなのはただの自己管理だと思うのに、何故かその言葉に涙がどんどん溢れてきて、手の甲で擦るけど止まることはなかった。
止めどなく溢れてくる涙を流す間、彼は何も言わずに僕の側にいた。
涙を溢して瞑る目を、たまに開くとボヤけた視界の先には彼の蜜柑色の髪の色だけが鮮明に見えて、僕は何かが決壊してしまったかのように、何故か止める事ができない涙を流す間中、僕の目には彼の蜜柑色の頭髪が写り込んでいた。