ジョックとナード
親しみのない国、日本。僕が初めての首都東京に足を踏み入れた時に感じた事は一言でニューヨークと然程大差がないな、だった。音楽院があったニューヨークで暮らしていた僕にとって、都心部の違いは然程無いに等しいもので、どちらも空に伸びるようなビルが建ち並び、人目を引く何かを宣伝する看板が煌々と光を放ち、雑踏に行き交う人々の大半がアジア人なのが東京。白人と黒人が大半で稀にアジア人が居るのがニューヨークである事位しか違いは感じられないものだった。
前に音楽院にいた時のクラスメイトは、是非東京に行って旅行をしてみたいよ、なんて話していて僕にいつか、ヒカルの故郷に行ってみたいななんて僕を取り囲み、笑って皆んなが言っていたのを思い出していた時、古い車のエンジン音が僕の横を通り過ぎて行った時にあまりにも耳障りで、僕はその車を眉を顰めて見つめていた。
その小さな日本で流行っている、軽自動車が走り去って小さくなっていくのを見て、これもニューヨークには無かったな、と思う。
僕は数年前の記憶を何故か思い出して、小さなため息を吐いた。何故こんな事を思い出しているのか、もう失った楽しかった頃の幻影に思いを馳せ色褪せた、慣れない通学路を歩く自分があまりにも惨めに思えて、僕は頭を振って学校の門を潜る。
下駄箱の小さな扉を開いて、中にあった白い室内履きのシューズへと今まで履いてきた、なめした牛革の質の良いローファーから履き替える。
まだ日本の生活には慣れないが、この登校に関しては数日繰り返してきた為違和感が薄れてできるようになってきていたが、そんな事に気がつく余裕なんてない程に、今僕は憂鬱な気持ちでいっぱいだった。
また今日も朝が来て、この学校の生活が始まる事実に、片頬が軽く痙攣を起こす。
それでも教室に向かうしかない為、僕は玄関口から天井が高く作られた開けたホールへと向かい、そのホールの左右に作られた階段の自身の教室に近い方である右の階段を選択し階段を一段、また一段と上がって1-Aと表記された、扉の前で立ち止まり、教室内を見渡す。
いつもの如く、笑い合いスマホを見ながら何がそんなに楽しいのか笑い合っている、クラスメイト達の姿の中に、脳裏によぎった蜜柑色の輝きは無く、そそくさと自分の席に着く。
ガヤガヤと、騒めく声はまるでホワイトノイズのようにただただ生活音の一部に溶け込み、脳内に入り込んでくる事はない。僕はその中で静かに今日の学校生活の為に身支度を整える。そんな中、僕の前方の右の方では男女合わせて四名がスマホを握りながら、楽しそうに雑談をしていて、教室中に笑い声を響かせていた。その声が少し煩いなと其方に顔を向けると、その中にいたのは先日の女子の一人であり、その彼女を中心にして盛り上がっているようでその様子から僕は昔、音楽院にいた頃のクラスメイトの話をまた思い出す。
スクールカースト、それはアメリカニューヨークにも良くあるらしく、その中で暮らしていたのは本当に大変だったと嘆くクラスメイトの様子はやつれた山羊を彷彿させるほどの、険しさを滲ませていた。
僕は経験したことがなかった。僕は幼い頃は殆どピアノ関係のことで学校には行ってなかったし、音楽院では僕が最年少の子供だからか皆んな僕に話しかけてくれていて、そういった事とは無縁だったからそういった事を知らない僕に、スクールカーストの怖さを教えてくれたのだ。
スポーツマン、鍛えられた肉体、セレブであることが条件の男性の中で地位が最も高いジョックに華やかな容姿にカリスマ性を併せ持つ女性しか許されないクイーンビー、それらに従属するサイドキックス…、僕は熱心に僕に語っていたクラスメイトの話していた内容を思い出していた。
まあこの話は、後に幼い僕を揶揄っていただけでそこまで厳密なカースト制度などはないのだと、僕に行き過ぎたカースト制度を教えたクラスメイト達を叱り、呆れた様子でブロンドヘア靡かせたヴァイオリニストで面倒見が良かったティアが教えてくれたのだが、まさに今その光景はまさにスクールカーストの上位層の特徴を思い出させた。
