第四十一話 其の一
三の君目線のお話です。
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夜明け前から降り出した雨は止むこともなく、私が朝餉を摂り終えたあとも静かに降り続いていた。
晴れてはいないことに、どこか胸を撫で下ろしている自分がいた。足場も悪いこの雨の中では、誰も花を摘みに外へ行こうとは思わぬだろう。きっとあの花を見れば決心が鈍ってしまう。
「姫様、有明中将様がお見えになりました」
「ええ」
お兄様の足音を聞くだけで、様々な想いが込み上げてくる。でもそれも、今日で終わりになるはずだ。
小梅の先導でやってきたお兄様はゆっくりと座り、「元気にしていたか」といつもの優しい声音で問うてきた。几帳の帷子の隙間から見えるお兄様のお姿を見るだけで、胸が痛む。もう何度、こんなことを繰り返してきたのだろう。
「はい。お兄様もお変わりがないようでよろしゅうございました」
「ありがとう。この頃は冷え込む日も多かっただろう。お前はこのような日が続くと伏せることも多い、また体調を崩しておらぬかと案じて参った。身体は冷やしてはいけないよ」
家族として、兄としての言葉の中に、違う可能性はないだろうかと探す自分は、なんと惨めなことだろうか。お兄様は、私を妹として、それは大切に思って下さるが、当然のことながら女として見たことは一度もない。分かっていても、期待してしまう自分はやはりどこかおかしいのだろう。その愚かさに呆れるばかりだ。
ああ、早く、どうか早くこの痛みが消えるようにと願う。お兄様が傍にいると、息をするのも苦しくて堪らない。
お兄様のご結婚を機に距離を置こうと決めたはずだった。だから、何度も何度も、いっそ嫌われるほどに遠ざけようと思った。それなのに出来なくて、お姿を見るだけで嬉しさを覚え、矛盾する心に嘆き、こうしてまだもがいている。少し冷たくしたところで、訪問の頻度が多少減りはしても、お兄様に真意は届かない。
私の心の内など知らず、お兄様は相も変わらずこうして私の元へ姿をお見せになられるのに――けれど、やはりもう駄目だ。限界だということは、私がよく分かっている。
「お兄様、ご心配ありがとうございます。しかし、私はもうお兄様の思うような子供ではありませんわ。ですから、どうぞお気になさらず」
「突然、どうしたのだ」
「以前よりお伝えしようと思っておりましたが、お兄様は私に度を越して過保護でいらっしゃいますわ。私は、それが嫌なのでございます」
「姫……?」
聞いたこともないような、お兄様の声だった。すぐさま言い訳や否定をしたくなったが、唇を噛みしめた。
隣にいた小梅は、突然のことに驚いたような顔をしていた。無理もない、小梅は何も知らないのだ。なぜ、と問いかけてくる視線に、ただ首を振った。「貴女は何も言わないで」と。
私がこれから行おうとしていることは、私一人の責である。
「どういうことだ、分かるように説明をしてくれないか。なぜ、突然」
「前々より、と申し上げました。突然ではありませんわ」
「待て、私は何かお前の気に障るようなことをしたのか? 私が嫌だとは……」
違う。
違う、嫌だと思ったことなど一度もない。むしろ逆だわ。お兄様をこんなにも求め、お兄様だけをお慕いしている。本当は、お兄様に傍にいて欲しい。でも、私はそれを願うことは許されない。だから。
「上のお兄様が身罷られた後、お兄様がお傍で私を励まし、今日まで見守って下さいましたこと、感謝しております」
同じ傷を持ち、同じ痛みを分け合い、互いを支え合うようにして今日まで過ごしてきた。
私に慕情など芽生えることがなければ、ずっとその関係を保っていられたのに。
「しかし私も無事に裳着を終え、成人いたしました。いつまでもお兄様に甘えてはならぬと思いましたの。お兄様もご結婚なさり、ご家庭をお持ちになられた。そちらでのお時間を優先し、もう、私の元へはいらっしゃらないで下さいませ。このように通われたくないのです。私は、」
声が震えそうになる。お願いだから、気付かないで。
あと少しですべて終わるから。
「うんざりとしておりますの。はっきりと申し上げますが、お兄様には会いたくないのですわ」
「なぜそのようなことを! つい先日までは、そなたは私を慕ってくれていたではないか」
お兄様のいう慕うと、私の慕うは、意味が違う。兄としてではない、一人の男としてお兄様を慕っていることなど、絶対に知られたくはないし、知られてはいけない。
もっと几帳を何重にも置けばよかった。そうしたら、こんなにも辛いと思うことはなかっただろうか。誰か教えて欲しい、どうしたら今すぐ楽になれる?
