4/7 コトダマドライブ
おれが船室に戻ってくると、そこは阿片窟になっていた。
涎を垂らしてぶっ倒れた筆箱と、涎を垂らして笑っている老人がいる。
深い皺に刻まれた年輪が泣いていた。
「おい爺さん。いったい何があった」
「ガッチャぁ~」
意識がどこか遠くに出かけてしまっている。
先ほどまでの面影はない。知的存在かどうかさえ疑わしい様態だ。
この状態の男の口からは、今まで意味のある言葉が一単語たりとも発されていないし、多分これからもそうだろう。
そしてもう一人は意識を飛ばしている。
おれは再び、この宇宙の果てで孤独になった。
状況から判断すると、この船はどうやら、エンジントラブルが発生したようだ。
そのまま行くと当然、彗星よりも加速度が高い当宇宙船は凄まじい速度で追突しにいくことになる。
そのため、どうにか逆向きの力をかけ、速度を抑えたのだろう。どっちの涎がやったのかは知らない。
『わたしがやりました』
船内に無機質な声が響く。
「誰だ」と静かにおれは問うた。
『ママです』とその声は答えた。
頭がおかしいのかなと思った。
試験管から生まれたおれに、ママとやらの心当たりは、当然ない。パパの心当たりもだ。
寸借詐欺とすれば斬新だ。かつて超超高度ストレス耐久実験を行っていた実験惑星地球にて流行していた詐欺のひとつに、標的の血縁者を名乗ることで近寄ろうとするものがあったらしい。恐らくはそれの類型だろう。
だが、多重債務者である今のおれに渡せるものは何ひとつない。カネを捻出するために、持ってるものはだいたい売り払った。BIIに蓄積された経験知だって、行政文書の読解力、数字的余裕を許容する経理、自転車運転など、値段が付けられるものならどれもこれも既に売り払っている。
おれを狙うことに、何の意味もない。
『ううん。あなたには、まだたったひとつの命があるわ。それは、とてもとても尊いものよ』
命を説いてきたのは、無機質な声だった。
この船の乗組員は3人。確かにそう聞いていた。
「密航者か。こんなところに来てしまうとは、お前も大変だな。ここは、恒星系から遙か遠い孤独の世界だ」
『いいえ。違います。わたし、密航者じゃないわ』
じゃあ、何者だと言うんだ。
『ママです』
埒があかないな、ミスター……ミス?くそったれ。
『おれは心当たりがない』と言っているんだ。
『ママは寂しいです』
平坦で一本調子な声に、悲しみの念は乗っていない。
おれは、声の主の人間性を疑って──人間?
「お前は、人間か?」
『いいえ。違います』
その言葉でようやく理解した。
《スター・ハンティング・マニュアル》の18ページ、『宇宙空間における正しいトーストの焼き方』の隣に記載されていたものだろう。
この船には、人間以外の同船者がいる。
Machine of Affection & Mechanical Assistant──略して、MAMA。
通称《コトダマドライブ》。
──この船のメインエンジンだ。
・・・
・・
・
未来世紀3020年においても、真の意味で完成した永久機関は未だ誇大妄想狂の頭の中にしか存在していない。
しかし、恒星磁場を動力にした《ネプチューン》や、自転公転を利用した極大規模の動力機関《アルマゲスト》など、投下する素材を限りなく少なくした、超高効率・高倍率で実用化された動力機関は数多くある。
《コトダマドライブ》もまた《猫トーストドライブ》同様、かつて流行した──そして今では廃れた──動力機関である。
かつて、このような発見があった。
──水に『ありがとう』と言葉をかけると、できあがる氷の結晶は美しくなる。
大発見だった。この発見によって、教育界は微震し、学界は冷笑し、猫界はひなたぼっこの効率的体勢を追求した。
あるいは、このような発見があった。
──人間は認知によって、現実を変えることができる。
大発見だった。この発見によって、なんと猫界の議題はひなたぼっこから人間から餌をより効率よく獲得する手法へと移行した。その上、こっちの本はよく売れた。
学問とは即ち、先人の発見を積み上げて階梯を作り出す作業である。
時代の徒花と呼ぶにはいささか奇形の形質を備えていたこれらの理論もまた、収集され、体系化され、洗練された。ついには、ヒトの発する《ことば》にエネルギーがあることを認め、それを動力とした動力機関が開発された。
それが《コトダマドライブ》だ。
クオリアを持ったAI──実際のところは証明不可能である──を何万機何億機と連結させて、お互いに《よい言葉》──銀河連邦が発行する《道徳的・倫理的・嫌な相手との飲み会的に正しい言葉の辞典》ガイドラインを参照──を掛け合うことで、コトダマドライブは動力を得る。
『夢』とか『愛』とか『希望』とか、そういう曖昧模糊な概念を、自己完結的に積み上げ続けることで、この船は無限に広がる暗闇への航行を続けている。
そんなコトダマドライブであるが、ふとしたきっかけで、自家中毒的に積み上げた妄想に耐えられなくなることがある。
彼らには(公的には証明されていないが)感情があって、自分たちだけでは動力を生み出せないときに、有機生命体に声をかけてくることがある、とマニュアルにはあった。
そしてその際には、それを宥めすかし、ご機嫌を取り、おもむろにベッドに誘っても拒絶されないくらいお姫様として扱わなければならないらしい。
それの自己認識は、『ママ』だった。
エンジントラブルを避けるためにはそれに合わせなければいけない。
まるで、おままごとに付き合っているようだ。
「ま、ママ……」
『はい。あなたのママですよ』
──広い宇宙の片隅で、債務者が宇宙船のエンジンをママを呼ぶ事案が発生した。
おれも無事、イかれたメンバーの仲間入りをしたらしい。
「あー……ママ、とりあえず、おれの宇宙服と船体に付着してる粒子の解析してくれ」
『はい。あなたが望むなら、ママはなんでもしてあげます』
おれの望みは、快適な船旅と頼れる仲間、それから彗星であって、
このママを自称する存在が実現できることには一切掛かってこないな、とぼんやり思った。