もしかするとこれがスクールカーストという物であるのではないかと察して、僕は噂に聞いた事のある目の前の光景をマジマジと見つめる。
暇に任せて、更に良く見れば彼らは声も大きく身振りも大きく、彼らに遠慮するように周りの人間は彼らを避けるか、彼らに合わせて笑っているだけで会話には混ざっていない人間もいるようだった。
このクラスの中心的な存在であるのは、あまりよく分からない僕でも何となく察する事ができた。それに対して僕は、昔聞かされたヴァンパイアにでも本当に会ったかのような気持ちだった。昔聞かされた、悍ましい顔をして話された子どもに言って聞かせる怖い話が目の前で現実に存在していているのが不可思議だったのだ。
その時、教壇側の方から見覚えのある蜜柑色の髪色をした彼、芦家が入って来た瞬間、今まで話していたクイーンビーと思わしき先日僕に対して、芦家の事でとやかく言ってきた髪が肩で切り揃えられた細身の彼女がすぐに其方を向いて、それに伴い周りの人間達もこぞって彼の方に目を向ける。
「おはよーっ!足家!」
「うぃーす、亮介、今日は早いな?」
「おぉ、おはよ、今日は朝練短めの日だからね」
そう言いながら、通り過ぎようとする芦家に何とか話しかけようとしている彼等の様子に、僕は目を丸くする。
カースト上位であるようだったのに、芦家は彼等に混じらずに此方に歩いてきた為、僕はサッと顔を背けた。冷静を装おうとも、彼から先日言われた言葉に対して、勿論怒りはあるがそんな事を言ってくるのにも関わらず、僕に笑みを浮かべ話しかけようとしてくる得体のしれなさが勝り、兎に角彼に対してどうしていいのかがわからないでいた。
勿論無視できるなら無視したいが、そうさせないのが彼という人間らしく、彼は目を背ける僕に気にせずに話しかけてきた。
「おはよう」
「………」
「なぁ、おはよう」
「……っ」
「…おーい、おはようっ」
「……っ、お、はよう」
最初は聞こえないふり、次に無視をしたが彼はそれでも此方を気にする事なく、僕の目の前に立って顔を屈めて挨拶をしてきた為、流石にそれ以上どうする事もできず、挨拶に返答をしてしまう事になると、僕の呟くような挨拶に対して人懐こく、ニコリと笑って僕の隣の席へと着いた。本当に訳が分からず、理解ができずで、彼の存在に僕は警戒心を抱いて、彼を横目で盗み見たが、彼は機嫌が良さそうに笑みを浮かべながら身支度を整えているのを見て目を細める。
一体何でこんなにも、何を考えているのか読ませないのかが掴めず目線を送っていたが、わらわらと彼を取り囲むようにして、先程のクイーンビーを含めたサイドキック達が芦家の周りに集まってきて、僕の彼を見ていた視線は切れた。
「ねぇねぇ、先輩言ってたけど青藍バスケのエースは芦家に早々に変わるって話してたけど本当っ?」
「え、何どゆこと?」
「あー、亮介はバスケの推薦で青藍入ったんだよ」
「まじ?!すげぇー、青藍バスケって強豪なんだろ?スーパースターじゃん」
「中学の時も、芦家は凄かったんだよー?三年のインターハイとかさ——」
盛り上がる会話に、聞くつもりがなくても聞こえてくる彼の身の上話が耳に入る。ここがバスケの強豪という話さえも知らなかった。別に知りたくもなかった情報だけど、確かに耳に入った話に僕はついその話に耳を澄ませてしまう。
「——なんて事があったんだよ?凄くない?」
「すげぇー天才じゃん」
「半端ねぇな」
「全然、俺なんて大した事ないよ?もっと上手い人とか普通にいるし」
「えー、謙遜する事ないじゃん?」
「そうだって!充分凄すぎだろ」
天才、という言葉に身体が嫌悪感を示すように小さく跳ねたが、彼を褒め称える様子に、僕はこれが噂に聞いたスクールカースト最上位のジョックが芦家なのだと理解した、その時に芦家は「本当のことなんだけどな」と呟いた後、更に「ごめん、そこ退いてくんないかな?」と言った瞬間、僕と芦家の間にさえぎるように立っていた男子生徒が一歩横にずれた瞬間、彼はぼくをしっかりと瞳に捉え此方に顔を向けている。
