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蜜柑色の希望  作者: 星原 蠍
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場所は此処では無い

教室の一番後ろの窓際から二つ目、そこが僕の席だ。硬い木の椅子。教室に響くクラスメイトの友人同士で賑わう声。教室内の人だかりの匂い。その全てが馴染みが無い物ばかりで僕は机に額を擦り付けるように顔を突っ伏した。そうすると、木だかニスだか、様々な物が混ざった匂いが鼻腔内に広がる。

 

 やはり、馴染みがない。今、現在、五感に感じる全ての感覚に馴染みがなくて、此処は自分の居場所ではない気持ちが膨らんでくる。そんな感情を落ち着けるように、深く息を吐いて、何となしに顔を左側に傾けると、机の上に放り出してあった自分自身の手が目に映る。

 親や僕を指導してくれた先生に手入れを怠るなと散々言われてきた、その自身の指に一つささくれを見つけた。

 傷や怪我をしないように細心の注意をして、ハンドクリームなどもつけてきたその指にささくれがあるのはとても珍しい事であった。一瞬、積年の癖で激しい焦燥に駆られて、身体がピクリと身じろいだが、直ぐに身体から力が抜けて上半身を机に預けた。

 僕は馬鹿だ、焦る事なんて無かったのに、と失笑のような息が漏れる。

 

 薄く目を開いた。特に何か理由があった訳ではない。自分の手の向こう側、僕の席の左隣の人物と目があう。

 

 蜜柑色の髪が印象的だった。

 柑橘類の粒が光を受けて輝くように煌めいている髪、それが清潔に短く切り揃えられている。

 その髪なら、視線を下げその顔を見ると、そこには目鼻立ちが大きく整っていて、顎などは程よく頑健なのに対し目元は垂れているのが厳つさを和らげている、好青年とはこういう人物を指すのだと体現したかのような印象を持たせる青年がそこにいた。

 でも、顔見知りではなく名前は、知らない。

 

「……何?」

「…いや、具合悪りぃのかなって」

 

 いきなり不躾にジロジロと見られて良い気分はしない為、何か用なのか問う。

 すると少し目を丸くして、机に頬杖をついて話しかけてきた彼が、いきなり立ち上がり僕の横へと立つ。聳え立つ木のような圧迫感だ。座っていたから分からなかったがとても身長が高く側にきた彼を見上げると首が痛くなりそうだった。

 しかし、それよりも僕の目を引いたのが野球のグローブを彷彿とさせるような、手の大きさだ。

 

「…手、大きいね」

「手……?ああ、よく言われる…俺、バスケやってんだけど、メンバー達もそういってくるな」

「…そう」

 

 ふしくれだっていて、指がしなやかで長い。良い指をしている。僕はつい、人の顔より指を見てしまう。幼い頃からの癖だった。

 バスケか、僕はあまりスポーツをする事も見る事もないから馴染みは無い。だからあまりよく分からないけれど、手の大きさが大事な要素だというのは、然程詳しくなくとも何となく理解できた。

 でも僕は、それが何かすごく勿体無い気がしてしまう。だって、これだけ大きい手ならそれだけ広く鍵盤を抑えることができる。それだけ曲に対して出来る事が広がって、その曲に対してしてあげれる事が多くなる。曲に対してのアプローチや選択肢が広がれば、それだけその曲を表現する方法は増える。

 

「…………」

「そういう黒瀬は綺麗な手をしてんだな、指、細くて長くてなんか、すげぇ」

「…それはどうも」

 

 彼の大きく垂れた人好きのする目が僕の手に視線を移したのが分かった。その視線から逃げるように僕は手を机の下へと隠すと彼の視線が僕の手を追っていた為、話を逸らしたくて、先ほどの発言で僕は疑問に思った事を口にした。

 

「僕の名前、よく知ってるね」

「あぁ、お前の事知ってる」

「………そう、なの?」

「あぁ、お前、黒瀬光だろ?」

 

 天才ピアニストの、とそこまで言われた瞬間、僕は勢いよく立ち上がる。ガタン、と椅子が弾かれたひどい音が教室内に響き渡った。

 

 そんな事を、僕は気にする余裕は無かった。そんな話されたく無かったし、したく無かったのだ。僕は、目を見開く彼の顔から勢いよく顔を背け、大股で教室の外に向かう。

 すると、周りのクラスメイトの一部が顔を上げて此方に注目したが、僕は気にせずに教室のドアへと向かう。

 

「えー、芦家どしたん」

「亮介、大丈夫?」

「なしたのー?」

 

