第三十八話 其の一
「牛車の中がこんなに落ち着くなんてね……」
このところ続いていた随分と濃い時間のことを思えば、私がため息のようにそう呟いてしまったのも無理はないと思う。あれほど狭苦しく感じ、乗り心地も悪かった牛車が、今ではすっかり身体に馴染み、しかも快適であるような気さえしてくるのだから、私はよほど一人の時間に飢えていたのだろう。思えばこの数日間は、全く気の抜けない毎日だった。
牛車も、厳密には完全な密室空間という訳ではないし、周りには牛飼童や車副がいるが、それでも気の抜けた表情をしても誰にも咎められないというのは至福である。そのくらい、平安時代の結婚イベントは大変だったのだ。
あの日、宮と仲良く三日夜餅を食べて終わり――では、ない。その後が大忙しだった。儀式と慣習の目白押しというか……はぁ。
宮の邸の火を左大臣家のものと合わせる火合、婿が居つくようにと願いを込めて父が宮の沓を抱いて眠る沓取、新婚夫婦が母に衾をかけられる衾覆、現代でいう披露宴である露顕などなど、とにかくやるべきことが多い。
文献では知っていたものの、知るとやるとじゃ大違いである。まさか、これほどまでに大変で疲れるとは……
各々の行為にはしっかりとした意味はあるものの、説明すると止まらなくなりそうなのでその辺りは割愛する。
ただ、父と母が、これまで見たことのない程に喜々としていたので、宮との結婚はよほど嬉しかったのだろう。
露顕ではお酒を呑みすぎた父が突然泣き出したので困った。どうも、父は泣き上戸だったらしい…… しかも、宮と私が想い合って結婚したのだということが本当に嬉しいと涙ながらに繰り返すので、私までもらい泣きして、祝宴が一時しんみりしてしまったというオチつきである。
ちなみに宮は、そんな父を見て「左大臣様が、このようなお方だったとは……」と呟き、随分と驚いていた。宮中での父は、左大臣に上り詰めただけあって、仕事も早くキリリとしていたそうなのだが、宮にとっては泣き上戸の父の方が親しみやすいと朗らかに笑っていた。
それから、ついこの間、酒には気をつけると言っていた兄までもが羽目を外し泥酔。兄の場合は酔っ払っても誰にも迷惑をかけず、ただ静かに深い眠りに落ちるだけなのだが……
お兄様? この前の反省の弁はなんだのでございますか? そのせいで私が宰相中将に襲われかけたことをすっかりお忘れになっておいでですの?
全く、兄にはもう一度、しっかり釘をさしておかねばなるまい。
――と心に決めたその後、宮の父である五条院に挨拶をしに伺ったり、本物の鷹衛さんを宮に紹介してもらったり、現代ではおよそ結婚前にしておくだろうことを一度に行ったものだから、疲労は蓄積する一方。気を張った状態が続き、疲れ切った私の出来上がりというわけである。
そして今は姫宮の元へ向かっている道中なのだが、その牛車の中でようやく一息ついているところだ。
姫宮の元へ向かうのは、実に二週間ぶりである。五条院へ挨拶に伺う折に姫宮のところへも顔出しはしたのだが、一瞬だけの形式的なものであったので、結婚以来、以前のようにゆっくりと時間を取れるのは今日が初めてである。
文では「早う早う」と急かされており、私自身も本当はもっと早く訪問したかったのだが、姫宮の方が物忌みとなったタイミングもあり、少し遅くなってしまったのだ。
それにしても、姫宮にはなんと切り出せばよいのだろう。
宮から聞いた話のこともあるので、一度姫宮としっかり向き合って話したいとは思うものの、まさか単刀直入に言えるはずもない。姫宮は少し難しい性格をしているので、手順を間違えることだけは避けたい。あれからずっと考えてはいるが、なかなかいい方法が思いつかず、そうこうしているうちに出仕の日を迎えてしまっていた。
「姫様、着きましたわ」
「ええ」
結局、リラックスできたのもほんのわずか。姫宮のことをあれやこれやと悩んでいたら、あっという間に五条院に着き、私は慣れた足取りで彼女の元へ向かった。後ろにはいつも通り、小梅が控えている。
五条院の西の対は、今日も薄暗く、半蔀や格子はすべて下ろされていた。もちろん、姫宮の意向によるものであろうが、これが彼女の孤独や淋しさのせいなのかと思えば、心臓の辺りが詰まるように痛んだ。以前は光の射さないこの対を要塞のように感じていたが、今はなにか、牢獄のように感じる。姫宮は、自らをここに閉じ込めてしまっているのだろうか。
しかし、そんな暗い邸にはまるで似つかわしくないほど明るい声が、私を出迎えた。
「三の君!! よう来たの!!」
部屋に着くなり、扇も持たず現れた姫宮は満面の笑みだ。
頬はうっすらと紅潮しており、髪も艶やかなことを見れば、この頃は体調もよかったのだろう。心なしか顔の輪郭が丸みを帯びたような気がする。
「ご無沙汰しております。姫宮様に置かれましては、お元気そうで何よりでございます」
「うん、このところは臥せっておらぬのじゃ。熱も出ぬ。そなたのおかげよ」
「私の?」
「そうじゃ。そなたのいう通り、試しに色々と食したところ、美味しいと思えるものも多く、なぜかそれからは身体の調子もすこぶるよい」
よかった、この調子なら、あれ以来食事はしっかりと摂ってくれているのだろう。
また食わず嫌いをしていないかとそこだけは随分と心配していたので、一先ず私も胸を撫で下ろした。やはり、栄養不足や食の細さが彼女の病弱の原因の一つであったのだろう。
院も先日、「姫宮によい兆候が見られる」と言っていたが、あれはこのことだったのだろう。「兄妹揃ってよろしく恃む」などと言われたときは、畏れ多くてただただ伏せるしかできなかったが……
「そのようなことよりも、兄上と結婚したこと、心からお祝い申し上げる。そなたが兄上の北の方となったのならば、こんなに嬉しいことはない!」
興奮気味にそう言った姫宮は、何やら目に星を宿したようにきらきらと輝かせていた。両手を胸の辺りでぎゅっと握りしめている様は可愛らしいの一言に尽きるが、それだけでは収まらず、ずい、と私の目の前に身を乗り出して続けた。
「我は美しいものが大好きじゃ! そなたは美しい! 兄上も美しい! その美しい二人が結婚とな! これほどめでたいことはあろうか!」
ん?……う、美しい??