その大きめで厚めの唇が、紡ぐ言葉に僕は言葉を失うしかなかった。
「俺、黒瀬と仲良くなりたいから」
そう彼が言った瞬間、芦家から目線を遮りそこにいた芦家以外の人間が僕に視線を向けて舐めるように見つめられていて、僕はその言葉に焦燥が滲む。何故いきなり。
冷たいクイーンビーや戸惑った様子を見せるサイドキック達の視線を受けて、僕は余計な事をしないでくれと苛立ちながら、芦家に目を向けた。
そう彼が言った瞬間、芦家から目線を遮りそこにいた芦家以外の人間が僕に視線を向けて舐めるように見つめられていて、僕はその言葉に焦燥が滲む。何故いきなり。
冷たく此方を見たクイーンビーと思わしき女子生徒や戸惑った様子を見せるサイドキックと思わしき男子生徒達の視線を受けて、僕は余計な事をしないでくれと苛立ちながら、芦家に目を向けた。
「え、亮介の友達?」
「名前なんていうの?」
少し戸惑った様子で僕を見つめる彼等の視線に居心地悪く、身を捩った。
僕を上から下までジロジロの見る視線に眉を寄せるが、聞かれておいて答えないのも如何なものかと思うので、僕は渋々口を開く。
「…黒瀬だけど」
「見かけた事ないけど、中学この辺?」
「…違うよ」
「いつ、仲良くなったんだ?」
「…………」
「まだ、仲良くなってねぇんだ」
「なんだそれ?」
「これから仲良くなるつもり」
「芦家の片想いみたいだな」
「どういう知り合いなの?」
「んー、秘密かな」
「えっ、どんな関係なんだよ本当に?」
今まで僕の事を何も気にしなかった人間達が、芦家が僕の話題を出しただけで話しかけてくる事が、若干不快に感じて眉を寄せたがそれに変わるように、今現在の話の中心に位置する彼が代わりに応えて、話は進む。彼らは僕と芦家の繋がりが気になるらしく、探っているようだが芦家は一応僕の過去の事を言うつもりはないらしく、はぐらかしていたがその言い方では人の好奇心を煽るだろうと、僕は目を細め眉を顰める。
「あーっ!わかった!黒瀬くん、ずっと黙ってるから芦家が友達になってあげようとしてるんでしょ?」
その時、セミロングほどで切り揃えられた髪は艶やかに潤ませた、手入れされているのが良くわかる黒髪を持った細身の女子生徒が、閃いたと叫んだ声に僕は顰めた眉を更に濃くする。
「…何を言って」
「だって黒瀬くん、すっごい真面目そうだし…なんか凄い私立行きそうな感じそうで、なんて言うか芦家とタイプ全然ちがうじゃんっ、だから芦家が気にかけてあげてんのかなって!」
「あーっ、きっとそうだよー白石さんっ……流石の洞察力…」
「……まあでも確かに、タイプはちょっと違う感じすんな、真面目そう」
「…そうなの?亮介」
「全然違ぇんだけどな」
クイーンビーと思わしきその女子生徒、白石発した直後に彼女を全肯定するように同調する男とそれに続く男の後に、一人芦家を亮介と呼ぶ男が彼に問いかけると、芦家はしっかりとそれを否定したが、白石は止まる事なく早口で押し黙る事はなかった。
「芦家、優しいじゃん?誰にでも分け隔てなく接してあげるしさ…、いつも中学でも陰キャに優しくしてあげてたじゃん」
その言葉に僕は前に聞いていたスクールカーストの話をまた思い出していた。スクールカーストにはその言葉通り階級があり、上位階級、中位階級、下位階級と別れていて、芦家はその一番上のジョックでありこの場にいる者は上位階級なのだろうが、僕は違うのだと言う事を白石は言っているのだと、気がつく。
ナード、それは昔教えてもらったスクールカーストの最下位に存在する人間。
僕にこの話を教えてくれたクラスメイト、ダニエルは昔自分はそこの位置に属していたと彼は言った。
ここまでは登り詰めると何も言われないけど、男のくせにピアノ弾いてるとこう言われることも多くて大変だったんだよ、なんて遠い目をしていた彼の言葉を思い出す。
