第四十話 其の二
◇◇◇
「――そうですか、姫宮がそのようなことを」
一通り私から姫宮の話を聞き終えた宮は、難しい表情で何かを考えるように黙り込んだ。声をかけてはいけないような雰囲気だったので、私は宮の方が口を開くまで黙っているつもりだったのだが、そんな私に宮は「ああ、すみません」と苦笑いを浮かべた。
「せっかく貴女と一緒にいるのに、これでは時間が勿体ないですね」
「いいえ、姫宮様の今後に関わる大切なことですもの」
「そう言ってくれる貴女だから、放っておくことなどできないのですよ」
くすくすと笑いながら宮が私を抱き寄せた。ちゅ、と耳に口付けされて思わず息を呑むと、吐息だけで彼が笑う。私の反応を楽しんでいるのだ。この人は私のことを好きだという割に、どうしてこう、いつも余裕なのだろうか。私はというと、一瞬で胸がうるさくなるのでたまらない。同じ「好き」なのに、不公平だ。
宮をドキドキさせるにはどうしたらいいのだろうか。何をやっても、にこにこと笑顔で受け流される気がする。ちら、と盗み見ると、想像通り満面の笑みが広がっていた。
「本当に貴女は可愛い」
「み、宮様っ! 今は姫宮様のことですわ」
気を抜くといつもこんな甘ったるい空気が蔓延してしまうので困る。私だって、宮との時間を一分一秒と大切にしたい気持ちは、もちろん有り余るほどあるけれど…… やはり、姫宮のことを心の片隅に置いたまま、いちゃいちゃとできない心境というのが本音だ。
それは宮も理解しているのだろう、あっさりと私を離した。
「姫の言う通り、私達は互いにすれ違っていたのでしょう。すぐに院や上様にも申し上げ、よきようにいたします。一度しっかり姫宮と話さなくてはなりませんね」
「ええ、そうなさって下さい。きっと姫宮様は待っていらっしゃいますわ。ただ……」
「何でしょうか」
「姫宮様は未だ苦しんでいらっしゃるご様子でしたので伺うことが憚られたのですが…… 姫宮様は、中宮様が身罷られた理由をご自分のせいだと思い込んでいらっしゃるようでした。その所以を、宮様はご存知でしょうか。そこを否定しなければ、本当の意味で、姫宮様に光が戻ることはないと思うのです」
「姫宮が……? そう、か……ああ、そういうことでしたか」
「宮様?」
「ずっと疑問に思っていたのです。なぜ、母上の死が姫宮をあのように変えてしまったのか…… しかし、すべて合点がいきました」
宮は少しだけ整った顔を歪ませ、長く息を吐いた。ため息のようで、ため息とも違う――自分を落ち着かせているような、そんな動作だ。
もっと早く気付くべきだった、と後悔にも似た響きの呟きが聞こえた。何を悔やんでいるのか、私にはそれが分からないが、宮の中ではすべて繋がったのだろうか。もう一度彼を呼ぶと、宮はゆっくりと口を開いた。
「少し長くなりますが」
宮達のお母上、中宮は元々あまりお身体の丈夫な方ではなかったらしい。しかし子宝と幸運に恵まれ、上様、宮様と無事に出産をしたが、姫宮の時だけは大変な難産だった。弱りきった身体は産後もそのまま回復することはなく、病に罹っては伏せることが多くなったのだという。それでも我が子のために一日でも長く生きようと気を強く持ち日々を過ごしていたが、やがて闘病の甲斐なく息を引き取った。
だが、姫宮の目線で見れば、彼女が産まれた時から母宮は伏せがちであったので、自分の出生が中宮の身体の不調の始まりであることは知らないはずである。宮はもちろんのこと、院や上様もそのようなことを姫宮に言うはずがないし、何より中宮がそれを望んでいなかった。自分の病弱が姫宮にも遺伝してしまったのだと嘆き、これ以上姫宮が苦しむことのないようにと、難産であったこと、それによって自らが弱ってしまったことは、姫宮には一切伏せられたのだという。
だから、そのことで姫宮が自分を責めているという考えが、宮をはじめ、院や上様にもそもそもなかった。姫宮が知っているはずのない事実だったのだから。
「だから姫宮様は、『母上を奪った』とおっしゃっていたのですね……」
「おそらくはそうでしょう。しかし、私達の誰一人として、姫宮が母上を奪ったとは思っていません。みな、あの子が大切で、あの子が産まれてきてくれてよかったと思っているのですから」
「ええ。それをぜひ、姫宮様に教えて差し上げてください。きっとすべてがよい方へ導かれるかと思います」