 教室から出ていく時に耳にしたのは、男女問わない声色だった。

 入学当初だというのに、彼を気遣う幾多の声は、僕には馴染みのない誰一人としてよく知らない人達の声だった。当たり前だ、僕は最近まで、この地域どころか日本国内に住んでいた訳でも無かったのだから。荒れた心はそんな当然の事実にささくれ立つかのようであった。

 

「大丈夫大丈夫!何でもないよ」

 

 優しげに答える声が、背後に聞こえてきて僕はその声から逃れるように、長い廊下を一直線に歩く。直後、視界が滲むのを堪えながら、程なくしてあったトイレの中に勢いよく入った瞬間、ポロポロと涙が流れる。一瞬こんな姿を誰かに見られたらと焦燥に駆られたが、幸いな事にそのトイレには誰も人が居らず、人がいなかった事に安堵をして、手の甲で目元を擦る。

 

 どうして、こんな事になってしまったのだろう。小さな声が確かに心の内でそう訴えていて、僕はもう一度、涙を拭う。

 

 マイク、ダニエル、アメリー…、ジネット先生…。共に切磋琢磨してきた音楽院の仲間達とずっと幼い頃から指導してくれた先生の事を脳裏に思い浮かべると目の奥が、更に熱くなる。

 どうして、ここは僕の居場所じゃないのにここに居るのだろうと、彼等と共にピアノを練習した時の事を思い出して、腕をギュッと、キツく握りしめた。

 質素な洗面台に映った僕の手が血の気が無くなる程真っ白になっている様子を見て、手を痛めないようにしなければ、と根付いてる癖に逆らうように僕は更に力を込めた。

 もう指を大事にする意味なんて無いのだからと、一瞬痙攣を起こす程強く握ったその手の感覚に唇を噛み締め、漏れる嗚咽を飲み込んだ。

 しかし、それでも尚、耐えきれず涙が流れるのが嫌だった。

 少し前…、二年前までこんな事が起こるなんて思ってもみなかった。

 毎日毎日、眠る時以外はピアノを触って弾いてこの身を任せるように、音楽に触れていた。僕の目の前にあったのは、ずっと音楽だったのに。今、この場にあるのは嗅ぎ慣れないニスの匂い。そして僕が日本人だからと言って音楽院のクラスメイトが見せてきた日本のアニメーションに出てくるような、今まで話をしたことも無いような人間ばかりだ。

 

 その事実に、感情が憤怒とも哀傷とも辛酸とも悔恨とも言い切れない感情が昂るのを抑えるように手をキツく握りしめていたけど、それに呼応するように、ピクリピクリと痙攣の波が腕に襲ってくるのから、感情のままに叫び出したくなった。

 しかし、流石にそんな事は出来なくて僕は、深く息を吐く。

 落ち着けと、目の前の鏡に映る自分に小声で言い聞かせる。

 これから、僕は此処で生きていかなければいけないんだからと、そう思うと目の前に膜が張ったかのように、自分自身の顔が霞んで見えた。

 でもその事により少しだけ、叫び出したい程の感情はなりを潜めたので、もう一度息を吐いて、洗面器に腕をついて俯く。

 

 その時、何故か、先程の蜜柑色の頭髪を持つ彼を思い出した。

 別に、彼が何か悪い事をした訳では無かったのは分かっていた。彼は特別悪いことなどしていない。けれど、勝手にもう彼とは話したく無いな、と思ってしまった。

 昔、これがジャパニーズせいしゅんなんだよ?なんて言われながら、音楽院ほクラスメイトに見せられたアニメに出てくる主人公に何処か似ている彼に苦手意識を持ってしまった。

 あまり、自分から関わるのは止そうと思いながら、僕は顔を上げると鏡に写った僕は目を見開かれる。

 その僕の後ろに、先程の美柑色の頭髪の彼が居たからだ。僕は咄嗟に振り返った。

 すると、目を瞬かせた彼と目が合った。

 

「何で…泣いてんの?」

「……何で此処に」

「具合悪そうだったし、大丈夫かなと思って…」

「…そう」

「…泣いてたのって俺のせい?」

 

「それならごめん」と、そう言われた瞬間、なりを潜めていた激情が全身を駆け巡り、このままでは本当に叫び出してしまいそうな激情に支配されそうで、僕は彼を押し退けてトイレの外に出ようとしたが、それは叶わずに身体がつまづいた。それは、彼の大きな掌で腕を掴まれたせいだ。

 