声を荒げ、納得できぬと言ったお兄様に、私は否を告げるしかない。お兄様は、まだ信じられぬと訴えていた。
「そなたが私を忌み嫌うなど、あり得ぬ。私達はただ二人きりの兄妹として、手を取り合いこれまで生きてきたではないか」
「それは幼少期のこと。今の私とは異なります。私からのお話は以上ですわ。どうかお引き取りを」
「姫、分かるように説明をしなさい。そなたの心変わりを何故私が信じられようか、いや、信じられぬ。私はそなたをずっと見てきた。そなたはこのようなことを申すような妹ではない。何か……悩み事でもあるのか」
やめて。優しい言葉などいらない。
心が揺らぎそうになる。どんな思いで、私が今日を迎えたことか。
「憂いなどございませんわ。お兄様がどう思おうとそれはお兄様の勝手。ですから私も私の思うようにいたします」
お兄様、お兄様……お兄様、ごめんなさい。
傷つけるつもりなどなかった。でも――でもこうするのがいい。お兄様にこれ以上、見苦しい私を見せるくらいなら。
「お兄様には二度とお会いするつもりはございません。今後、この部屋へ通すことも女房には一切許しません。さようなら、お兄様」
「待ちなさい、話はまだ終わっておらぬ!」
「私は気分が優れませんので失礼いたします。お兄様もお引き取りになって。――小梅、お兄様がお帰りになるわ。見送って差し上げて。私はしばし伏せます」
言葉を失った様子の小梅は、真っ青な顔でただ茫然としていた。私達の関係をずっと傍で見てきた彼女のことだ、この展開に動揺しているのだろう。常に冷静に私の傍に控えていた彼女も、さすがに今は事態を掴めぬらしい。私に理由を問うことも、諫めることもできずに、ただ座っている。
立ち上がる気配もないので、私は他の女房へ同じように言付け、そのまま御張台へと入った。
「私が自分から出てくるまで、誰一人として御張台へは入らないで」
灯りもない暗い御帳台の中は、今の私にはちょうどいい空間だった。
心が、壊れる。
胸が破れそうなくらい痛い。病よりもずっとずっと苦しい。こんなことは望んでなかった。こんな未来を避けたくて今日まで生きてきたのに、どうして?
次々にあふれ出す涙を止めることもできず、ただ、声を上げぬように唇を噛んだ。嗚咽一つ漏らしてはいけない。泣いていることなど悟られてはいけない。
お兄様の抗議はしばらく続いてはいたが、両手で耳を塞ぎ遮断した。何も聞きたくなどない。やがて、それも聞こえなくなり、部屋の中には雨音だけが響いていた。
どれほど時間が経っていたのだろうか。私がそれに気づいたのは、随分と後だった。
御帳台の入り口付近に、白い紙があった。おそらくは、小梅が遠慮し中ではなくここへ置いたのだろう。手を伸ばし中を開けると、一部が滲んだ文字と花があった。
まだ摘んでさほど時間も経っていない、瑞々しい花びらに目を奪われる。
どうして?
“一人では淋しいだろうから、せめて花を。
身体を大事にしなさい”
お兄様の文字だ。滲んだ文字は、雨の雫のせいなのか。
この雨の中、わざわざ摘みにいって下さったの? 濡れてまで、こんな、ちっぽけな小さな、愛らしい花を。私の、私などのために。
気分が優れぬなど、嘘だと分かっていらっしゃるはずなのに。責めることも、叱ることもない。ただ、一人きりの私の供をこの花にさせ、気遣う言葉だけを置いていかれたのだ。
「どうして……?」
どれほど傷つけても、お兄様は変わらず優しい。けれど優しさはそれを欲していない人間にとっては残酷だ。
お兄様が恋しい。お兄様の心が欲しい。お兄様に愛されたい。
花なんて要らない。これを受け取ったら、揺らぐと分かっていた。分かっていたのに。
「――お兄様っ……」
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本日の更新分です。
三の君目線の時は「◆◆◆」になります(通常「◇◇◇」)。
地味に変えていたりしますので、黒のダイヤが出てきましたら、目線が変わったなと読んでいただければと思います。
本日もお付き合いありがとうございましたm(_ _)m
8/15 追記
多忙のため、今週の更新はお休みさせていただきます。
お待ちくださっている方には申し訳ありませんが、
何卒ご理解のほどお願い申し上げます。




