2/7 彗星接近
* beep! beep! *
備え付けの計器が、えらく前時代的なビープ音を鳴らした。
ツィオルコフスキー型宇宙船なんて、骨董品を通り越して三葉虫の化石だ。
同じ化石でも、せめてこの船がステゴサウルスの剣骨であれば、もう少し頼れるものだっただろうに。おれはくそったれな自分の運命に祈らずにはいられなかった。
「この警報音は……」
おれは備え付けの《スター・ハンティング・マニュアル》を確認する。
未来世紀のマニュアルは紙というメディアを越え、脳幹に直接接続することで強制的に理解させるシステムになっている。
朝食ができた音──違う。備蓄のトーストに、蜂蜜を過剰に、不正に、不道徳に塗りたくってる警告音──でもない。おまえの母親が年甲斐もなく厚化粧をして夜の街に赴く音──似ているな。これでは?
「彗星が……来るッ!!」
その力強い声は誰から発されたものだろう、とおれは疑問に思った。
振り向くと、つい先ほどまで口をぽっかり開けて涎を垂れ流してガチャガチャ言ってた爺さんが、精悍な顔つきになっている。
「ガキども! 位置につけ! 彗星は待っちゃくれねえんだッ!」
……誰だ、こいつは。
これがあのガチャ廃か?
矍鑠としたその姿には、老いを感じさせない迫力があった。
「しょぼくれたツラの船長帽! 操縦はできるかッ!」
船長帽? 誰のことだ?
……もしかして、このヘルメットを指しているのか?
「いや」
「ならメガネ! てめえが棹握れッ! やいてめえ、《釣具》の調整は? 発火はできるかッ!?」
「できん」
「よしッ。何も知らねえでくの坊か。なら、てめえが栄えある《星見守》だ! とっとと宇宙服着ろ! 綱を巻け! それでも宇宙の男かてめえッ!」
言われるがままに宇宙服──これもまた、えらく骨董品の、演劇の小道具のようなものだ──を着用し、おれは船外活動に備え付けられている《星見台》──宇宙空間に、宇宙服越しとはいえ直接身体を曝す、さながらバイクのサイドカーのような形の、この宇宙船の先端部分へと向かった。
こんなものがあるのは、この船が本来博物館にでも飾られるべき骨董品だからに他ならない。船外活動なんてものは極力避けるべき行為で、おまけに動いている宇宙船にくっついたまま宇宙空間で活動するなんてのは狂気の沙汰だ。
くそったれな狂気の中におれはいる。
光の届かない領域で、彗星はほとんど目に見えない。
彗星とは寒い宇宙空間で冷え固まった岩石と氷でできていて、それが熱によって溶けることでガスを発生させる。そのガスが光を反射することで初めて輝いて見えるようになるのだ。
だから、宇宙を漂ってる氷の固まりに、こっち側から熱をよこして光を当てて、尻尾を作る必要があるわけだ。熱と光は人間の文明の資源であり、サルとヒトとの明暗を分けたのはこの取り扱いが比較的巧かったことと毛むくじゃらではなかったことにあったという歴史的経緯から、炎熱を操る技術は過度に発達している。
怒鳴り散らす老人が言っていた《釣具》だの《発火》だのとは、恐らくその技術体系のスラングだろう。ただし、座標計測を間違えれば自分の船を焼くことになり、つまるところローストヒューマン三頭が完成するところとなる。おれには到底扱えない。
一方、俺が押しつけられた《星見台》にも、形を溶かしていく彗星を観測することによって、量子力学的安定率を向上させるという大きな役割がある。
実験惑星地球で言うところの、西暦2013年11月23日──遙か昔、神話の時代の話になるが、太陽に接近し、輝度を大きくあげ、今にも大彗星にならんとしていたアイソン彗星は突如消失したという事件があった。
これは、量子力学的不安定に陥った彗星の核が崩壊したことに起因する。彗星を間近で見つめる──観測し続けることにより、一秒でも長く彗星を彗星としてその場に残すことができるのだ。
もちろん、未来世紀3020年の現在、テクノロジーを駆使すればこんな役割は当然に必要ない。観測者の役割はクオリアルAIでも担当できるはずだ。
──だが、悲しいかな精密機器よりもクズの命の方が遙かに安い。
この非合理的な、迷信的な、前時代的な設備は、しかしてコストカットという一点においては甚だ合理的だった。