そして今言われた言葉を、鑑みるに僕はこのスクールカーストに位置付けられた場所はその箇所なのだろうと理解する。
そして理解したと同時に、腹に溜まった薄暗い気持ちが僕の声帯を震わせる事になる。
「…くだらない」
「…え?」
「ん?」
「くだらない、と言ったんだよ」
「っ、え、何、いきなり?」
「うおぃっ、白石さんにいきなり何だよ…っ!?」
僕が白けた目を向けると、白石は目を丸くして赤いリップが施された唇を震わせて目を丸する。それと同時に白石に鼻の下を伸ばした男が、僕に対して威嚇するように叫んだ為、僕は面倒になって椅子から立ち上がる。
何てレベルの低い話に巻き込まれたのだと、うんざりした。
「この際だから言うけれど、僕はそこの彼、芦家に話しかけられるが不愉快なんだ」
「え、何?いきなり、最低なんだけど…」
「は…?」
苛立ちに任せて、この数日間で溜まった鬱憤を勢いに任せて直球に伝えれば、芦家以外の人間達は僕の言葉に目を丸くするのを冷ややかに見つめる。聞いていた話以上にレベルの低いやり取りに僕はそもそも感情を抑える事が上手くはないせいで、溜まった鬱憤を吐き出し、これ以上その場に留まりたくなくて去ろうとした時、女子特有の高い声が張り上げられる。
「待ってよ!そんなの、芦家に悪いと思わない訳?!」
「思わない、僕は彼があまり得意じゃない」
「…ひど…っ」
「おいっ!白石さんを傷つけるなっ」
「きっついな…、何だよ本当…」
「一旦、ストップ」
殺伐とした中に響く彼の静かな、けれど芯が通った声に僕は振り返り、その声の蜜柑色の髪色をした椅子に座っている彼を一瞥をくれると、彼は困ったうに笑った。
「えーと、こういうのやめようぜ?…まず、黒瀬は悪くねぇからみんなでやめてな、俺が最初に嫌な思いさせちまったんだ、だから俺がわりぃんだ」
「…………」
「あ、そうなのか…?」
「そういやちょっと前なんかあったな、その時か」
「…っ、それにしたって今の言い方は酷いじゃん!私芦家の事凄い知ってるけど、絶対人に酷いことなんて言わないのにそこまで怒るなんて、黒瀬くんが変だよ…っ」
「…白石だっけ?俺の事、庇ってくれてありがとう、でも、本当に俺が悪いこと言ったからさ」
「じゃあっ、何て言って黒瀬くん怒らせたのか教えてよ…っ!」
「…内容はいいだろ、これは俺の黒瀬の話なんだし」
「無理っ!芦家が酷いことなんて絶対言わないのに納得できないっ!本当に酷いこと言ったなら教えてよ!!」
僕は深く少しずつ吐いて、目を閉じた。何故こんな面倒な事になったのか、何が何だか分からなかったしカースト最上位グループと僕が揉めているのを見て、外野のクラスメイト達もヒソヒソと喋りながら此方の窺っているのが分かった。
僕はもうどっちが良いとかどっちが悪いとか、どうでもよくてこの低レベルな会話を終わらせたくて、真実を口にする事にした。
「『指、そんなに握りしめない方がいいぞ、折角、綺麗な指なのに』」
その言葉を口にした時の、その場から見えた芦家以外の一体何を言っているんだと、ポカンと間の抜けた表情を晒す彼らに僕は続ける。此処は学校、別に来たくもなくて来た場所なのだから勉強だけしておけば良い場所な筈だ。だからもう、それを言ってしまえば反対に僕に関わってこないだろうと思って、口を開いた。
「彼は僕にそう言って、それで僕が怒ったんだよ」
「…は?何それ、そんなの怒らせる事じゃないじゃん…っ!」
「えぇ?わけわかんねぇ…」
「何なんだ…?コイツ…?」
僕がそう伝えた瞬間、芦家以外の人間の表情が人それぞれ、深くか浅くかはあるものの嫌悪感が滲む表情を晒したのを認めて、僕はその場を後にしようとした瞬間、声が走る。
「黒瀬っ」
「…っ」
「芦家!追いかけなくて良いってっ」
「…亮介、今はやめておけよ」
僕の隣の席の彼、芦家の声を無視して僕は廊下に出る。クラスのある程度は出席していて言い争ってていた僕はクラスメイト達からの視線を集めていた。全く、朝から彼のせいで最近は連続で問題が起こって、うんざりさせられる。
