第三十六話 其の一
「少しだけ、と言ったのに……」
どろどろに溶けてしまいそうなほど甘い、例えれば、飴のシロップ漬けとか、砂糖をまぶした蜂蜜とか、とにかく甘い時間を宮とたっぷり小一時間ほど過ごした後の、私の第一声だった。それはまさしく、「話が違うだろう」という恨み言に他ならない。
何をしたかって……とても、人様に言えるようなあれやこれやではない。いわゆるバカップルのいちゃいちゃというものを想像していただくのが、一番簡単だと思う。
ここで問題なのが、どこが「少しばかり」だったのかということだ。全然少しじゃない、がっつり貪られてる。おかげさまで私の体温は一時間前から急上昇中だ。火照りなんか覚める気配がない。
「先に誘惑してきたのは、姫でしょう」
しれっと言われて、心当たりの全くない宮の指摘に、思わず脱力した。
「それに、少しで間違いありませんよ。これでも大分抑えて、遠慮しているつもりですからね」
「……」
何か言い返すと倍返しで言いくるめられそうな気がしたのは、おそらく正しいはずだ。宮は時々、どこかブラックな一面があるように感じるのは、私の気のせいなのだろうか。踏み込んではいけないところがあると、どうにも私の本能が訴えている。
これ以上、このとろけそうな雰囲気が漂う中で平常心を保つことも無理だ。ここは無理やりにでも惚けた頭を切り替えて、姫宮のことを聞くべきだろう。私は少しだけ考えて、彼女のことを切り出した。
「宮様、先ほどの件についてなのですが…… 私が宮様にお伺いしたいのは、姫宮様のことについてなのです。私が姫宮様の元へ出仕しておりますのは、宮様もご存知のこととは思いますが、その……」
「姫? 口調が他人行儀に戻っていますよ」
ひっ……
笑顔の指摘なのに、有無を言わさぬ何かがある。口調の件については徐々にで構わないと言っていた宮だが、ぴしゃりと言われると実は宮はせっかちなのではないかと思えてくる。
もしや、ゆっくり私に時間を与えるつもりなど、初めからないのでは……
ちら、と見ると「淋しいですね」と言われてしまい、なぜか私が罪悪感を感じるという謎の展開だ。これは宮の作戦なのか、私が考えすぎなだけなのか。
「それで、姫宮がどうかしましたか? 何か、姫に不躾なことでもしたでしょうか」
「いいえ、そのようなことは全くありませんわ。畏れ多くも私は姫宮様を妹のように思っておりますもの。だからこそ、差し出がましくも宮様にご相談したいのです」
ずっと、気になっていたことがある。彼女のあの居所の理由だ。
いつ行っても、姫宮の住む対は格子も御簾もすべて下ろされ、まるで夜のように暗い。それは決して、外の天気が悪く雨風を凌ぐためではない。雲一つない快晴の日でも、彼女の部屋だけは最低限の風通しだけをし、すべてを遮断するように暗闇に包まれているのだ。
小梅や雛菊達と初めて彼女の元を訪れたときは、随分と驚いたことをよく覚えている。
姫宮は病弱だというし、日光に当たってはいけない病なのだろうかと考えもしたが、彼女の側付女房にそれとなく聞いたところ、そのような回答は得られなかった。つまり、あの暗い空間は姫宮自身の希望で作り上げているものということだ。彼女の心には誰も入り込むなと言われているような、そんな気持ちにさせる「要塞」だ。
部屋の中だって、もう置く場所などないだろうというほどに几帳が立てかけられている。まるで、一筋の光でさえも通すなと言わんばかりだ。近頃は、私が訪問すると多少はその数が減ってはいるが、それでも依然として異常な数の几帳があることには変わりない。
その事実を知るものはそう多くはないが、あの子はとても淋しがりな子だ。それなのに、あんな暗闇の中にいれば余計淋しさを感じるはずではないか。姫宮はどうして、あの狭くほの暗い空間に自分を閉じ込めてしまっているのだろう。
私は、その理由が、彼女の孤独にきっと関わっているような気がしていた。
「これから宮様にお聞きしますことが、私が知ることで姫宮様が傷つくようなことならば、お答えいただかずとも構いません。それは、私の本意ではございません」
「ええ、分かりました」
「……以前より、気掛かりに思っておりました。姫宮様のいらっしゃる西の対は、なぜあのように暗闇に覆われているのでしょうか」
問いかけても、宮の表情は変わらなかった。やはり、私が踏み込んではいけないことだという合図だろうか。けれど、ゆっくりと瞬きをした後、彼は口を開いた。それは、私が聞いたことへの答えではなかった。
「姫宮は…… あの子は随分と貴女を慕っているそうですね」
「え?」
「あの子が誰かとこれほど長く付き合ったことはありません。よほど姫のことを好いているのでしょう。先日は五条院に泊まったとも聞いていますよ。雷雨を盾に随分と引き留められて、結局貴女が折れたそうですね。姫宮の我儘に疲れることはありませんか?」
「我儘だなんて、そんな…… あの日は大雨でしたから、姫宮様は私のことを心配してくださったのですわ」
それに、泣き腫らした赤い目の姫宮を放ってはおけなかった。
宮の言う通り、確かに押し切られてしまった部分もある。――というか、それが随分と大きい。けれども、私自身、彼女が眠りにつくまで一緒にいてあげたいと思ったのだ。あんなに泣いて謝り、頑張って食事までしてくれた姫宮を一人にして帰るというのは、余りにも心がないような気がした。あの小さな手を振り払う理由はどこにもなかった。