「指、そんなに握りしめない方がいいぞ」

「…ッ」

「折角、綺麗な指なのに」

 

 大事にしてるんだろと、そう言われた瞬間、僕は身長が高い彼を眉を顰めて睨みつける。一体全体なんだというんだ。何も知らない癖に、ヅケヅケと好きな事を言ってきて、腹が立った。ゾワリと髪の毛が逆立つ。


「関係ないだろ!」

「…確かに、関係はないけど」

「じゃあ僕にもう二度と!関わらないでくれ!!君には関係ない!!」

 

 声を張り上げると、それに驚いたかのように目を瞬かせている彼を尻目にそのトイレから勢いよく飛び出して教室へと向かう。

 入学早々、最悪なスタートを切り出した、日本での初めての学生生活。

 夢も希望も絶たれた先のこの場所で僕は肩を落として引きずるように歩き出し、目にする全てが色褪せて見えたが、それはもうどうでもいいからこの一日が早く終わってくれと、そう思った。

 


  プラットホームに流れる淀んだ空気は、初春だというのに冷たくて身を凍えさせる。僕は背筋をブルリと身を震わせて、寒さを紛らわせるように腕を摩った。

 見渡して、そんなに汚れてはいない駅と静かに整列して電車を待っている人々を一瞥すると、今日という日の中で一番心を穏やかで居させてくれる。

 唸るような地響きと共に僕は時間通りに来た列車の様子に、本当に日本では列車が時間通りに来るのだなと何回目になるかわからない驚きに目を瞬かせて、人混みの流れに従い列車へと乗り込んだ。

 椅子はみっしりと人で埋まっていたので、僕は扉の近くの場所に立つ事に決めて、電車が程なくして発車して、流れる窓の外の街並みを何となしに眺めて、やはり住んでいたアメリカとは全く違うなと、それ以上でも以下でも無い感想をぼんやりと持ちながら窓の外を眺めた。

 ふと、外で煌めく夜景の光が、昼に出会った蜜柑色の頭髪を持つ青年を思い出させて、僕は思わず眉に力が入る。

 思い返すとまた腹が立って仕方なくなってきたので、小さく息を吐いてその感情をやり過ごす。

 

 激情に任せて叫んでしまったその後、教室に戻った僕は、できる限り自分の左隣も見ないようにしようと心に決めて、あの蜜柑色を目にしないようにしてやろうと心に誓っていた。だが、それにも関わらず、彼はチャイムが鳴ると同時に勢いよく教室のドアを開き、まるでフリスビーを追いかける犬のように転がり込んできて、とても大きな声で「セーフだ!」と叫んだので、その勢いに思わず僕は彼を目に入れてしまう。

 周りも驚いた様子を見せて、でも直ぐに彼に「早く座りなぁ」と笑う女子生徒や「先生くんぞ」と呆れたようにしかし楽しげに口元を緩ませる男子生徒に彼は軽くおう、と返して僕の隣の席に腰掛けた。

 その様子と先程の僕が出て行った時も彼が気にかけられていた様子も相まって、随分の人望があるんだなと思い知らされて、その事実はあまり面白くはなくてフン、と鼻を鳴らした。

 

 その後、直ぐにクラスの担任である眼鏡を掛けた生真面目そうな担任がやって来て、自己紹介や学校での生活の事を説明されてた後には、早々にその日は帰宅するように伝えられた為、クラスメイト達が楽しげに話す中、僕はそそくさと誰よりも早くに教室の外へと向かった。

 廊下に出る一瞬に、目の端に捉えた彼は大人数のクラスメイトに囲まれて笑っているのが見えた。

 気にしないようにしようと思う程、彼を見ないように意識してしまっているのだと、その時気がついて、薄暗い気持ちが心を満たし、明日はそうはならないように気をつけようと、軽く唇を噛み締める。

 

 そんな事を電車内で思い返しているうちに、伸ばされた背筋が様々な事が重なった疲れで若干、丸くなり、僕は電車の壁に寄りかかった。

 何時もならば、そのような育ちが悪い行為をする事は無かっただろうが、今はとても直す気になれず寄りかかってしまった。

 僕はこれから毎日を、この日本で送ることができるのかと、不安が心の内に渦巻き身体を駆け巡ったが、そうするしかないのだから不安に思っても仕方ないのだと、雑に自分自身に言い聞かせ渦巻く不安を何とか鎮めようと、息を吐く。