僕は胸ポケットにしまってあったスマホの時間を一瞥して、チャイムが戻るまで頭を冷やそうと人気のない場所がないか、探しに散策しようと足を早めた。
アメリカの学校にいた時よりも本格的な数式をノートに書く。授業が始まって、思ったことは数学のレベルがアメリカより高いと感じられる事だった。僕は黒板を眺め、数式を書くがあまり興味がそそられる事はなく、作業のように手を動かすだけの授業の最中、チャイムが教室全体へと響き渡る。すると、静かにノートに書き記して沈黙していたクラスメイト達が、詰めていた息を吐いて遊びが無かった空気感が一気に緩まり、生徒同士でコソコソと雑談が始まったと同時に、数学の教師が『今日は此処まで』と言って教壇から離れて、教室の外へと出ていくと各々が「腹減ったー」や「学食行こうぜ」と言いながら、席を立つ中、僕は祖母から持って行きなさいと、持たされていた弁当をスクールカバンから取り出す。
入学式から昨日までは午前授業であったが、今日からは午後も授業があり、食事も学校でとる事になる、らしい。
今まで、アメリカの音楽院に通っていた僕は、一般的な日本の学校の食事の形式など、何もわからなかった為、注意深く周りの人間を見るとどうやら教室外に行っても良さそうであったので、僕は弁当を片手に教室の外へと向かおうとした時だった。
僕の机に歩いて来た女子生徒と男子生徒が軽くぶつかり、揺れる。
彼等の行先は僕の隣の席、チャイムが鳴った瞬間から人が集まって来ていた芦家の席の周りに吸い寄せられるように向かう。
芦家ってバスケのエースなんしょ?やら、身長たっか、やら、バスケもそんなできてイケメンとか羨ましいぃー、やら、男女問わず彼の前に集まり賑わっている様子を尻目に、僕は居心地の悪い、居場所のない教室を出る。
その一瞬、芦家の声で黒瀬と呼ばれた気がしたが、僕はそれを気にせずに早足で廊下を歩き、どこか食事を取れる場所は無いかと散策してみるが、腰を落ち着ける場所を探し出す事は出来ず、ただ校内を歩き回る事になり、僕は人気のない廊下で一つため息を溢した。
別に、朝の事が無ければ教室で静かに食事を取ったのに。何故、こんな訳のわからない苦労をしなければならないのかと考えて、その原因はやはり僕の隣の席、蜜柑色の髪のあの男のせいだと彼の顔を思い出して苛立つ。
あの男のせいで、色褪せた生活が更にどうしようもなく面倒なものにさせられている事に腹が立つし、くだらない評価を受けているのも面白くは無いし、僕はむしゃくしゃしながら、もうその辺の人気のない教室で食事を取ってしまおうと思い、歩く廊下の先にあった教室の扉に手をかけ中に入ってその時、僕は目を見開く事になる。
机が立ち並ばずに開けた広間、静寂に包まれた寂しげなその部屋にあったそれは、グランドピアノ。
僕はそれを目にした瞬間から、一瞬たりとも目を離せず瞬きもせずにそれを見つめる。
重圧間と存在感を併せ持ちながら、慈愛の女神が泉に見姿を写しているかのように嫋やかに鎮座している、その悠然とした姿に僕は引き寄せられるように、足を運ぶ。
漆の光沢が黒光りする、蓋を僕は緩く撫でた。
何度も何度も、確かめるように撫でて、やめろと微かに脳裏で囁く理性の言葉に従う事は出来ず、僕はこれ以上ない宝が入った宝石箱、又は開けてはいけないと言われて封じられたパンドラの箱を開けるように、震える手でその蓋を持ち上がる。
そこにあったのは、鮮明な黒と白のコントラスト。ズラリと並んだその鍵盤の羅列は、数ヶ月ぶりに僕の前に姿を現した。ずっと物覚えがついた頃から、いやもっとずっと前から僕の側にあったピアノの姿に、こんなにも美しかったのかと、僕は驚いた。
弾きたいと、強い欲求に促されて僕は持っていた弁当を椅子の端に置いて、その横に座る。
弾きたい、とにかく弾きたいと、ただそれしか思わなくて、砂漠に投げ出された難民が一滴の水を求めるように、何も考えず弾こうと手を伸ばした時だった。
「……ッ!!」
