第一話
夏休みの日曜日。妹から必死の思いで逃げていた稽古服姿のままの俺は道場から徒歩7分ほどの小学校のプールくらいの広さの公園のベンチでくつろいでいた。
「はぁ、はぁ、ふぅぅぅ、ここまでくれば大丈夫だろ」
一旦落ち着くことに成功した俺は周りを眺める。逃げるのに必死で気づかなかったが目の前には蟻を踏んでいる少年がいた。
「ねぇ君、なにしてるの?」
少年の行動が気になった俺は怖がらせないように表情に気を遣いながら、息を整えて、極めて穏やかに、優しく言葉を投げかける。
「ありふんでる」
少年は声音を少しも変えることなくすらすらとそう答えた。
この言い方は踏んでることを何も悪いと感じていないな。いや決めつけは良くないか。
「どうして蟻を踏むんだい?」
一様そう問いかける。まあ「楽しいから」的な子供特有のサイコパスを醸し出してくることはわかっている。
「このありさっきぼくがいっかいふんじゃってげんきなくなっちゃってくるしそうだったんだ、だからはやくてんごくにいかせてあげていたくないようにしてあげようとおもって」
その少年は申し訳なさそうにしながら蟻を踏み続ける。
……は、恥ずかしい
蟻を理由もなく踏むという行為をやめさせて、くそガキという枠組みから男の子へと人間的に一歩成長させる俺もしかしてかっこいいのでは?とか考えてた自分を殴りたい。
なんならこの男の子に綺麗なお姉ちゃんがいてお礼がしたいとか言われてなんやかんやあって恋愛に発展して…とか妄想しちゃってたよね。いや、チェリーだもの。仕方がない。うん。きっとそうだ。
とりあえず心の中でよくわからない理由で自分を擁護することに成功した俺はもう一度少年の方を向く。そしてもう一度深く考えてみる。確かにこの子が言ってることは正しいかもしれないし、気持ちもわかる。でも生物の命を摘み取る行為は痛みを与えるのよりも比べ物にならないくらいに重いのではないだろうか。少なくとも俺はこんな優しい子が命を奪うのを形容できない。
「なあ少年、苦しみながら死ぬのと、少し苦しくても生きるのどっちがいいと思う?」
「生きる方!」
男の子は間髪を入れずにそう返事をした。きっと素直な子なんだろう。
「じゃあ『痛い痛いっ』って言いながら死ぬのと少し痛くても生きるのどっちがいいと思う?」
「生きる方!」
よし、もう一押し。
「じゃあ君は今アリさんをどうした方がいいと思う?」
「…えーっと、あっっ!」
何かに気づいた少年はすぐに地面を叩いていた足をあげる
「ぼくもうふむのやめる!!」
少年は大きな声でそう口にした。幸いなことに蟻は少し弱ってはいたがまだ死んではいないようだ。
__よかった
ホッとした俺はまだ見ぬ少年のお姉ちゃん(仮)が脳内を埋め尽くし、非常に気持ち悪い笑みを浮かべる。
「お兄ちゃん?」
男の子に喋りかけられ俺は急いで穏やかな顔を引っ張り出す。
「ん?どうした?」
「ぼくはどうすればありさんにゆるしてもらえるかな?」
「……えーっと、」
続く言葉を脳細胞を総動員して考える。
しかし脳内のお姉さんを抹消するのに時間がかかっていた俺よりも早く__
「アリさんに謝って、そこにあるアリさんの巣の目の前までアリさんを持っていってあげてそれからもうしませんってアリさんにいったらきっとアリさんも許してくれると思うよ。」
少し蟻さんを言いすぎてる気もするが、まるで模範解答と言ってもいいくらいの回答が俺の肩から元気で活発なイメージを彷彿させる声で発せられる。
それ俺が言おうとしたのに。なにやってくれてんだよ。誰だよ。
まぁ聞き覚えがない声というわけではない。
