5/7 解析終了
それから、三日が経った。
暴力で伸びていた筆箱はあの後すぐに意識を取り戻し、しかし打ち所が悪かったのか、自分は製図用コンパスだと主張し今も千鳥足で回転を続けている。
その脚はおぼつかなく、これでは真円は描けないだろうなと思った。
ガチャという鳴き声の珍しい老人型の生物は、相変わらず曖昧な世界に生きている。
窓の外の暗黒に視線を漂わせている。彗星を前にした時の姿は、気の迷いが生んだおれの錯覚だったのではないかと今では疑っている。
「ママ、ここの腐れ廃人ども三匹に給餌を頼む」
『お友達のことを悪く言ってはいけませんよ。自分を悪く言うのはもっといけないことです』
「ママ……」
『はい。あなたのママです』
人間の認知というものは不思議なものである。
ふとした瞬間、『本当にママなのでは?』と錯覚しそうになるのだ。
一辺倒で、無機質で、無感情な船内に響く声に対して、なぜか親しみを感じるようになってきていた。
きっとおれは疲れている。心的過労状態だ。睡眠行為が必要かもしれない。
『お疲れなんですか?』
「ああ。そうだな」
『じゃあ、ママがヒーリングミュージックを再生してあげますね』
おれは体を横たえた。
すると、脳内に暖かく、やわらかな音が形成されていく。
未来世紀の音響機器は、指向性を持たせることで、当人にのみ聴くことのできる音を発することができる。
この技術の発展は司法が静音権の存在を追認したことと無関係ではない。ヒトの命は無尽蔵に尊重されるべきという観点から、ヒトそれぞれの生存権を可能な限り追求することは是とされた。
戦争と行き過ぎた人道主義は発明の大母だ。
『目を閉じてください』
おれは無機質な言葉に従い、目を閉じる。
すると、まるで柔らかい膝の上に頭を乗せているような感覚を覚えた。
もちろんこれ錯覚だ。目を開けたそこには何もない。ただの狭くて私物が置けない個室だ。だが、目を閉じるとやわらかな膝がある。
立体的音響は、聴覚だけで五感を誤認させることも可能だ。もちろん人類ヒト科動物の五感を司っている脳の部位は、当然視覚が占める割合がもっとも多いため、目を閉じない限りはこの感覚は味わえないのだが。
──さあとおだやかに流れるさざ波。
──しとしとと屋根を叩く秋の小雨。
──木漏れ日が頬を撫でる森の木陰。
音は、イメージを膨らませる。
それは、一人で、静かで、豊かで……。
『たくさん甘えていいんですよ』
意識が、穏やかな音の波と、緩やかな微睡みの沼へと溶けていく。
……うーん、本当にママなのでは?
おれの精神状態はとても順調だ。
順調に、この船に適応している。
薄れゆく意識の中おれは思った。
・・・
・・
・
くねくねと曲がりまっすぐに直ちになり、膨張し拡散し伸び縮みし続ける、くらげのような四肢を持った宙を漂う猫は、あなたに語りかける。
人間の尊厳とはどこにあるのかと。人生の意味は何かと。
社会的成功か、はたまた生物学的に優れた形質のつがいを得ることか。
それとも、確固たる信念を獲得することか。
くらげねこは価値判断命題を問う。唯一絶対の解などありはしない。
それを承知でくらげねこは問い続ける。その行為に意味はなく、意味はないという解釈にもまた意味はなく、意味はないという解釈にも意味がないという解釈にも意味がなかった。
くらげねこは、どこまでもくらげで、かつ、ねこだからである。
くらげねこは問う。四肢を伸び縮みをする。そのうち、一般猫のように胴体を曲げた。
ああ、四肢に比べて胴体は伸びないのだな、と。あなたは思った。
・・・
・・
・
何か気がかりな夢を見たような気がするが、瞬きした頃にはもう忘れ、おれはすっきりと目が覚めた。
どこまでも爽やかな目覚めだった。
目覚めの歯磨きをする代わりに、おれは自分の頭を洗面台に一発打ち付けた。
おかしい。何がママだよ。
毒されている。
『おはようございます。大きな音がしましたが、何かありましたか?』
「いや、何でもない」
『そうですか。どんな小さなことでも、ママに何でも相談してくださいね』
ママ……。
『そして、報告します。あなたがおやすみしていた間に、彗星微粒子の解析が完了しました』
「おおっ!」
おれは大声を上げた。
その声に筆箱が反応する。虚空に向けて喜ぶおれに対して怪訝な表情をしている。
奴はただ、自分が数学的な無機物であるという強い観念を抱いているだけで、どうもそれ以外は比較的まっとうな感性をしているようだ。
しかし残念なことに、自己認識という最初の一歩で致命的につまづいている以上、奴に歩調を合わせられる人間はかかりつけのドクターくらいになってしまう。
そして更に残念なことに、長期航行を前提にしているにも関わらず、コストカットの理由から、この船には高給取りの航行医なんて存在はいないのだった。
おれは憐れみを覚えた。
「ママ。あいつらにも声が聞こえるようにしてやってくれ」
『はい。かしこまりました。──乗員のみなさま。わたしは、あなたのママです。彗星追跡によって得られた微粒子についてお話しします』
相変わらず名乗りが狂ってるな、とおれは感じ、まだこれが狂ってると認識できることに安堵した。
『組成物の分布はH2Oが82%、COが2.1%、CO2が1.7%、 CH4が──』
おれはだらだらと並べ立てられる化学式を右耳で聞いて左耳に受け流す。
重要なのは溶けた氷の中に金蔓があるかどうかであって、その内どれくらいが水なのかとかはどうでもいい情報なのだ。
『総計して──銀河系流域では、相場平均から、300万クレジットになるでしょう』
300万。
……あの一瞬だけで?
『はい。この成果だけでも、彗星探査船の下船許可は降りますが』
そう言えば、ノルマを達成すれば降りていい、なんて条項を取り交わしていた気がする。
「……いや」
だが、おれには降りる理由がなかった。
だってこんなにも割のいい仕事なのだ。
「おれは、降りない。……だけど、お前たち二人はどうする? 好きにしていいぞ」
おれが借金取りに与えられた役割は、船長だった。
それを思いだし、船長のように振る舞ってみる。
「分度器には,角度を算定することの他に製造目的がある.」
「ガチゃ~~ぁ」
……そうか、降りないか。
何を言っているのかよくわからない、どう考えても頭がおかしい面々に、おれはいつの間にか、スプーンひと匙ほどの愛着を感じていた。
「よし、それなら満場一致で続行だ。ママ。あの彗星を追うことはできるか」
『はい。彗星の軌道は恒星の引力の影響を受けません。計算は容易です』
「全速力だ。時速11万キロ程度でちんたら走る彗星のケツに、焦げ目をつけてやろうじゃないか」
船と彗星との星間距離は、せいぜい1000万キロメートルかそこらだ。
光の速さで1分と掛からない。
『不謹慎かもしれませんが、ママはちょっと嬉しいです。あなたたちに、まだまだ、いっぱい甘えさせてあげられますから』
その声は、やっぱり無機質だった。