鍵盤を抑えようとした瞬間、訪れる腕と指の強張りに僕は顔を顰め、その手を押さえる。
激しい痙攣に、唇を噛み締めて脈動するように跳ねる腕と指を抑え込むように、反対の手で胸に押し付ける。
その瞬間に僕の心に地獄の業火よりも激しい怒りの激情に、身の内を焼き焦がされて、僕は叫んだ。
「ああああぁっ!!!っ、くそっ!!何でっ!!何でだよ…ッ」
絶叫の最中、激しい怒りに僕はきつく拳を握りしめる。僕から音楽を奪ったナニカに対してか、はたまた弾く事ができない、自分に対しての怒りか。しかし、その中にあるのは一抹の、或は怒りは表面であり割れば全てが悲しみだったのか。
僕は打ちひしがれ、項垂れて、トンソンイスに脱力した身体を預けて鍵盤を朦朧と見つめる。
先程、久しぶりに見た時はそのコントラストに息を呑んだというのに、今はもう霞んで見えて、涙腺が熱くなるのを感じた。
涙が音を立てて、鍵盤に落ちたのを見て、一瞬だけピアノに汚れが付くと思ってポケットにしまってあるハンカチを出そうとしたけれど、その直後にはまた身体に力が入らずに脱力してしまう。
ふと、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴ったが、どうにも身体が動かずに僕はただ、ピアノを見つめる。苦しくて辛い。とても、悲しい。息をする事さえ、ままならない。
その感情を隠す事は出来なくて、授業を受けなければと思うけれど、でも自問自答してしまう。何のためにそんな授業を受けるのだと。ピアノが無い人生を送る為に、何のために受けているのだと心の内のピアニストだった僕が、今の僕を嘲笑った。
でも、僕は何も言い返す事はできなかった。ただ涙を流しチャイムの音が鳴りやんでも動く事は出来なかった。
寂しげな部屋に響く、チャイムの音。ただピアノを朦朧と見つめていたら、いつの間にかまたチャイムが鳴っていて、ピアノのすぐ上の天井部分にあった時計を見ると、授業が一限終わる時間を指していて、僕は目を瞬かせる。
先程鳴ったばかりだと思ったのに、いつの間にかもう授業が終わっていたようで、それでも僕は動く事が出来ずにいたが、その瞬間、部屋の扉が開かれた音が響いて、散漫にそちらに目線をやると、そこにいたのは銀縁眼鏡をかけ髪を上げ、秀でた額を晒して、此方を見ている教師と思わしき男性が、此方を見ていて、ああ、アイツじゃなくて良かったと一瞬脳裏に過った人間では無い事に安堵する。
「…、あれ君?何やってるのかな、こんな所で?」
「………今出ます、すみません」
少し咎められた言い方が滲んでいて、それはそうだろうと思って、僕はイスから立ち上がり教師が立っている扉の方に歩く。
考えてみたら、授業を怠けたのだから教師としては遺憾であるのは勿論であるし、そもそも、此処は音楽室なのだろうから、授業があるのかもしれない。当たり前だが、僕は邪魔であるだろうし此処にずっと居るわけにもいかないと、三十路を過ぎた頃であろう男性教師の脇を通り過ぎて行こうとした時だった。
「…、待ってくれ」
「…何でしょうか…?」
「…君は……」
男性教師に呼び止められた瞬間、肩を軽く掴まれて、僕は教師の方に振り上げる。
教師の薄茶色の薄い色の瞳には僕の顔が写り込んでいるのが、鮮明に見えた。
教師が軽く目を見開いたその瞬間、口を開く。
「……いや、いい。行きなさい」
「…はい」
何か様子がおかしいとは思ったが、今は訝しむ余裕はなく、僕はそのまま素直に教室を出て、仕方なく教室へと重い鉛のような足を引きずり、教室へと向かう。
その背後で、静かに眼鏡のレンズを光らせて僕に視線を送っている事など知りもしない事だった。
◇
重い足取りで教室に戻り自分の隣の席が空席である事を確認して、遠巻きからヒソヒソと何かを話すクラスメイトが僕を見ていて、その様子に小さく息をついて席に着く。目立ちたくなかったのに、連日、目立つ人間達と対立している上に、特に話していない人達からもあまり良い印象を与えていないようで、少し落ち込む。
