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ラスト・オムライス

作者: 橋本たなか



母は火曜日が夜勤の為、家に帰ってくるのは水曜日の朝七時頃になる。だから火曜日の晩ご飯は、見ず知らずの人と食べることにしている。


母は看護師、父は工場で働いていたが、私が小学二年生の時に離婚した。目の前で激しい言い争いを繰り広げていたのを、内容ではないが覚えている。晩ご飯のオムライスを懸命に食べている時、神妙な顔をした母から問われた。


「お母さんとお父さん、別々に暮らすことになったんだけど、日向子はどっちと一緒に暮らしたい?」


そうなる事は予想がついていたが、実際に聞かれると答えを出すのは難しかった。本当は三人でずっと一緒に暮らしたい。でも父の工場のにおいと汗が交じった濃い匂いよりも、母のミルクのような甘い匂いが好きで、ただそれだけの理由で「お母さん」と答えた。細くていつも優しい母は、私が潰れてしまいそうな強い力で抱きしめて、父はゴツゴツした大きな手で壊れ物を扱うかのように私の頭を撫でると、何も言わずに出ていった。

私を撫でた父の顔を、私は思い出すことが出来ずにいる。

それでも子は育つ。この数十年、母と共に過ごしてきて日々の思い出は食事で成り立っていた。

母は朝早く仕事に行き、私がうとうとする夜遅くの時間帯に帰ってくる。私は朝ご飯を食べると母の作ったお弁当を持って学校に行き、晩ご飯は母が作り置きをしていた料理を温めた。母の手料理が私と母を繋ぐ架け橋だったのだが、私が中学生になったその日、


「もう中学生になったんだから、ご飯の準備は自分でするようにしなさい」


と、言われてしまった。

仕事で疲れている母に迷惑をかけたくなくて、試行錯誤をしながらレシピ本を片手に見様見真似で料理を作った。もちろん母の分も含めて。

食費の予算は週に二千円程。慣れてきたら特売日を狙い懸命に予算より安く買い物をし、余ったお金で友達と遊んだ。高校生になってからは週二千円の食事代と月五千円のお小遣いを渡されるようになった。やりくりって意外と楽しい。

全てが丁度良い日々になりつつあったけど、何かが足りなかった。

ある日、自分で作ったケチャップソースのオムライスを食卓でかき込んでいると、母に問われたあの日の光景を思い出した。そこには優しい母の顔と父のぼやけた顔があった。その時、足りない〝何か〟がなにであったかを思い出した。

私が食べているのを見ていたあの顔である。箸を持ち、私を撫でたあの手である。

忘れてしまっているはずなのに、私は急激にそれを欲した。いてもたってもいられなくなくて、オムライスを運んでいたスプーンを携帯に持ち替え、SNSの裏アカウントを簡単に作り、このような文章を載せた。


「火曜日の夜、高校生の私とご飯を食べてくれる優しい男性募集中です。#女子高生#裏垢女子#DMください」


行おうとしていることがどれだけ危険なことか、どれだけ自分の身を削ることになるのかは,想像するに難くなかった。

しかし、そんなことどうでも良い。

私の目の前に誰もいないという事の方が耐え難く,別に母や父じゃなくても人なら誰でも良かった。携帯を置き、オムライスを食べ終え、お風呂に入り、寝床でくつろいでいると、携帯がかすかに震えた。


「初めまして。どこに住んでるの?一緒にご飯、食べる?」


応答があった。

詳しく自分について教える事はさすがに止めておいた方がいいと分かっていた為、「関西在住です」とだけ返した。返事は直ぐに来た。


「僕も関西。ちなみに大阪です。どこで待ち合わせする?」


私はとある駅を指定した。


「了解。じゃあ来週の火曜日。時間は二十時くらいで良い?」

「はい」


終了。

思っていたよりも簡単に人は釣れた。もう一度布団をかぶり、次は確実に寝る姿勢に身体を整えて目を閉じた。

約束の火曜日が近づくにつれ、「やってしまった」という気持ちは大きくなり、友人と話していると「こんな私と仲良くしてくれているなんて」という罪悪感も同居した。そして"パパ活”という言葉を知った。でも、もう後には戻れない。

約束の火曜日、私は私服をカバンに詰めて登校した。何事もなく学生を済まし、約束の時間になる前に駅のトイレで着替えた。

トイレから出て歩き出した途中に彼から連絡が来た。


「どこにいますか?」

「南口の改札付近にいます」

「向かいます」


彼を迷わせないように南口の改札付近に戻り、そこからは動かずに彼を待った。どんな人だろうかと心を少し高ぶらせながら。

五分後、目の前にスーツを着て眼鏡をかけたおじさんが現れた。五十代半ばくらいだろうか。


「ヒナちゃんかな?初めまして」


彼だ。


「はじめまして」


軽く会釈をする。


「早速やけど、駅から出た近くに美味しい焼肉屋があるんよ。洋服に匂いつくん嫌やろうけど、味は確かやからそこ行こか」


私は笑顔で頷き、あまり父に似ていないな。と思いながら彼の隣を歩いた。

歩いて十分、本当にすぐ近くに焼肉屋があった。

知らない名前の大衆的ではない焼肉屋には個室があり、そこに通された。


「知らんやろうから僕が選ぶね。なんか飲みたいものとかある?」

「お茶か水でお願いします」


私が遠慮していると思ったのか、彼は「お金は僕が全部払うから遠慮しないで」と微笑んだ。

やってきたお肉は口に入れると簡単に溶けてしまい、味はよく分からなかったが、きっと美味しいものだった。彼はずっと自分について話していた。


「僕には妻と君ぐらいの子どもがいるんやけど、上手くいかんくてな。一緒に揃ってご飯食べることも減ったわ」


仕事は国立大学の先生をしているとも言った。大学の先生が自分の子ども同じくらいの年齢の子とご飯を食べ、この後はきっとホテルに向かう。自分で誘っておきながら、気持ち悪くて最低だなと思う。それでも久方ぶりに人と向かい合いながら食事をしたことに、私はとても満たされていた。