中宮が亡くなったのは自分のせいなのだと、今でも自分を責めている姫宮。
親兄弟でさえ味方ではないと思い込んで、ただ一人生きてきたのなら辛すぎる。あの子はまだ少女なのだ、甘えたい時期もあっただろうに。
あの暗い部屋は、姫宮の心そのものだ。
ようやく分かった。同時に、姫宮の背負っていた傷が私の思うものよりもずっと深いであろうことにも、胸が痛む。
眩しい外の世界は、母宮との思い出の詰まった場所でもあったはずだ。それさえも手放し、全て遮断したのは自分を罰する意味もあったのだろう。自責の念から、彼女は、母宮との思い出をなぞることもできなかったのだ。
加えて、すれ違いが生じたことから父や兄君達には憎まれ疎まれているのだと――そんなことは決してないのに。
しかし、どれほど姫宮の心を紐解いていっても、私にはもう何もできない。家族間の問題に、これ以上私が踏み込むべきでないことは心得ている。ここから先は宮に一任し、ただ姫宮の心が軽くなるようにと願うばかりだ。
宮のことだ、必ず姫宮を光の中へ連れ出し、その凍った時間を解かしてくれるだろう。彼だって、妹を案じ、この状況をどうにか変えたいと思っている一人なのだから。
「早急にあの子と話します。姫、貴女にはなんとお礼を言えばいいのか…… 私達にはあの子が何に悩み、苦しんでいるのか分からなかった」
「お礼など…… 姫宮様に心からの笑顔が戻ることが私の願いでもありますもの」
姫宮が、これ以上淋しい思いをしなければいい。院や上様、宮との家族の絆も戻り、本来のあの子の良さが輝けば、きっと今の何倍も素晴らしい世界が広がっている。
思えば、私が叩いたのは外側の岩だけで、本当の天岩戸はまだ閉ざされたままだったのだ。けれど、それが開くのももう時間の問題だろう。彼女がずっと待っていたもの、欲しがっていたものが、もうすぐ彼女を救ってくれる。
どうか、どうかあの子が笑えるように。
それが叶えば、私を必要としてくれたあの子に恩返しもできるし、この世界で私がいた意味も見い出せる。たとえいつか消えてしまっても――
「姫?」
「いえ、なんでもございませんわ」
ふるふると首を横に振り、影のように常に付きまとう不安を振り払った。
いつか必ずくる別れを思えば、嫌だ、怖い、悲しいと叫び出したい気持ちが飛び出していきそうになる。宮はそれでいいと言ってくれた、半分背負いたいのだと。けれど、私は宮との残された時間をそんなことには使いたくない。思い出し、振り返るだけで胸が優しく温かくなるような、そんな日々を過ごしていきたい。そう思わせてくれたのは、他でもない宮だ。
いつの夜だったか、宮は私に「幸せそうにしていてほしい」と言ってくれたことがあった。私だって同じ想いだ。だから、それに水を差すようなことなど、あえて言う必要はない。
にこりと微笑んでみると、宮も笑みを返してくれた。全く、別の意味で。
「また、口調が戻っていますね、姫?」
「……。そ、そういえば! 宮様。お伺いしたいことがあるのですが、宮様は我が家ではお暮しになりませんの?」
昼間の姫宮との会話をふと思い出し聞いてみた。宮はやはり(今宵もそうだが)通い婚のスタイルなのだろうか。認識の違いがあるとこの先色々と困りそうなので、確認しておきたい。すでに今日がそうなので、おそらくは、通い婚のままだろうけど。
宮は笑顔を崩さず、うん?と首をかしげるばかりだ。しかしなぜ、笑顔が笑顔に見えないのだ……
「貴女は本当に話をはぐらかすのが下手ですね。いえ、そういったところも可愛らしいですが、口調の件は譲りませんよ」
「……これでも善処しているのです」
「それは困りましたね。私との時間が足りないのかな。もう少し、先に進みましょうか。もっと濃密な時間を過ごせば、あるいは貴女も――」
「み、宮様っ!?」
薄い単衣の上から身体のラインをなぞられて思わず叫んだ。
もう、もう、宮が…… 宮の手つきが、そういう空気を醸し出してる! 今夜褥を共にする予定はないはず、というかしばらくないはず! だって宮は私の体調が万全になり、心の整理がつくまで待っていてくれると言ってくれていた。しかもつい先日の話じゃないか。たった二週間前の出来事!
なのにどうして、この優しくも妖しい手は、好き勝手しようとしているのだろう。
え、え、え? 本当に? ちょ、ちょっと待って!