 そんな中、電車の窓に写る自分の顔は、昼間、あのトイレの鏡で見た時と同じような、霧雨が降る曇り空のような顔をしていた。酷い顔だ。僕、黒瀬光がこんな顔をしているのは自分の人生の中で無いに等しい事だったし、輝く事こそが、楽しむ事こそが、音楽に直結すると幼い頃から思っていたからできる限り、そうなれるようにと過ごしてきた。

 でも、今は違う。

 口角は垂れ下がり、目は虚。音楽が無いピアノを無くした僕になんて一欠片の輝きも無い、まるで死んだサメのような目だ。

 僕は力無く項垂れて、揺れる電車に身を任せる。

 そんな時に思い出したのは、素晴らしい音楽家、巨匠サディ・ヴァイアンから表された幼い頃に貰った言葉だ。

『こんなにも幼いのに目を瞑ればそこには老熟したピアニストが存在する…私の前に、ピアノという翼を持った天使が現れた』そんな言葉を巨匠がそう言ってくれた時は、天使なんて気恥ずかしいし大袈裟だななんて思ったのだけれど、でも確かに尊敬する巨匠からそんな言葉を貰えたのは嬉しかった。

 でも僕はその言葉は今は間違いだったのだと、強く思った。

 天使ならば、羽根を無くしたとしても人間として生きていく事ができるだろう。僕にとって音楽は、自分自身の全てを構築しているものだったのだ。

 この顔も体も心も、そして手も、全て音楽を奏でるための物だったのにそれを無くした僕はただの抜け殻だと、思った。

 悲しいとか辛いとかそういう気持ちではなく、ただただぽっかりと自分の本体が無くなってしまったような、無気力感が襲う。

 ぼんやりとただ流れる景色を見ていると、アナウンスされる駅名に、我に帰った。

 祖父と祖母の家がある、自分の自宅の最寄り駅の名称だ。僕は今まで持った事はなかった指定された肩がけのバックを背負い直して、背筋を伸ばす。

 少しずつ、速度が遅くなる列車の揺れを感じ降りる心構えを持った。

 

 ◇

 

 神奈川県横浜市にある、閑静な住宅街。そこの一等地に鎮座する一軒家が、祖父母の家であり、これから僕の自宅になる家であった。

 僕が帰ると、祖父は居間で新聞を読み、祖母は早くも夕飯の支度を整えて僕を待っていた様子だった為、さっさと帰ってからの身支度を整えて夕食を頂いた後は用意された自分の部屋へと真っ直ぐに向かい、ベッドの上へと腰掛け、今日一日中強張らせていた肩の力が自ずと抜けた。

 祖父と祖母は父方の血縁者であり、母方の血縁者とは違い、音楽に携わって生計を立ててきた人達ではないと言うのは幼い頃に聞かされていた話だった。

 僕の父、黒瀬大和は有名なピアニストであり厳粛でありながら情熱が内に潜み、燃える高原のような演奏をする実力も申し分のない、ピアニストなのだが、そのピアニストを輩出したと思えないほど、この家には音楽を感じさせる欠片が無かった。

 数日前に空港まで迎えに来てくれた祖父母に、最初にこの家に連れて来られた時は口には出さずとも内心で驚いたものだったが、今は音楽やピアノを感じさせるものが無い方が僕としても都合が良かった為、特にその事には触れずに祖父と祖母にお世話になります、と伝えた。すると、目元は厳粛な父とよく似た面影のある祖父の瞳に僕が写ると同時に軽く頷き、祖母は「よろしくね、光さん」と口数は少なかったものの迎えてくれたのは記憶に新しい事だった。

 元々、祖父も祖母もとても口数が少ない人達のようで、二人ともあまり喋る事はしなかったが、それは父も同じだったし自分もそこまで喋る方では無かったから、とやかく喋り掛けられるよりかは良かった。

 今、音楽の事や病気の事をとやかく言われるのはきつかったから、その事に触れられないのは僕としては助かっていた。

 一年程前は、病気を治そうと同じピアニストである母に様々な病院に連れまわされて、神経科脳外科、心療内科、果ては精神科まで毎日のように連れて行かれていたのは、病気を治す為だと思っていても、辛い事であった。だから日本でも同じように、祖父祖母に病院に行くように言われたら気が滅入りそうだった為、そこは本当によかった。

 しかし、それはもう音楽家として祖父母には全く期待されていない事を意味しており、そもそも日本に行くように言われた時点で既に僕は見限られていたのに、更に突き放されたような途方もない気持ちにさせられた。

 

(どうしてこんな事になってしまったんだろう)

 