だから次は、私が彼にあるだろう欲を満足させないといけない。


「さて、そろそろ行こか?」


私がデザートのアイスを食べ終わるのを見届けると、薄っぺらな財布を取り出し、慣れた手付きでお金を支払った。お店を出て軽く伸びをした彼のくたびれた腕に、私は腕を絡ませる。

「ホテルってどっちの方向にあるんですかぁ?」


女性がどんな風に男性を指そうかなんて分からないけど、この初々しい感じが良い気がする。精一杯の上目遣いをし、精一杯の甘い声を出した。

しかし彼は、「違う違う」と笑いながら私の腕をはがした。。


「そういうつもりやなかってん。ほら、僕には君ぐらいの娘がいるって言ったやろ?でも、全然一緒にご飯とか食べてくれんくて、淋しかったから君みたいな若い子に甘えたんよ。だから、ホテルとかそういうのではないねん」


とても申し訳なさそうな顔した。


「は?」


耐えきれず声に出してしまうぐらい、私は呆気に取られた。


「やっぱりお金に困ってんのかな?今日はご飯一緒に食べてくれて嬉しかったし……これ、少ないけどお小遣いやと思って。でも、もうこんなことしたらあかんで。君はまだ子どもやねんから」


彼は私に一万円を握らせ、「じゃあ」と言うと早足で消えていった。

なにこれ。

私は覚悟と様々な罪悪感を犠牲にしてやって来たのに、彼にとって私と会うのは、ただの慰めに過ぎなかったというのか。

怒りで震えた。帰りの電車の中で、私は次の相手をすぐに見繕った。

次に食事をしたのは独身の会社員だった。お洒落なイタリアンで黙々とパスタを食べた。無口な人だった。彼にも同じように腕を絡ませたが、慌てた様子で逃げていった。

次。

今年の四月に就職したという二十代の男性。

騒がしい居酒屋で自分が経験した武勇伝を沢山する人。若いし羽目を外すには丁度良い年齢だったと思ったが、彼は「明日早いから」と言い、軽い足取りで帰っていった。

何人かの男性とご飯を食べたが、全員ご飯を食べるだけだった。お金を握らせる人も居たが、ホテルに行く人は誰もいなかった。

そりゃそうだ。誰も女子高生とホテルに行って犯罪まがいなことをする人はいない。そんなことより、大人ぶって説教垂れて、間違った子どもを正しい道に進ます方が気持ちいいのだ。学校でテストを受けている時、急に悟った。

そこからの誘う人は見境なしになった。

仕事帰りのOLとのインド料理。同い年くらいの女子とのファミレス。塾帰りの男子中学生とのファストフード。妻に先立たれた老人との和食。

みんな私と同じようにひとりぼっちで、みんな私を誰かに照らし合わせ、その人を思いながら元の道へと帰っていく。それを少し、うらやましく感じた。

私はまだ子どもだから、母と父がもう一度向かい合って食事をする〝もしも〟についてを想像する。だけど、もう大人になりかけているから、それが叶わないことを知っている。だから、私はあの夜に食べたオムライスと向き合わなければならない。

あのケチャップソースと卵の味を、忘れないために。


水曜日、私が作った朝ご飯を食べる母に質問をした。


「お母さんの好きな食べ物って何?」


数十年も一緒に住んでいるのに、私は母の好物さえ知らない。


「えー、何かな。オムライスかな」


母はほうれん草のおひたしをつつきながら、テレビを横目に答える。


「私、オムライスあんま好きじゃない」

「え、そうなの?よく作ってるから好きなんだと思ってた」

「でも、最近美味しさに気づいてきたから、次の火曜、また作るから食べてね」


母は少し泣きそうな、それでいて優しい顔をした。


「ソースはデミグラスでお願い」

「ケチャップじゃなくて?」


母はキョトンとした。


「いや、お父さんがいた時はケチャップの昔ながらって感じのオムライスだったから……」


父の話を出していいのか迷ったが、進むために、なるべく自然に尋ねる。


「ああ、あれはあの人が作ってたから」


「あの人」という言葉にひどく傷ついた。私の中では「父」という血縁ある家族だけど、母にとってはもう「あの人」という名前もない他人なのだ。


「そうなんだ」


それも母なのだと思う。


「じゃあデミグラスソースの練習もするね」

「頼むわ」


角張ったしっかりとした手で私の肩に手を置いた母の手は、なんだか父の温もりと似ているような気がした。まあ、多分気の所為なんだけど。


女の自分に価値があると思っている勘違い少女を書きたくて。

価値なんてなくても別にいいのに。


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