全く、本当に何から何までついていない。偶然ピアノを見つけてしまう上に、涙まで流して、教室に戻ればこんな扱いで、心は針の筵である。
僕は次の授業の準備を整えようと、机の中を覗きこむと、賑やかに笑う男女が混合した数人が教室に入ってきたその時、聞きたくない彼の声が教室内に響き渡る。
「黒瀬っ!」
賑わいの中心にいた彼の声に、僕はそんな大きな声で名前を呼ばれることは慣れておらず、思わずそちらを顔を強張らせて振り返ってしまう。その時の彼が僕を見ている表情は、まるで宝物を見つけた子供のように目を輝かせていて、大きな子犬を連想させる目で近づいて来たのが、信じられなかった。何故、あそこまで拒絶しているのに、こんなにもこの男は普通に話しかけてくるのか、あまりにも理解が追いつかない。
顔を引き攣らせる僕を置き去りに、彼は僕の目の前に駆け寄って来て、僕の前にその長身を屈ませた。
「…黒瀬、さっきは本当ごめんな、俺からアイツらにはやめろって伝えてはおいた」
「……あぁ、もう構わない」
「それでさ、ちょっと話があるんだけど…」
「…さっきも言った通り、僕は君が得意じゃないし、嫌いになってきた。もう話しかけないでくれ」
直球に自分の想いを伝える。本当にもう勘弁してほしかった。先日から、彼が僕に関わろうとするせいで嫌な思いをする事ばかりで、関わってほしくなくて、僕は拒絶すると彼はクッキリとした優しげに見える垂れた目を瞬かせる。
分かっている、彼は特別に悪い事などしていない。それはわかっているけれど、彼さえ関わってこなければこれ以上、嫌な思いをせずに済む気がして、何の意味の見出せないこの色褪せた学校生活を静かに過ごしたくて、目を瞬かせる彼を無視して、次の授業の準備の続きに取り掛かる。
すると、後ろから先程芦家を中心に取り囲んでいたグループが、芦家の周りに集まりながら「何コイツ?」や「性格わりー」やら「ひどい」などとジョックである王様に対して、弱者の上にジョックを詰るナードに囁かれた言葉を浴びたが、僕はそれさえも無視して準備を続けていると、白けた目で僕を見つめる彼等に囲まれた芦家が口を開こうとした瞬間、チャイムと共に教師が教室内へと入ってきて、芦家を中心に群れていた生徒達がサッと解散して席に着く。
こんな時、アメリカなら絶対に席に着かない人間達も多いから日本らしい光景だなと、心の片隅で思って、教師を見つめる。
その時、隣の席に座った芦家が此方を見つめているのを、僕は気がつかないふりをして教師の声に耳を傾けるのだった。
授業が終わりホームルームが終わった瞬間、一目散に僕は教室の外へ出て、昇降口へ向かい下駄箱で靴を履き替えて、誰よりも早く学校から出る。それは一分一秒も、学業以外であの場には居たくなかったしまた、あの芦家に話しかけられるのも嫌だった為だ。
しかし、急いだとはいえ別に何か他に帰りたい場所がある訳でもない為、僕は綺麗に整備されたアスファルトとコンクリートで舗装された帰路を、気乗らずに歩く。
どんよりとした空模様はまるで僕の心の鏡のようで、雨が降りそうな特有の湿度の匂いが鼻腔内に満たされて、その匂いに顔を顰める。
雨が降るだろうか。それならば早く帰らなければ、と思ったその時、僕はラヴェルの夜のガスパール 第2曲ル・ジベが、脳内の駆け巡る。この曲は無名の詩人アロイジュス・ベルトランに感銘を受けた音楽家、ラヴァルが詩集から選び、それを題材に作曲した曲の一つである。
その曲が何故今、僕の脳内で鳴り響いたは説明できないが、その脳内で響く音楽に僕は足取りが軽くなった。この曲は、和名では絞首台というタイトル持つ曲で、曲全体の印象は暗くて、少しだけ退屈で、そして不気味だ。まるで僕の心の中を表しているような、そんな音が脳内で響き渡り、僕は久しぶりに口元が緩む。
確かに脳内に響いた自分のピアノの音。僕の気持ちに寄り添うように流れるその音に身を委ねて、茫然と帰路を歩いていたその時、その演奏を掻き消すけたたましいクラクションの音に、我に返るとそこには自動車が勢いよく、此方に向かっているのが見えて、その光景がとても緩やかに見えた。