 自ずと湧き上がるその疑問の答えなど、誰よりも身に染みて分かっているのに何度もその問いを繰り返してしまうのは僕の弱さだろう。

 僕はその原因となった時のことを脳裏に思い返す。

 あの時、人生をドン底に落としたその病気が発病したのは、遡る事二年前の事だ。

 

毎日だ。毎日、眠る時と食事を取っている時以外は僕はピアノを触っていた。

 基礎練習から始まり、指のトレーニングを施し、超絶技巧と呼ばれる速弾きも、表現力を研磨するように母や先生に指摘を貰いながら、自分自身が音楽に対してしてあげられる事を少しでも多くする為に、毎日がとにかく練習の日々だった。

 最低でも八時間はピアノの前に座っていた、コンクール前は睡眠時間さえも削って練習に練習を重ね、充実していた毎日を過ごしていた。

 

 ピアノに没頭していた日々、僕少しで早く更に上の次元に進みたくていた。そんな中で少しずつ、少しずつ指が動きづらくなっていった。

 

 最初のうちは気のせいだろうと思った。少し疲れたのかなとか、本当にそんな程度だったのに徐々に母や先生、周りの人達に気がつかれる程、僕の指は強張り腕の筋肉が収縮を繰り返しようになり、数ヶ月経った頃には、満足に曲を弾き切る事も出来なくなってしまった。

 

 その頃は、母もそして演奏のために殆ど家に帰らず世界中を飛び回る父も、由緒正しく世界有数の音楽院と名を知らしめる、僕が在籍していたエルピーゾ音楽院も僕を見てくれていたジネット先生も、皆が心配してくれてサポートすると言ってくれた。

 

 しかし検査を重ね、薬をいくら服用しても僕のその病気は何故か全く良くなる傾向さえ見せず、どんどんと酷くなる一方の状況のまま一年が過ぎ去った。好転の兆しが見えない状況に徐々に音楽院も先生も、父も母も、周りの人全てが僕から急速に興味を失っていくのが分かった。

 それは今までに当たり前に存在していた、才能、賞賛、自尊心が全て崩れていく日々だった。

 

 別に目の前で貶されたわけではない。どちらかといえば優しい言葉をかけてくれる人が多かった。諦めずに頑張ろう。応援しているよ。

 そう言って、でも、やはり、本来の僕を見る目とは違う目で見られているのだと。僕の音楽を聴いて、心の底から僕の音楽を聴いてくれていた人達の中に、もうその僕はいないのだと気がついて、その日の夜は、僕は辛くて悲しくて、用意された夕飯も食べず自分の部屋に篭り、一人涙を流した。

 

 その後は心因性が原因だと思い至った母に心療内科、精神科、カウンセリングに連れ回され、ある日、医者には母に原因があると責めて僕には休息が必要だ、などと僕の肩を叩いたが、これには激情的な母よりも僕の方が怒りそうになってしまったのをよく覚えていた。

 

 僕にとって音楽は、何よりも大切な物だった。

 

 世間一般では知らないが、僕にとっては別にこの暮らしが嫌だった訳じゃない。両親からの期待だって別に重荷だった事なんか、微塵も無かった。それなのに医者は、家庭環境が原因でしょうなどと言い放ち、僕が音楽にピアノに染まった生活をしているのが、父と母からの期待が重いのだろうと勝手に決めつけた!

 そんな医者の診断に母に連れられ僕もさっさとその診療所から地面に足を降り鳴らすように、帰宅した。

 

 しかし母はその日から、少しずつ僕を病院に連れていくのをやめた。心因性のものを疑われてそう言った病院に行くのは嫌だったから、それは少しだけほっとしたけれど、その日から母は僕ではなく、弟に手をかけ始めるようになっていった。

 

 一生懸命練習する弟、才能はあったけれどそこまで突出していた訳じゃない。だから母の期待はいつも僕が背負ってきた。

 音楽に関して、僕は常に母から優先されてきたがその日からは母が弟を優先し始めて、少しずつ僕は病院に連れて行かれる事は無くなっていった。

 

 そんな状況に、僕は、焦燥感に駆られ狼狽えた。

 病気が治ることもない日々の中で、母がつきっきりで弟にピアノのレッスルをしていた自宅は僕の周りには誰もいなくなった。

 それでも僕はピアノを弾こうとしたけれど、直ぐに手が強張ってしまい弾くことは出来なかった。

 

 髪を掻き乱し、歯を血が滲むほど食いしばり涙を流しながら弾こうとした。

 でも大好きなピアノをどうしても弾きたくて、弾けもしないのに毎日毎日ピアノに座って、練習して、でも出来なくて鍵盤を怒りに任せて叩いてしまったその日、世界中を飛び回って演奏をしていた父がいきなり帰ってきて、父方の祖父母の所に行くように勧められ母もそれに同調するように頷いた。