多分、考えたやつはとびきりのバカだ。あるいはサディストだろう。両方の可能性もある。性生活の適切なパートナーを見つけられなかった鬱憤が、この設備からは感じられてならない。
おれは死刑台に向かう囚人の気持ちを理解した。それより少しマシなのは、処刑人が狂っているから手元がおぼつかない可能性があるってことだろうか。
『足を止めるなッ!』
脳内に短波サイキック通信が入る。耳を塞いでも、当然聞こえてくる。何より、今おれは宇宙服を着ていた。
おれは観念して船外に出て、星見台に跨がった。
壁のない無重力空間では、何かにしがみつかなければならない。さもなければ、人体は容易く宇宙空間へと放り出されてしまう。
震えるおれは、さながら死臭のこびり付いた祭壇に登ることを強要された生贄のようだった。
──ああ、憂鬱だ。
船に押し込まれた時は何もかもどうでもいいと感じていたはずなのに。
カネが手に入るならどんな仕事だってやろうと思っていたはずなのに。
暗黒の世界にひとり立たされて、おれは今更、人生の選択を後悔している。
前後左右天地過去未来、どこを見渡しても広大な暗闇が広がっている。
宇宙船の窓の外で見る景色と、こうして宇宙服を着て、船外に出るのとでは、同じ暗闇でも受ける印象が大きく違う。できるなら、今すぐにでも帰りたい。
恒星系を離れた宇宙の片隅は、とりわけ暗い。光の速さは宇宙規模で考えるとちっぽけなもので、星が発する核の光は、宇宙の果てには届かない。
宇宙の暗闇とは、静謐な孤独だ。
時間的な意味でも、空間的な意味でも、限りのない孤独が広がっている。
──世界の中心は、おれではない。おれは特別な存在ではない。
それは至極当たり前のことで、だけど意識を持っている生物は思考から主観を抜くことができないから、誰もが皆わかったふりをしながら、自分の主観こそが世界の中心であるというくだらない妄想を心の奥底に抱いているのに、この孤独はその妄想を強烈に否定してくる。
孤独だ。足が震える。孤独だ。喉が渇く。孤独だ。世界の巨大なダイナミズムの中のちっぽけな塵にすぎない。孤独だ。世界の中心はおれじゃない。孤独だ。さっきまではそうじゃなかったはずなのに。孤独だ。おれは特別な存在だ。孤独だ。おれは特別な存在ではない。孤独だ。人生に生きる意味などない。孤独だ。おまえの影響力など塵ひとつぶと変わらない。孤独だ。観念はより強固に。孤独だ。絶望はより深く。孤独だ。害意はなく。孤独だ。純然たる事実こそが絶望だ。孤独だ。絶望だ。孤独だ。絶望だ。孤独だ。絶望だ。孤独だ。孤独だ。孤独だ──その中で、誰かがおれを見ている?
わかった。理解した。理解しつつある。そうだった核融合で燃える星はそのひとつひとつが眼光なのだ。今おれは照らされた。照らされた感覚がある!淵より来たる、巨神たちが、おれを見て、おれの思考を読み取っている!
あ・いあ・おれを見ている!いあ・おれを見ている!! おれを見て、おれを見て!おれは深淵から覗かれるのは特別は──。
『《宇宙酔い》は自分の仕事を終えてからにしろ! ド素人ッ!!』
──その怒鳴り声で、おれはハッと目を覚ました。
おれは気づいた。ちょうど頭上に、なにかがある。
何キロメートルもの大きさの、くそったれな巨塊が、今にも、おれを潰さんとしている。
『メガネ! 進路を午舵に──ああ、くそ! 角度がどうとかうるせえぞ! 上だ!船首を上に向けろ!』
男の怒声が脳内から聞こえる。
すると、がくんと角度が変わる。おれの都合など何一つ考えず、船が直角に動いた。おれの小さい脳みそが揺さぶられて、視界の端っこでつぶらな瞳のピンクのぞうさんが執拗にウインクをカましているのが見えた。
「やあ! ぼくは、君の好奇心と、知的欲求と、それから異常性欲をつんつんと刺激しにきたんだ!」
朗らかな声で囁いてくるピンクのぞうさんを、しっしと手を振るって追い払うと、
ついに、視界の真っ正面に、宇宙の闇をまとった、汚れた氷の塊が見えた。
『観測えたかッ!』
──ああ。 これが 彗星だ。
おれはこれから、この白く輝く氷の塊が溶けゆく中で、存在を安定させるためにその光景を見つめ続けなきゃならない。恒星系を超えると知的存在は少なくなるために物理的事象は不安定なものとなる。
語り得ぬものには沈黙をせねばならない。結果は重ね合わせだ。だからおれは答えを──、
『突っ込むぞ!! 掴まれッ!!』
なんと?