「宮様のおっしゃる通り、畏れ多くも、姫宮様は我儘に見えるときもございますし、事実、そうなのかもしれません……けれど、それは淋しさの裏返しなのではないかと、私は思うのです。姫宮様は、幼少期より病がちで、お辛い経験があると存じております。周りの者が当たり前にできることができず、これまで随分と苦しい思いをなさったのではないでしょうか」
「そうですね…… 確かに、姫宮は起きていることの方が少なかった」
「……さようでございましたか」
宮がこう言うのだ、私が想像するよりもずっと姫宮の身体は病弱だったのだろう。
高熱にうなされると、途端に何も口にできなくなってしまうほど寝込むのだとは聞いていた。食わず嫌いに拍車がかかったのも、そのせいだろうか。せめて少しでも食べられるときに、彼女の好きなものだけを食べさせてあげたい。周りがそう気遣って、それを繰り返していたのならば、その感覚のまま成長し現在に至ったとしても、不思議ではない。
様々な要因が重なって物事が複雑になってしまうことは多々ある。姫宮だけを責めるべきことでもないということだ。
今度会ったときは、思い切り抱きしめてあげたい。
ふいにそう思った。「突然なんじゃ!」と怒られそうだし、あまり不躾な行為は慎むべきなので、実際に行動に移すことは難しいだろうけど……
「姫と出会い、あの子は少しずつ変わり始めています。もちろん、よい方向へ。貴女のおかげだと、私も院も感謝しています」
「い、いいえっ、そのようなことは私は何も。私の方こそ、姫宮様とお会いできる機会をいただき、感謝しておりますわ」
「ありがとう。きっと姫宮は、そう言ってくれる貴女だから、初めて会った日から貴女を好いていたのでしょう。ちょうど私のように」
ここでまた宮がきれいに笑うから、私も一瞬訳がわからなくなってしまう。優しくて、目に毒なくらい、綺麗な笑顔。今ここにいるのは二人だけだということも、余計に胸をドキドキとさせた。
いい加減慣れたら、と自分でも思うのだけれど、そもそも、まだ新婚三日目なのだ。たった三日目! 「慣れ」が形成されるには、あまりにも時間と回数が足りない。しかも相手は超がつくほどの美形なのだから。……別に宮が美形ではなくても、私はこうなったとは思うけれど。
気を抜けば、ぼんやりと宮に見とれてしまいそうな自分がいる。私って、どこまでこの人が好きなんだろう、自分で恥ずかしくなるくらいだ。
「そんな顔をされては、先ほどと同じことをしたくなります」
「ひ、姫宮様のお話が終わっておりませんわ!」
扇を顔の前で全開にしてガードすると、宮はくすくすと笑っていた。
……からかわれている。
「では、続けましょう。ある日、左大臣家の三の君が好みそうな物語を貸して欲しい、そういわれて『竹取物語』をあの子に渡しました。よほど、姫の気を引きたく、姫との距離を縮めたかったのでしょう」
「『竹取物語』を? 宮様からお渡しになったのではありませんの?」
「兄上が下さった」と姫宮は言っていたはずだ。だが宮は、いいえ、と首を振る。
宮の話によると、これまでも度々、宮の方から書物を貸したりあげたりすることはあったのだそうだけれど、この件に限っては、姫宮からはっきりと言ったのだそうだ。しかも、「三の君(この場合は私の方)が好きそうな物語を貸して」と。
私の興味があるものは何かと周りの女房達に聞いて、そのようにしたのではないかということだった。
確かに、私は物語が好きだ(というか中古文学のすべてを愛しているといっても過言ではない)。
目覚めたばかりで、ろくに動けもしない日が続いていた最初の頃は、小梅に書物の類を持ってきてもらって読みふけっていた。寝たきりだと、それくらいしか時間をつぶす方法がなかったのだ。別に苦痛でもなんでもなく私にとっては大好きな古典文学に触れられる至福の時間でもあったが、一方で、物の怪憑きのおかしな姫君のレッテルを張られた所以の一つでもある。
何せ私は、記憶がないという普通の姫ならば心細く泣くしかない状況で、朝から晩までにたにたとしながら物語の世界に入り込んでしまっていたのだから。しかも、「原文最高」だの「手書きやばい」だの、まあおかしなことを呟いていた自覚はある。
その私の古典愛が、どこからか姫宮の元に「三の君は物語が好き」と伝わったのだろう。宮がそこで『竹取物語』を渡したのは、私を当時、かぐやと呼んでいたからで、完全に彼の好みが反映されているとは思うが(実際、私も『竹取物語』は大好きだ)。
あれは、六回目の訪問の時だっただろうか。
姫宮は琴を用意していて――そうだ、三の君は琴の名手だった。中身が私なので全く弾けはしないが、あれも私が好きだからと思い、準備してくれていたものだったに違いない。
そもそも姫宮は幻姫宮などと言われているくらいだ。彼女付きの女房達も外出などほとんどしないだろうし、外の人間と会う機会も少ない。三の君と私が入れ替わる前後の情報について、正確なものを手に入れるのは難しいし、そこまで細かなことは考えないのが普通だ。
今になって、こうして宮から舞台裏のような情報を得て、一層姫宮のことを可愛く思うが、思い起こせばあの子は元々ツンデレだった。一瞬ツンとしていても、圧倒的にデレの方が多いのだ。しかし本当に、小憎たらしいほど可愛い! 私の知らないところで、私の好みリサーチだなんて、やっぱり次に会ったらぎゅっとしちゃおう。
こうなってくると一刻も早く姫宮の元へ行ってあげたいという気持ちになってくる。訪問ができないのなら、せめて文だけでも明日また送ろうと考えていると、宮が呟いた。
「……貴女なら、姫宮に光を戻してあげられるかもしれません」
本日もお付き合いありがとうございましたm(_ _)m