 それは僕にとって、二人から僕はもう要らないのだと、言われているように感じた。

 

 そして大好きだったピアノをもう二人から弾くことは出来ないのだと言葉じゃなくても、そう言われたかのような気がして。

 僕は、お父さんの厳粛な重いピアノの音もお母さんの軽やかで感情豊かなピアノの音も大好きだったから、その大好きな音を奏でる二人からもう僕のピアノは要らないのだと宣言されたのだと思ったその瞬間、目の前が薄暗く幕を張って、深く考える事なく、会ったことをない祖父母がいる日本に行く事を、一言失意の中で分かったと伝えた。

 

 その日のことから、然程、まだ日が経ってはいないのに、とても昔のように感じ、その時のことを思い返しながら、僕はベッドに四肢を投げ出す。

 住んでいたアメリカの家とは全く違う作りの低い天井を見つめる。アメリカとは何もかも違うし、今までの生活とも何もかもが違っている。こんなに、ピアノから離れるのも初めてで他に何をしたらいいのか、よく分からず、虚に天井を見上げ散漫に身体を起こした。

 

 とりあえず明日もまた、学校があるのだからそれの準備をしておこうと思い至り、身体を起こしてバッグの中身を整理する。青藍高校を表す校章がつけられたバッグ。

 日本の事はよく分からなかった為、祖父母にこれからの事を考えると高校には行った方が良いと言われて、勧められるままにこの家から一番近い、偏差値なども普通程度の高校を選んだ。

 

 元々、家庭教師は付いていたし、ある程度ピアノの合間に勉強もしていたから、そこまで困る事はなく受験は合格し、そして今日がその青藍高校の入学式だったのだが、どんな物かと思って行った日本の高校は、あまりにも音楽院とは違っていて、息が詰まったし良い印象は覚えなかった。

 

 そして脳裏に浮かんだのは何よりも、あの蜜柑色の髪をした、彼。

 

 あの身長が高い彼のせいで初日から、気分は酷く落ち込んでいた。

 元々、僕の事は両親が日本のメディアをそこまで好いていないのも相まって、日本では僕を知っている人は音楽を深くしていない限り、珍しいと思うなんて言われていたから、まさか初日からいきなり、僕を知っていて、しかも天才ピアニストなんて過去の称号で呼ぶ彼に、良い印象を持てる訳はなくて、その顔を思い出すと、眉を顰めてしまう。

 

 彼が悪い訳ではないのは理屈では分かっている。でも、泣いている所を見られた気恥ずかしさも相まって、それに何も知らないのにピアノに関する手のことまで口に出されて、苦手意識は拭えなかった。

 それに僕を知っていた事もどうしても嫌な気持ちにはさせられた。別に絶対に知られていない訳でもないだろうし、少し調べれば僕の事なんてネットに直ぐに出てくる。

 過去は天才、今は堕ちた天才、そのような記事が幾らでも英語のニュースにはあるし、僕が弾いているピアノの動画なんかもネットにある。でも、知られるにしてももっと後の事だと思っていた。

 

 嫌だな、もしも彼があの仲が良さそうな友人たちにその事を話していて、何かしら言われたら。もしも、ピアノ弾かないのとか、弾いてみてとか、そんな事を言われたらと考えるとまるで心が、空中に投げ出されたかのように不安定で苦しくなってくる。

 

 その憂鬱な気持ちがため息となって溢しながら明日の準備を整え、何もする事がない為、寝る支度もしてしまおうと僕は立ち上がり自分の部屋を後にした。

 


 見慣れない校舎を重い足取りで闊歩する。行き交う同級生達が日本語で聞きなれない会話をしているのは、此方のフランクな喋り方なのだろうか。

 そんな些細な事を何も分からないまま、憂鬱な気分で自分の教室に立ち入り自分の机を一瞥した後、滑るように視線をずらし隣りの席を見るがそこに彼の姿は無い。

 僕はほっと息を吐いた。まだ早い時間だからか彼は来てはいないようだ。

 自分の席に着席して、荷物を整理し終えると特に何かをやる事ないので、静かに座り辺りを何となしに見渡す。

 人がまばらの教室内ではスマホを熱心に眺めている人や楽しげに喋っている様子であった。

 スマホは僕も操作する事はあるけれど、喋っている女子生徒たちの会話は何が面白いのかよく分からない事ばかりで、何故そんなに笑い合っているのか、あまり理解はできなかった。