避けることは出来ないと悟り、僕はその瞬間、目を閉じる。
その瞬間、衝撃が身体に駆け巡る。
「…っ、ぶねぇな…っ」
「……ッ!」
突き飛ばされた衝撃に息が止まる。しかし
いくら待っても覚悟した激痛が襲ってくる事はなく、僕は瞑った目を開くと目の前にはボヤけた白い布と、霞んだ薄茶色が目の前にあって、僕は勢いで押し付けてしまっていた顔を離し、見上げた瞬間、目を見開く。
蜜柑色の頭髪と少し焦ったように額に汗を滲ませた、僕が会いたくない人物が目の前に居たからだった。
「…ッ、何で君が…っ」
「…何でって…、呼んでもお前全然反応ないし…、横断歩道を車来てんのに、さっさと渡ってっちまうし…轢かれそうだったから」
そう言われて、僕は此処が横断歩道の端であることに気がつく。信号はない歩道であったが、脳内で流れるル・ジベに夢中になりすぎて車に気が付かなかったのだと状況を悟る。
まさか、音楽に夢中になっていた事は多々あったけれどこんな事をしでかしたのは初めてで、僕は息を詰まらせる。
「ご、めん」
「…、いや、信号ない横断歩道だから車側がわりぃけどさ…、危ねぇぞ、気をつけねえと」
彼はそう言って、ズボンについた砂埃を叩きながら立ち上がり、僕に手を差し出してきたのを見て、僕は慌ててその手を取らずに立ち上がる。
「……………」
「…ッ、いって」
助けてもらったとはいえ、彼に対してどのような態度を取るべきが迷い目を泳がせていると、彼が発した言葉に芦家を見ると、彼は手首を軽く抑えていたのを見て、目を見張る。
まさか、怪我をしたのか。
「…っ、怪我をしたのか…ッ?!」
「あー、大丈夫…、そこまで大した事ねぇよ、地面に手をついた時にちょっと挫いただけだ」
大した事じゃないと、笑う彼に僕は目の前が真っ暗になる。彼は、バスケットボールの優秀な選手だとクラスメイトが言っていた。あまりよくバスケットボールの事なんか知らないけれど、きっと手は大事なものだろう。バスケットボールは分からなくても手や指を使って行う作業には怪我は大事なはずだ。そんな危険を犯して僕を助けて、尚且つ自分が怪我をしたのに何でもない顔をする彼に、僕は唇を噛んだ。
「そんな…っ!何で、…っ、何で…ッ」
「…?」
「…っ、何で!僕なんか助けたんだよ…っ!君は…バスケットボールの優秀な選手なんだろ…!?何でそんな事を…っ」
まるで怪我なんて何でもないかのように、言う彼に詰め寄るように声を荒げると、彼は目を大きく開き瞬かせて、目尻を下げて優しく笑った。何でそこで笑うのか理解が出来ずその表情に僕は更に、僕を助けたりなんてしなくてよかったと言おうとしたのに、先に言われた彼の言葉にそれはかき消された。
「黒瀬は指、怪我してないか?」
「…ッ」
そう言われて目を見開いた僕を知ってか知らずか、彼は僕の手をその大きな手で優しく掴み掬い上げる。
そして、僕の手をよく見て、大丈夫そうだな、と言って息を吐くその姿はまるでとても金細工でも見ているかのようで、僕は何も言えずそんな彼を呆然と見るしかなかった。
「…俺の手も大事だよ、バスケは好きだし、もっと上手くなりてぇし」
「……」
「でも、黒瀬の指は俺にとってもっと大事なものなんだ」
「……な、んで」
揺らがない声色に意思が宿っていた。僕を見つめる優しい瞳やその声全てが、昔魅せられたアニメの主人公のように、光り輝いていて、僕は思わず目を奪われた。
しかしどうして彼がそんなにも、僕の手を思ってくれるのかわからず、思わず僕は疑問を口にしたけれど、彼は笑ってその言葉を口にした。
「あー…、今は内緒」
そう言って、少し照れたような笑う彼に僕は目を瞬かせる他無かった。
これがそう、昔のクラスメイトに言わせるとジョックである彼とナードにである僕の、これから始まる自身の根本を揺らす信じられない出逢いであった事を、この時の僕はまだ知らなかったのだ。