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夜半の月 ~目覚めたら平安時代の姫でした~  作者: 赤川エイア/監修:白木蘭
前篇:夢の通ひ路
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第四十二話 其の一

 午後になって降り出した小雨に外は濡れ、少しばかり寒さを感じるような空気が舞い込んでいた。


 もう一枚多く単衣(ひとえ)を重ねておけばよかっただろうか。服ではなく単衣という言葉が無意識に浮かんでしまう自分は、すっかり平安時代の人間だ。千年近い時を超えていても、こんなにもこの世界へ馴染んでしまっていることが妙におかしかった。

 それだけの長い時間を、ここで過ごしてきたということなのだろう。事実、青々としていた木の葉は赤や黄に色を変え、いくつかの季節が移ろっていた。今日の私も、紅と黄を重ねた朽葉という(かさね)だ。


 手に持っていた筆を硯の上に置いて一息つくと、右の腕と手首が軋むように痛んだ。長時間筆を取っていたので、知らない間に負荷がかかってしまったのだろう。固定された筋肉をほぐすようにぶらぶらと手首を振ってみたが、鈍痛はしばらく消えそうにない。

 目の前にある、三の君へ宛てた日記を確認の意味も込めて読み直し、今日はここまでにしようと、私は紙をまとめて箱へ納めた。


 この日記を書き始めたあの日から、時間の許す限りにこうして文机に向かってはいるが、なかなか進まず、それが私を多少なりとも焦らせていた。姫宮とのことは、ようやく今ほど書き終えたが、三の君に伝えるべきことはまだまだあるのだ。残り少ない時間の中で、あとどれほどの情報を彼女に残せるだろうか。



「姫様、少しお休みになられてはいかがでしょうか」

「小梅、ええ。私もちょうどそうしようと思っていたの」


 私は筆や硯を手早くしまいながら、声を掛けてきた小梅に頷いた。

 ずっと同じ態勢で手元を見て作業していたせいか、肩や首までもが凝っているような気がする。手足を思い切り伸ばしたり肩や首を回したりしたいところだけれど、当然ながら、平安時代の高貴な姫はそのようなことはしない。この不自由さは今に始まったことではないし、私は大人しくそのまま小梅の方へと向き直った。


 彼女の背後に見える空は雨天のせいで薄暗いまま変化がなく、どれほどの時間が経っているのかもよく分からない。


「今は未の刻ほどかしら」

「はい。唐菓子と果物を用意してございますわ」

「ありがとう、そう聞くとお腹がすいてくるわね」

「姫様ったら」


 小梅はくすくすと笑うが、空っぽの胃を意識してしまった途端、本当に食欲が沸いてくるので現金なものだ。

 朝食、夕食と一日に二食しかない平安時代では、空腹をしのぐため、ちょうど朝夕食の間の時間帯、未の刻――八つ時に間食を食べる習慣がある。このおやつタイムがないと、正直夜までもたないので切実だ。私にとってはただのおやつを味わう時間というよりは、エネルギー補給の時間である。


 ついでに、女房達とおしゃべりに花を咲かせるのも楽しみの一つだ。ただの世間話のように聞こえても、私一人では到底知りうることもできないような噂話のあれこれが飛び交うので、なかなかに侮れない。

 現代へ帰るためのヒントのようなものはさすがになかったが、それでも、この時代を生き抜く上で必要な情報を収集できる、実に有意義なお喋り会議、兼、間食タイムなのだ。


「みなで一緒にいただきましょう。……あら、雛菊やほかの者達は?」


 ふと、傍に雛菊や、他の女房も控えていないことに気が付いた。

 雨音だけが静かに聞こえる部屋にいるのは、私と小梅だけのようだった。一時的に席を外しているというには、人数が少なすぎる。


「まあ姫様、お忘れですの? 朝方わたくしと二人きりでお話ししたいことがあるとおっしゃったではございませんか」


 小梅が半ば呆れたように言って、「わたくしが人払いをしたのです」と付け足す。

 それを聞いて、あっと思い出した。確かに私は、朝食後に「二人だけの時間を作ってほしい」と小梅に言っていた。そうだ、昨夜、さんざん考えていたことを小梅に聞こうと思っていたのだ。