 

(…ピアノがない生活ってこんな感じなんだ)

 

 スマホを使うのも、ピアノ関係の事ばかりでそれが無い今、僕には何もやる気が起きず、ただただ呆然と座っているだけの時間を、背筋を伸ばしてに時間が過ぎるのを待つ。

 そうして過ごしていると、廊下から入ってきた二人組の女子生徒の身体が僕の机を掠めてカタリと、揺れた。

 

「あ、ごめん」

「…大丈夫」

「あれ、昨日の、芦家と話してた人だ」

「本当だ」

 

 二人組の女子生徒は、昨日の彼…、芦家の知り合いようだった。

 僕を見てそう言うと後ろに回り込み、僕の左隣にある机に一人は身体を預けて、一人は僕を見下ろした。

 

「あんなに怒んないであげてー、アイツ良い奴だから」

「ねー、本当いい子だよー」

「…仲良いんだね」

「うん、すごい仲良いよ!同中だし…ねぇ、名前なんて言うの?」

「…黒瀬だけど」

「黒瀬くん、えーと、何で昨日怒ってたの?何があったの?」

 

 その言葉に、僕は何か不快感が胸の内に湧き広がる。直接的に聞かれる事は特段に嫌ではなかったけれど、日本語でこんなに直球に聞かれる事は、母や弟と会話している時には無い事だからか違和感が生じた。

 そして、当事者でも無い彼女達に、何故理由を説明しなければならないのか分からない。それに、その話は僕の過去と密接だから、言いたくはなかった。だから、僕は直球に返答を返す事にした。

 

「君達には関係ない」

「え」

「何、その言い方…」

 

 女子生徒が、目に見えて顔を強張らせたのを見て、目を瞬かせる。直球で来られたから直球で返しただけのつもりだったが、失敗だったようだ。

 かと言って、此処で言う言葉も特に思いつかず言葉を失う。女子生徒は不愉快に眉を顰めて、僕を見ていた。少し怒っているような気がする。何故なのかは先程と同じでわからなかった。

 

 

「何してんの?逆ナン?」

「!」

 

 その時、いきなり僕らに声がかけられる。蜜柑色の髪が一際目を引く、話の渦中にある彼。芦家がいつのまにか登校していたようで、僕の背後に立っていて、その声に僕は肩が微かに跳ねた。

 すぐ後ろにいる上に、身長が高いせいか前を芦家とは反対方向に身体を向けていても圧迫感があって、僕は振り返る事はせず、自ずと上を向いてその姿を捉える。

 張り出した喉仏と男らしく張った顎が目に入った。

 

「芦家…っ、そんなんじゃないって…」

「そうだよっ、ちょっと…、黒瀬くんと話してただけだし…」

「ふぅん、黒瀬ともう友達?」

「ちがうちがうっ、そんなんじゃないって」

 

 ふと、女子生徒達の声がワンオクターブ高くなったのを感じる。その様子に女子生徒達はこの芦家に好意があるのを、自ずと悟る。

 それと同時に彼が僕を覗き込むように見て、目が合った。まるで邪気のない、昔飼っていたゴールデンレトリバーを彷彿とさせるような澄んだ瞳が確りと、僕を捉えていた。

 

「そっか、なら良かった」

「「えっ」」

 

 女子生徒達の期待に膨らんだ声が耳を掠め、色めき立つのを感じる。女子生徒のきめ細やかな頬が更に赤らむのを目の端で捉えて、成程、随分と彼に入れ込んでいるのだなと、それ以上でも以下でもない感想を抱いていると、その次の言葉に僕は目を瞬かせる事になる。

 

「俺が黒瀬と一番初めに仲良くなりたかったから」

 

 薄く笑う厚めの唇が弧を描き、屈託のない笑顔で見下ろされ、笑いかけられる。彼の掘りの深い大きくも精悍な目元は僕以外、誰もいないかのように一心不乱に見つめられていて、目を離せなかった。

 僕が天才ピアニストと呼ばれるような人間だったから、軽薄な気持ちで僕に近づこうとした訳ではない事を伝えてくる、真剣な毅然とした眼差しに僕は息を詰まらせた。

 その瞬間、その場にはまるで僕と彼しかいないのではと思わせるほど、彼は僕しか見ていなかったし僕も彼しか見ていなかった。

 漂う雰囲気に呑まれて、僕らは見つめ合う事なったその数秒後、我に帰り後ろに立った触れ合いそうな程近くにいる彼に、離れるように言おうと口を開きかけた時、その空間を切り裂くように側にいた女子生徒の甲高く、焦燥を滲ませた声が耳を劈く。