というよりむしろ毎日聞いていなくもない。よって後ろを向くのが怖い。
頼む俺に気づくな妹よ。
「ね、お兄ちゃん?」
俺の願いは虚しく早急に潰えた。
「お、おう。そうだな!」
「何か言うことがあるよね?お兄ちゃん?」
「……キミノナマエハ?」
「殴られたいの?」
___これはやばい
見るからに膨れ上がっていた妹を包む負の感情をこれ以上おぞましいものにしないように俺は華麗な身のこなしでベンチから降りて、これ以上ない綺麗な土下座を決め込む
「すみませんでしたぁぁぁぁぁぁぁ」
ガンッ
勢い余った俺のおでこは地球に強烈な頭突きをかます。
「っっ!」
声にならない悲鳴をあげながらもすぐに顔をあげ妹との話し合いによる平和的解決を試みる
「志乃、俺がお前と亜乃のぶんのスーパーカップを食べたのは悪いとおもっている、しかし考えてみてくれ。稽古で疲れていて目の前にスーパーカップがあったらどうする?食べちゃうだろ?でもまぁ自分達のアイスを食われてだいぶご立腹なのもわかる。だからハーゲンダッツ2個で手を打たないか?」
妹よ頼むからこれで許してくれ。
「…7個かな」
うわこいつマジかよ、流石に高ぇよ。
「なんでそんな微妙な数字なんだ?」
「私たちの分3個ずつとお兄ちゃんの分1個」
「いやお前そんな食えないだろ」
「別に今日一日で全部食べようとしてるわけじゃないから」
ひでぇ、こいつ人間の心を持ってねーよ。
「わかったよ」
渋々了解した俺を見て満足そうな妹を確認した俺は正座したまま黒目だけを向けて少年の方を見る。
…………少年頼むからそんな顔で俺を見ないでくれ。顔だけで明らかな失望を伝えないでくれ。これが『男』っていう生物なんだ。妹に逆らえないのが『お兄ちゃん』ってやつなんだ。反面教師だって?ばかやろう、むしろ見習え。
「ねぇ、ぼく、こんなお兄ちゃんみたいにはならないようにしなきゃだよ?だからアリさんにしっかり謝らなきゃね」
「うn…はい!!」
おいこら少年、お兄ちゃん泣くぞ?
「さぁお兄ちゃん早く行くよ?」
稽古服を引っ張られ、ずるずると引きづられながら公園を後にする俺を男の子は見て見ぬふりしている。
これもしかしたらこのままいけば俺はこの子に非常にダサいやつだと思われるのでは?
ここで終わらせてたまるかぁぁぁ!!少年のお姉ちゃん(仮)のためにもぉぉぉ!!!
「少年!!名前はなんていうんだ!?」
少年以外に男の子はいない。これで気づいてくれるはずだ。
「ぼく?ぼくはかずや!」
「かずや!!強く優しく生きるんだぞ!!」
「う、うん!お兄ちゃん、お姉ちゃんありがとう!!!」
よし、これでオッケーだ。
「全く、なんでそれでドヤ顔ができるか私にはわからん」
何か聞こえた気がしたが気のせいだろう、きっと。
世の中はいつだって二面性を持つ。簡単に言えば、男か女かだったり、もっと極端なことを言えば、『人間かそれ以外か』みたいな感じで、『何とかとそれ以外』と言うふうに分けることができると言うことだ。また、例えばかずやのように、純粋無垢な心は正義にも悪にもなり得る。だからこそ子供よりひとまわり成長している者たちが、その子供が間違ったことだけはしないように正しく関わっていく必要がある。被害が及ぶ前に。
ただし、『間違い』とはあくまで我々人間の一般的思考にすぎない。
蟻の気持ちがわからないように自分以外の生物の気持ちは知る由もない、いや、気持ちを考えようとはしているのかもしれないが、自分が勝手に気持ちに寄り添っているように思ってるだけで、結局は『自分』と言う生物以外の感情の本質など到底理解などできるわけがないのだ。