いや、宮が美しいのは分かる。あの人は本当に別格だ、周りを圧倒する美しさである。それでいて嫌みがなく人当りもいいので、死角がない。それがより宮を輝かせている所以だろう。
しかし、そこに私を並べて「美しい」と称えるのはいささか抵抗がある。別に三の君の容姿をどうのこうのと言っているわけではなく(しつこいようだが私は三の君のことは美人と思っている)、宮と同レベルはちょっと無理があるだろうということだ。
「宮様は確かにお美しいお方ですが、私はけしてそのような……」
「なんじゃそなた。それは謙遜か? そなたがやれば嫌み以外の何物でもないぞ」
「はい?」
姫宮への敬意も忘れて、思わず地が出た。何を言っているのだ、この子は。
そんな様子の私を見て、今度は姫宮が驚いたようだった。まじまじと私を見て、信じられぬ、と呟いた。まるで珍獣か何かを見るような目つきである。
「そなた……ほんに、己の美しさが分からぬのか?」
「美しいとは、姫宮様のような方のことをおっしゃるのではないのですか」
「我も美しいが、そなたもじゃろう。周りはそう言わなんだか。兄上もそなたを褒めるであろうに、なぜ分からぬのだ?」
「え。……あ、あれはお世辞のようなものかと」
「はあ? 兄上は世辞など言わぬわ!」
……はい、それは本人に言われました。
姫宮はいらいらとした様子で、「そなたは美しい!」と繰り返している。いや、嬉しいのだけれど、それってそんなに怒って言われるようなことではないはずと私は思うのだが……
考えてみれば、確かに「美しい」と言われたことはこれまで多々あった。
けれど、小梅や雛菊が私を褒め称えるのは「三の君同盟」加入メンバーだからだろうし、父母のものは末娘の可愛さ故、兄のあれはただのシスコンだ。「可愛さ余って憎さ百倍」ということわざがあるが、この人たちに限って言えば「可愛さ余って更に百倍」という感じ。とにかく三の君の家族や女房といった身内は、三の君大好き人間の集まりである。彼女はとても愛されている存在なのだ。
その他でいえば、宮は私のことを好いてくれているというので色眼鏡もあるだろうし、宰相中将にいたっては女なら誰にでも言っているのではないか。
しかし、ここにきて姫宮にまでもそう言われると、はて、と考えてしまう自分がいる。
いつかの水鏡に映った三の君は、目鼻立ちのはっきりとした現代風美人だった。その彼女のことを、皆が皆、口をそろえて「美人」だの「可愛い」だのというのだ。美にただならぬ愛を持っているらしい姫宮さえも。
彼女が嘘をつくはずはないし、宮ならまだしも、位の高い姫宮が私にお世辞をいうのは性格的にもあり得ない。
あれ? ……あれ、あれ??――ということは、この世界の外見に関する感覚は、いたって現代と近いということ?
だとしたら、三の君は宮の横に並んでいても全く見劣りのしない美人ということになる。確かにこれで謙遜なんかしていたら嫌味以外の何物でもない。だって、彼女は確かに整った顔立ちの美しい女性なのだから。
なんてこと…… つまり、小梅達や家族、宮も本心から私を褒めていたということだ。
それに対して、私は今までなんと答えていただろうか。いや、いちいちそんなことを覚えていないので思い出せないけれど、この世界と現代の感覚がほぼほぼ同じならば、今後は気をつけなくてはいけない。姫宮の言う通り、これほどの外見で「私は別に美しくなんかありませんわ」だなんて、口が裂けても言えない。サーっと血の気の引く思いがした。これまで私は、嫌みな女になってなかっただろうか。三の君のためにも、「左大臣家の三の君」に変な噂は立てたくない。
私の知る平安時代の美人の条件(特に、豊満な身体)と照らし合わせ、私は今まで三の君のことを美人というには無理があるだなんて勝手に思っていたけれど、間違っていたのは私の方だったらしい。
この時代にはこの時代の美人の条件があるのだと思い込んで、よく確認もせずにいたが、思えばその兆候はあった。
現代の感覚を持つ私が美しいと思う宮を、皆もそうだと言う。小梅に素敵な殿方と言われている兄だって、私から見ても外見は文句なし。……まあ、宰相中将もか。
考えてみれば、これだけの材料があったのに、なぜ気づかなかったのか。
これも、五十年以上前に起こったという変革のせい?
そうとしか考えられない。千年前と現代の美的感覚が同じだなんて普通じゃない。一体、この世界はどうなっているの?? この前、天狗に聞いておくべきだった。三の君のことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていたのだ。彼なら、きっと何か知っているだろうに。
ああーー…… 私って本当にどうしてこう抜けているのだろう……
「何を一人で落ち込んでいるのじゃ」
ここからしばらく姫宮パートになりますm(_ _)m
宮様とのラブはもう少々お待ちください。
7月完結無理でした…疲
8月完結を目指しせっせと頑張ります(;;)
本日もお付き合いありがとうございましたm(_ _)m




