6/7 リーチ・フォー・ザ・コメット
時代錯誤なビープ音が鳴る頃には、おれは既に船外作業服をフル装備で待機していた。
できる範囲で、おれが思いついた工夫も凝らした。関節の部分にグリスを塗って動きをよくするとかな。
「彗星だッ──」
「おはよう爺さん。彗星だ」
おれは溌剌とした眼差しの爺さんにモーニングコーヒーをおみまいしてやる。
骨董品の食料生産プラントで作られたそれは、濁りきった泥のような色をしていた。
爺さんは渋面をして、それを喉に流し込んだ。
「よし位置に着くぞ。おれは船長で、船外作業を担当する。巻き尺は──」
「分度器は,」
「あー分度器は。操縦桿を握ってくれ。それから、爺さん。前回と同じく、熱線照射を頼む」
「……いいツラになったな、船長帽」
「生まれつきだよ」
臓器なんかは売ってきたが、顔面の皮膚は値が付かなかったんだ。
船外に出た。
そこは、無明の闇だった。
前を向いても後ろを向いても、右を見ても左を見ても、広がっているのは無限の暗黒だ。
それは否応にも孤独を想起させる。
だが、おれは知っていた。
闇を往く彗星の、あの白き輝きを知っていた。
恐れることなど何もなかった。
おれは星見台に跨がる。
おれにできることは、この祭壇の上で、ただ同乗者を信じ抜くことだけだ。
『x,y,z軸は一致している.分度器は,移動する物体の角度を完全に掌握した』
『加速度の調整はママに任せてください』
よし……!
目前には暗闇しかないが、二人がこう言っているということは、間違いなくこの先に彗星があるのだろう。
『爺さんッ!』
『おう! 目ぇ、つぶるんじゃねえぞ! 三ッ、二ィッ──』
──彗星が、輝く!
強い光を受けて、おれの視界が白くチラつく。網膜に彗星が焼き付いたのだろう。むしろ、観測という意味では好都合だ。存在強度を弱めることはないだろう。
眼は逸らさない。おれが逸らさないかぎり、彗星は近くにあるのだから。
近づく。
視界の割合は、黒が3で白が7。まだまだ遠い。
近づく。
白が6、白が5……もっとだ、もっと近づける。
『ママは、安全の観点から等速運動に移行することを提案します』
『却下だ! まだ、まだ近づける!』
近づけ。
まだ、この前よりずっと遠い。
近づけ。
鼻先に眩しさを感じるほどに。
──迫れ、迫れ、迫れッ!
いっそ頭からぶつかって、つま先の端まで粉々になってしまってもいい。
もっと、もっと距離を。まだ足りない、まだ足りない、まだ足りないッ……!
『──熱放射!』
爺さんが叫んだ。
ぷつり、ぷつりと。
彗星の表面から、泡が立ち上る。表面が溶けだしているのだ。
おれは呼吸を止めてそれを凝視する。
ひとつぶ、ふたつぶ……、さんつぶ、よんつぶ……。
息が苦しいことに気づいておれは口を開けた。
涎が宇宙服の内側でだらだらと垂れて、腕で拭おうにも拭えず、垂れるに任せた。
崩壊の瞬間が近い。近付いてくる。
おれはその瞬間を見逃さない。
宇宙における破壊のスペクタクルは無音だから眼を凝らさないといけない。
銀のあぶくがひらひらと宙を舞う。
決定的な破壊まですぐ近い。
もう間もなく迫る。
今だ。
──白銀の奔流がおれを呑む。
それは、何度見てもくそったれに美しい光景だった。
何兆本もの輝く線が、おれに向かって走ってくる。
おれはそれを受け止める。それが星見台に跨がるおれの役割であり、きっとおれは役割を担っていなくてもそうしたのだ。
何京条もの乱反射する光の中で。
おれはただ、彗星を見つめている。
彗星の光はおれをすっぽりと包んで、おれの周りで踊っている。
何垓粒の粒子はところ構わず動き回っている。
それが光となり、線となって尾を作る。
おれは彗星のいとなみを観測続ける。
目が眩む。ちかちかする。
『──し! 十分な量は回収した! 放熱停止! これにて状況終──』
星屑の雨に曝露していた時間は、感覚的には一瞬だが、前回よりもずっと長い。
テレパス通信の声は成功を確信した声で、きっと300万クレジットなんて比じゃない額が期待できるのだろう。
でも、今のおれには、そんなことは問題じゃなかった。
体が動いていた。
いける、と思った。
おれは手を伸ばした。
ああ、おれの手は短い。
それは知っている。
もう時間がない。
今からコンマ数秒後にエンジンは逆噴射して速度を落としその進路を変える。
それじゃあ、あの星に届かない。
だから、おれの背についていた、邪魔な命綱を星に向かって投げつけた。
バカみたいに長い紐が、虚空へと飛んでいく。
おれもすぐ向かう。
『──い! 船長帽! オマエ何を──』
『──険です。ただちに作業を終了し──』
おれのいる星見台は、宇宙船の先頭にある。
足下に何発も蹴りを入れてやる。
衝撃でぐらぐらと脳が揺れる。ピンク色の動物たちがタンゴを踊ってる幻覚が見える。
『──告、危険です、危険で──』
でも関係ねえ。おれは動きを止めない。
骨董品の、博物館ものの、ガタが来ている宇宙船のパーツは想定してない直接的な衝撃に酷く弱い。
おれは脚力で土台を破壊し、そのまま足下をいっそう強く蹴って、跨がったまま宇宙空間へと自分の体を放り出す。
──突っ込むぞ! 掴まれッ!!