 

「ね、ねぇっ!芦家さっ、昨日喧嘩してたんじゃないの?!」

「え、喧嘩?」

「黒瀬くんと何か話してていきなり黒瀬くん出てったじゃんっ!しかも芦家すぐ追いかけてたし…、…何があったの?」

「あーあれは…」

 

 その声に、芦家が女子生徒の方に顔を向けるのを見て僕は、あぁ、その話は、そうなる事に至った原因は、言わないでほしいとそう思ったと同時に、彼は口元に手をやって人差し指を立て、唇に押し付けた。

 

「内緒」

「えーっ」

「なにそれー」

「内緒なもんは内緒、秘密、というか別に喧嘩じゃねぇよ」

 

「だよな?」と声をかけられて、小さく僕は頷く。喧嘩をした、というつもりは無かったから事実を認ると、芦家は「ほらな」と女子生徒に言い、女子生徒は居心地悪そうにする。

 

「そっか、なら…、その、よかったけど…何か喧嘩してるなら心配でさ…」

「心配してくれたの?サンキュ、でも、別に何もねぇし…、それに俺と黒瀬の話だからそんな事、聞かなくていいよ」

 

 全体的に優しげであるのに、しっかりと女子生徒達の行動に静止した彼の言葉に女子生徒達は言葉を詰まらせて、しどろもどろになりながら、一言二言言葉を交わしてその場から去った女子生徒達の様子に疲れが押し寄せた。

 何だかよく分からないが、非常に疲れる経験であった。僕は肺に溜まった息を鬱憤と共に吐き出す。

 

「でけぇ、ため息」

「……………」

「なんか言われた?」

「…本人達が言ってた通りの事を聞かれていた」

「そっか、何かたまに同中なだけで俺の事とか聞きまくる女子いるんだよな…、そのせいでごめんな」

「……………」

 

 困ったように眉を下げて、椅子を引いて隣の席に座った彼を横目で一瞥して、また前を向く。

 もう極力話すつもりは無かったのに普通に会話してしまっている事に、何だか彼のペースに持っていかれている気がした。

 もう、そうさせたくなくて言葉を発しないように飲み込もうとしたその時、ふと、昨日の夜に思った事だけは彼に言わなければと思い至り口を開いた。

 

「あの…」

「おぉ、何?」

「…僕の事、言った?」

「黒瀬の事?何を?」

「…僕の過去のこと」

「あぁ、言ってねぇよ」

「…それは、どうも、これからも僕の過去の事は言わないでいてくれ」

「…?、おう」

「…話はそれだけだよ」

 

 誰にも言っていないと言われて、安堵に胸を撫で下ろし、続けて更に他の人間言わないように口止めをした。少しだけ、昨日から感じていた鉛を飲んだように重かった胸が軽くなった。

 しかし、横でその様子を熱心に見られている気がして、そろりと横目を向けると芦家が僕の顔を眺めていたようで合う。僕はそれをもう無視しようと、前を向いたのに、それでも長く僕を見つめてくる視線に耐えきれず、僕は芦家の方にもう一度顔を向けた。

 一体ずっと見てきて何だと言うんだ、という苛立ちが募った。

 

「何…?」

「意外だった」

「…何が?」

「案外自意識過剰なんだなって」

「………は?」

 

 一体何なんだ、この男は。僕の日本語の理解不足のせいなのかと思ったが、多分そうではない。

 自意識過剰、とは僕の行動や言動に対して評価であり、大雑把に言えばあまり良く思っていない時の言葉である。その言葉に僕は片眉を跳ねさせたが、彼の表情に毒気を抜かれる事になる。何故か屈託なく笑っている。楽しそうに。そんな言葉を言ってきた癖に、訳が分からなかった。

 

「知れて良かった」

 

 僕はその言葉に何も返す事なく、頬を引き攣らせる事しか出来なかった。

 日本人はちょっと感情が分かりづらい、ヒカルもピアノ以外はわかりづらい時ある、何て昔、共に音楽を学んだ学友は僕をそう評した時があったが、それは間違っていないのかもしれない。

 僕も彼が何を考えているのか、全く分からない。

 芦家亮介、彼は一体何なのだ。

 これから、毎日のように顔を合わせる事になる、美柑色の髪を持つ隣人に僕は困惑を隠さずに、口元を引き攣らせる他なかった。



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