 決して忘れていたわけではないのだけれど、出仕する宮を見送ったあとは、日記を書くことだけにすっかり夢中になっていた。

 小梅からしたら、改まって二人きりで話など一体何事かと、朝からずっと気になっていたに違いない。しかも、体調のことを伝えたのはつい昨日のことだ。今日もまた新たな不安の種を撒かれるのではないかと思っているのだろう。その証拠に、小梅の物腰はいつも通り丁寧だが、焦りの滲む口調はやや早口だった。

 きっと私が筆をおくタイミングを、今か今かと待ち、はらはらとしていたのだ。おそらくは、小梅は朝からこの調子で落ち着かない気持ちだったのだろう。


「ごめんなさい、もっと早く私の方こそ時間を作るべきだったわ。小梅に聞きたいことがあったの。ええと、少し長くなるのかもしれないのだけれど」

「はい、問題ございませんわ。そうかと思い、わたくしもそのように準備いたしておりましたもの」


 小梅によると、どうやら雛菊を含む他の女房達は、一足先に別室で八つ時を楽しんでいるらしい。左大臣からもらったばかりの珍しい菓子がちょうどあったので、それを彼女たちに多めに渡しておいた、今頃は舌鼓を打ち、盛り上がっているだろうとのことだった。ついでに、少し長めの休憩をしてくるようにも伝え、念のため、食後はいくつかの用事も頼んであるとも彼女は言った。

 つまり、この部屋には誰もすぐ戻ってこないので、時間はたっぷりある、ということだ。

 私の意図を正確に汲み、ここまで手を回せる小梅はやはりやり手の女房だと思う。


「ありがとう、助かるわ」

「して、姫様、お話とはどのようなことでございますの? 御身に何かご不調でも?」

「いいえ、身体のことではないわ。そちらは心配しないで、今日は元気なの! そうではなくて、以前の私についてよ」


 小梅は意味が分からないと、目を丸くした。余りにもざっくりとしすぎているので、想像もできないのだろう。

 外の雨は先ほどよりも少しだけ強くなっていたようだった。二年も前のことなどどう切り出そうかと考えていたけれど、私の口からは自然と言葉が漏れた。


「あれは、今日のような雨の日だったわね」

「姫様……? あれとは一体、何のことでしょうか」


 雨粒が絶え間なく落ちる景色から小梅へと目を移し、私は、声の調子は変えずそのまま口を開いた。


「お兄様に私がお別れを告げた日のことよ。つい二年ほど前のことだもの、あなたも覚えているでしょう?」


 小梅の表情にまず現れたのは、動揺――それから驚愕といったところか。

 私の言葉を拾い、その意味を一つ一つ正しく理解すると、やはり目を見開いて硬直していた。


「この雨のせいかしらね…… 突然思い出したの、なぜ私とお兄様が疎遠だったのか。私は、余りにもお兄様が過保護でいらっしゃるのが嫌だったのだわ」

「姫様、まさか記憶が…… 記憶が、お戻りになったのでございますか?」


 小梅の問いかけに、ゆるゆると首を横に振った。

 私が持っている三の君の記憶は、ほんの一部だ。それを隠したところで、聡い小梅にはすぐ見破られてしまうだろう。そもそも、私と三の君は全くの別人格。三の君を装って記憶が戻ったふりをするのには無理がある。

 何より、小梅に不必要な嘘はもう重ねたくなかった。これまでも随分と私を助け、支え、今でもそうしてくれている彼女に嘘をつく理由などない。


「思い出したのは、私がお兄様を遠ざけたあの日のことだけよ」

「さようでございましたか」


 私の返答に、小梅の力が入っていた両肩が幾分下がった。明らかに、私が「三の君」ではないことにほっとしている。

 ……なぜ、彼女が安堵するのだろう? 小梅は父母と同様に、三の君の記憶が完全に戻ることを望んでいる一人のはずだ。

 疑問に思いつつも、私は話を先に進めることにした。あれやこれやと言って遠回りに聞き出すよりも核心から突いた方が早い。単刀直入に、正面から彼女に問いかけた。


「小梅、あなたは私に、私たちはお兄様のご結婚を機に疎遠になったと説明したでしょう? 確かにそれもあるわね…… けれど、本当の理由は伏せていたわ。どうしてなの?」

「それは……わざわざ、お話しするようなことではないと思ったからですわ。記憶を失われた姫様にそのようなことを申し上げるのは、余計混乱を招くだけではないかと思いまして」