「み、み、宮様っ、あの、こ、今宵はっ……」
「貴女のその、私のことしか考えられないという表情が、私は大好きですよ」
「~~~!」
「もっと私のことだけでいっぱいにさせてみたいな。貴女は……どんな表情を他に見せてくれますか?」
耳の中に吹き込むように言われて、ゾクリとした。なんで私の大好きな彼の声音がやたらと色っぽい響きを持っているのか。
頭と胸が爆発しそう、こんな状態で初夜なんて絶対に無理だ、もう訳がわからない。
心音が耳にやけにリアルに響いて、宮の指が触れると思わず身体を震わせてしまった。そんな私の様子を見て、宮はくすりと微笑んだ。
「これ以上はやめておきます。私も止められなくなりそうですし。あれ、どうしましたか? お顔が少し赤いようですね」
「み、宮様のせいではござ…あ、ありませんか……」
「そうなのですか? ああ、本当に貴女の反応は可愛いな。口調も直って嬉しいです」
何の曇りもない快晴のような笑顔でにこやかに言われているのに、爽やかさだけが欠けている。垣間見えた別の一面に確信した。
やっぱり気のせいなんかじゃない、宮にはややブラックなところがある……! 全然、見た目からはそんなふうに見えないけど、私が慌てたりドキドキしているところを見て、すごく楽しそうなのだ。いや、そうじゃない、確実に楽しんでいる。
「姫の口調が戻ったら、またこうして私に慣れてもらおうかな」
独り言のように呟いた言葉は、絶対に私に向けられている。すべては私の口調が未だに他人行儀であることが悪いのだと暗に言っているのだ。
それを正しく理解し小さくなっていると、今度は打って変わって爽やかな笑顔で続けた。
「住まいの件は、左大臣様にもぜひにとおっしゃっていただきましたが、五条院よりこちらへ伺います。その方が、後々よろしいのではないかと思いましたので」
「さよう、ではなく……そうなのですね」
先ほど私が問いかけたことへの返答だ。私はそれどころじゃなく、聞いたことさえ忘れていたのだけど、宮はしっかり覚えていたらしい。
宮の「後々」とは、三の君がこの身体に戻ったあとのことを指しているのだろう。
確かに彼女が何も分からない状態で目覚めた時、いつの間にか結婚したという宮が自分の部屋にいたら、驚くだけでは済まない気がする。一度一緒に住んでしまい、後にそれを解消するとなると、宮の気持ちが冷めて左大臣家への足が遠のいたのだという噂にもなりかねない。それならば、はじめから別居婚という形が望ましいというのは、私も賛成だった。
一人の時間が多ければ、私自身もそれだけ自由に動ける。この前の夜のように、いつまた天狗がやってくるとも限らない。空いた時間に三の君への日記風手紙も書かなくてはいけないし、別居婚が助かるのは三の君だけではない。
それに…… 何より、一日中宮と一緒というのも、私の身がもたなそう。今でさえ、こうなのだから。
「本当は貴女と離れたくなどありませんよ。だって離れている間に、貴女の口調はこうしてすっかり元に戻ってしまいますし。ああ、けれど、その分こうして会っている間に練習すればよいのかな」
練習……?
引っかかったワードに反射的に引いた腰を、宮の手がしっかりと捕まえていた。宮の表情には、またたとえようもない何かが混じっている。ものすごく爽やかで好青年にしか見えないのに、それだけじゃないのだ。
宮って、こういう人だったの? 嫌じゃないけど、嫌いじゃないけど、むしろ好き?だけど…… なんだかギャップがありすぎて、まだ脳内混乱の収拾がつかない。
「どうして逃げようとするのです?」
「まさか、逃げてなどいませんわ……」
「ええ、そうですよね、私たちは夫婦ですから。さあ姫、御帳台で続きをしましょう」
つーっと一筋汗が流れた。きっと冷や汗に違いない。
続きって、何の?
そう聞くことが躊躇われ口をつぐんだが、私を待ち受けていたのはやはりというべきか、どろどろに甘い時間の再来だった。御帳台に入った瞬間、宮はとん、と私の身体を押し倒したかと思ったら、まずは口づけ、ひどく楽しそうな様子で言った。
「私も協力は惜しみません。ね? だから、他人行儀は今日でお終いですよ?」
だから協力って何のっ……!
口を開く前に唇を吸われて、抵抗力が一切消えていく。宮の肩を押さえていた手からは力が抜けて、ぱたりと布団の上に落ちた。その手のひらの上に、宮の熱い手が重なってくる。こうなってしまっては、私はもう宮の思い通りだ。惚れた弱みというやつである。
宮の吐息が唇に触れただけで、まるでキスをされているような錯覚が起こる。体中が麻痺しているように動けない。
確実に一つだけわかったことがあるとすれば、宮は何が何でも私の口調を直したいということだけだった。
しかも口調だけでなく、「宮様愛してる」だの「宮様をお慕いしております」だの、素面では到底言えそうにない言葉を「練習」の一言の元、何度も言わされ、恋愛経験がほぼないに等しい私には、煮えた窯にでも浸かっているんじゃないかと思うほど身体が火照った。
それで終わればまだいいが、終わらないのが宮である。
宮自身も、あの無駄に整ったきれいな顔で、甘い言葉の一から百までを私に囁いてきたのだから堪らない。何を言われたかって……もう、恥ずかしくて誰にも言えやしない。しかも最後は、「煽るのは止めてください、本当に止められなくなるでしょう」となぜか私が叱られたのだ。全くもって意味が分からない。
もちろん、褥を共にするだなんて高いハードルは一切超えていないが、私にとってはそれと同様なんじゃないかと思うくらい濃い時間だった。
そうして新婚の蜜月をたっぷり堪能した宮の腕の中で、私は眠りについたのだった。
本日分の更新となります。
甘々シーンでした。一応恋愛小説なので……今後数回甘あまがある予定…?です。
明日は……更新できるといいなと思っていますが、
あまり期待せずにお待ちいただけますと嬉しいです^^;
本日もお付き合いありがとうございましたm(_ _)m