『なっ──』
コンマ数秒の世界の中で。
仲間たちの、息を呑む声が聞こえた気がした。
──かつての大理論曰く。
50kmで走る電車内で50kmのボールを投げると、外側の観測者には時速100kmに見える。
資源回収船テツヤワタリは、彗星と併走するために限りなく彗星に近い速度を維持している。しかし光より速く星々を駆ける船に、時速11万キロメートルなんて遅さを合わせることはできない。メモリが違う。大雑把な位置取りをせざるを得ない。
だから、上辺を撫でるように近寄って、満足したら帰っていく。
──だが、それじゃあ、彗星に手が届かない!
そこで資源回収船の時速11万+α(プラスアルファ)キロメートルに、おれの脚力──時速で言ったらせいぜい10kmかそこらを上乗せして──。
おれ自身を、二段式ロケットへと変えた!!
星見台とおれはそのまま、放熱を止めたために再び凝固し始めていた氷の塊へと突進するッ!
「ぐあっ……!」
当然、その衝撃は大きい──が、おれは、耐えた!
後ろから追突した時の衝撃は、こっちの速度が超過した分だけだ。時速100kmで走る黒塗りの車に時速101kmで追突したらその差は1km分の衝撃しかない。その桁を100倍にしただけの話だ。
……ああ、数字の話はどうだっていい。
重要なのは、星見台はしっかり彗星に突き刺さっていることと、何よりおれがまだ生きていることだ。
そして何より大事なことは、おれは、彗星を──掴んだことだ!!
『総員に告ぐ! 彗星を、捕まえた! これより帰還する! おれの服には着磁器にて磁気処理を施している! 回収を頼む!』
『おまえ、大した無茶をしやがるな!』
『だが生きてる! おれはこの手を放さないつもりだが、体の方が言うことを聞いてくれるとは限らない、できるだけ早く永久磁石を起動してくれると助かる。彗星ごと持って帰るぞ!』
『了解だ! ……船長っ!』
・・・
・・
・
『ママは怒っています。なんでだかわかりますか』
寝る前に歯磨きをしなかったからかな? それとも、左右別の靴下を履いてることか。
『わかっているでしょう。あなたは、死のうとしていました』
「結果的には生きてる。それに、死のうと思ったわけじゃないさ」
おれはただ、彗星を掴みたかっただけなんだ。
かぷかぷ笑う星屑に、見せつけたかっただけだ。
その過程で、そのワガママに付き合ってもらう詫び料として、自分の体に磁石塗りたくって、仮におれが死んでも、おれの死体ごと彗星は引っ張ってこれたようにしただけだ。
あー、だから機嫌を直してくれよ。
おれは、ママがいないとダメなんだ。すごく頼りになった。
『その言葉に虚偽はありませんか』
「ないよ」
非生物的な、感情を感じさせない声に、おれは確かに感情の存在を感じていた。
「船長.あなたは,無謀だ」
「お、なんだ筆箱。あんたからおれに話しかけてくるなんて初めてだろ。流星でも降り注ぐのかな」
「だが,分度器はあなたの蛮勇に敬意を表する.あなたのお陰で,目的にまた一歩近付くことができた」
「そいつはよかったな」
「……おい、若造」
おっと。筆箱の次は爺さんか。
おれにもモテ期が来たらしい。
「俺はな。おまえを、ハナタレの、ノロマの、使いモノにならん芋野郎だと思ってた」
「まあ間違いじゃないだろう」
おれは色んなモノを売っ払って、何も持っちゃいないからな。
だから彗星が欲しくなったんだ。
「おまえは、星海の男だ。船長」
……そうか。おれは、星海の男だったのか。
その言葉は曖昧で、不明瞭で、定義がわからないのに、おれの胸にストン、と落ちてきた。
「が、ガチャ──くそっ……時間切れか。ま──ガチャチャーー──また、話せるとい──ガチャ──いいガチャ」
ああ、そうだな。
おれがそう答えようとしたときには、残念ながら目の前の老人からは既に知性の光が失われていた。
……まあ、また話せる機会もあるだろう。その時には食料プラントのカテゴリ<慰安>の、メタノールでも相伴しようと思う。
「……よし。船長命令だ。大荷物を落とさないまま、最大最速まで飛ばせ! 陸に帰って、土産話の準備でもしながらな!」
「分度器は,時速5000兆キロメートルまで加速する.」
『ママは、計算を補助しますね』
「ガチャ~」