 本人は、平然を装って言ったつもりだったのだろう。けれど、その瞳は時折不安げに揺れていた。何かを隠している目だ。三の君ほどではないが、私だって小梅とそれなりの時間を共に過ごしてきた。それくらいの変化は分かる。


 きつく問い詰めたり、揺さぶったり、もしくは彼女の忠誠心に訴え命じれば、小梅は話してくれるかもしれない。でも、そんなことはしたくなかった。それをした途端、「私」と小梅の間にできた信頼関係が、一瞬で失われるような気がした。兄相手ならばまだしも、小梅に駆け引きのようなことは、やはり私にはできない。


「小梅はどんな小さなことでも、私に丁寧に教えてくれたわ。それなのに、お兄様のことだけ伏せるだなんて不自然よ」

「……それは……」

「これまであなたが私に尽くしてきてくれたことを知っているから、そう思うの」


 世話好きで姉のように優しい小梅。彼女の生真面目で細やかな性格は、記憶を失ったと言った私に、彼女が知る三の君のすべて、それこそ一から十までを話してくれていた。どうでもいいと思えるような小さなことまで、おそらく一つも漏らさずにだ。そこから兄のことだけが抜け落ちたのは、故意にそうしたとしか思えない。


「お兄様に、何か言われたの? たとえば、あの日のことを私には話してはいけない、とか」

「有明中将様に? いいえ、まさかそのようなことはございませんわ!」


 突然出た兄の名前に、小梅は本当に驚いたようで、慌ててふるふると首を横に振った。本当に、兄は一枚かんではいないのか。私は、小梅は兄に何か口止めのようなものをされていたのではないかと思っていたのだけれど、完全に当てが外れてしまったらしい。こうなってくると、もう見当もつかない。


「姫様は、なぜそのようなことをわたくしにお聞きになるのです? わたくしの申し忘れましたことなど他にもあるかもしれませんし、さほど重要なことではございませんでしょう? それも、二年も前のことなど」

「伝え漏れなどではないと思っているからよ。私にとってはとても大切なことだわ……過去を知りたいの。もしかしたら、業に関係しているかもしれない」

「それは、昨日お話し下さった業とやらでございますか?」

「そうよ。だから、どうしても知りたい。何か理由があるなら、どうか話してくれないかしら」


 もう一度、頼み込むようにそう聞いた。小梅は視線を床に落とし、何かを考えこんでいるように口を結んでいる。

 やはり回答は得られないのだと諦めた時だった。小梅の黒い髪がはらりと広がった。止める間もなく小梅が伏せ、頭を床につけたのだ。


「小梅っ!?」

「申し訳ございません、姫様……わたくしは、先ほど偽りを申し上げました」

「やめて、顔を上げてちょうだい! 私は責めても怒ってもいないわ。あなたが隠していた理由があるなら、それを話してほしいとお願いしているだけだもの」

「わたくしは……わたくしは、姫様の記憶が戻ることが怖かったのです……」

「……それはどういう意味なの?」


 やはり小梅は、私に記憶が戻って欲しくなかった……?


 そう思ったときだった。

 左右から視界が狭まってくる。同時に私の身体から力が抜けて身体を起こしていることができない。また夢が呼んでいるのだ。――どうしてこんな大事な時に。

 恨めしく思う暇もなく、かろうじて半分だけ見えていた景色は回転し、ぐにゃりと曲がった。


「ひ、姫様っ!? 姫様っ!!」


 悲鳴を上げて私の身体を支えたであろう彼女の名前を呼び終わる前に、私の意識は夢の中に引きずられていった。

監修後の文と差し替えいたしました。

本日もお付き合いありがとうございましたm(__)m

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