第三十四話
はっと目が覚めた。私のこめかみは濡れていた。――涙だ。
どうやら眠りながら泣いていたらしい……ちょうど、夢の中の三の君のように。
そう、夢を見ていた。でも、夢というよりは、三の君の一部として、三の君の心を覗いていたような――どこか離れたところから傍観していた今までとは、明らかに違っていた。だから、こんなにも寝覚めが悪く、まるで自分が経験したかのようにこの心も痛むのだろう。
三の君がずっと隠していた想いを知り、驚くよりも、今はただ胸が締め付けられるような思いだ。
私はずっと、三の君はどちらかと言えば臆病で大人しい性格なのだと思っていた。少なくとも、小梅から見た彼女はそうであったし、胸にあのような激情を秘めているとは思わなかった。
しかし、それも当然だと思う。彼女は小梅に、いや、小梅以外の誰にも、それを知られないように細心の注意を払い、生きてきたのだから。
小梅は私に、「以前の三の君は異性からの文が怖くて泣いていた」と言っていたが、三の君の視点から見れば事実は異なる。三の君は、あの文の中から結婚相手を探さなくてはいけない、自分の未来に絶望していたのだ。「結婚などしたくはない」と彼女が言っていたのには、しっかりとした理由があった。
「あの人」と呼んでいた――そう、想い人がいた。しかし、絶対に結ばれない相手。そうと分かっていても、ただ静かに、ただ想っていたのだろう。
どうして気付かなかったんだろう。気付いて、あげられなかったのだろう。いたるところにヒントはあったはずだ。私はそれらを見逃し続けていて、彼女の本心へ近づく機会を失ってしまっていた。
今までだって、彼女は私に語りかけていたはずだった。思えば、彼女の夢に一番多くいたのは彼だったのに。
白い草花が好きだったのではない、彼がくれるものならなんだってよかった。
成人してしまえば、几帳越しでしか会話ができない。裳着を嫌がったのは、それまでのように気安く会えなくなるから。
泡にでもなってしまいたいと泣いたのは、この恋が辛く苦しく、決して報われないものだったから。それが永遠と続くことが、きっと堪えられなかったのだろう。
三の君は、兄を――有明中将に恋をしていたのだ。
それも少女が初恋をするような、ほろ苦く甘いものではない。ただ一人、兄だけを苦しいくらいに慕っていた。
彼女の心に触れた今は、後悔が募る。
ブラコンだなんて、そんな冗談のように表現していいものじゃなかった。私が彼女の意識に入り込んでいた時に感じたのは、ひたすらに兄を想う純粋さと、決して叶わぬ恋をしてしまった苦悩。そして、自分は異端なのだと責めるような己への嫌悪。
兄を好きなど、まさか小梅にも言えるはずはない。彼女が一人で抱え込むには、どれほど辛かっただろうか。器用に気持ちを切り替えることができていれば、あそこまで思い詰めることもなかったのだろうが、彼女はそういう性格ではなかったということだ。
三の君が尼になることを願ったり、「死にたがり」だったのは、すべてこのせいだったのだろうか。生きていても、他に希望を見出せなかったのならば、なんと辛いことだろう。
少し前の私ならば、「たかが恋くらいで」と思ったのかもしれない。いや、思ったに違いない。しかし、宮と出会い、宮を想うようになったことで、穏やかな幸せを知った一方で、失う怖さも知ってしまった。確かに彼女のいう通り、恋とは激しい想いがこの身を駆け巡る時がある。
私は幸い、宮と相思相愛という関係になれたが、三の君は自身の恋の始まりが終わりだったのだ。手が届きそうなほど近くにいるのに、永遠に届かぬ相手。そんな、到底結ばれることのない人を想う辛さは、どんな言葉でだって表現できない。きっと彼女にしか分からない。
しかし……どうしてか、それだけではない気がする。これは、ただの勘だけれど。
三の君が「死」を望むほどの強い何かが、悲恋だけだったとはどうしても思えない。本人もそう言っていたが、最終的には、彼女には出家をするという切り札があったはずだ。父母が何と言おうが、髪を切ってしまえばどうすることもできない。
小梅の話すような気弱な姫だったのならば話は違うが、あれほどの強い想いがあったのならば、私が出家騒ぎを起こしたように、彼女も髪を切るくらいの覚悟はできたはずだ。
では、なぜ?
「――姫様、お目覚めになられたのですね」
「え……ああ、小梅……」
もう朝餉のお時間でございますよ、と小梅が苦笑いする。
私はそんなに長い間、眠っていたのか。確かに、眩しい日差しが部屋に差し込み、辺りはすっかり明るくなっていた。
「お身体はいかがでございますか? 夜明けに比べますと、随分とお顔色もよろしいようですが」
「そうね、すっかりよくなったみたい」
小梅に言われて、頭痛が消えていたことに気が付き、ほっとした。これで昨日のように、宮を迎えることはできそうだ。相変わらず疲れは残っているのだけれど、それでも頭が割れてしまいそうなあの痛みに比べたらどうということはない。
「腹が減っては戦はできぬ」じゃないけれど、とにかく食事はしっかりと摂らなくては。
ただでさえ、身体は元々病弱なのに、ここにきて私の精神もそこそこ参っている。まずは、よく食べてよく休む、という健康の基本に戻るべし、朝食を食べなくては!というのが、とりあえず私の出した結論だった。
三の君のことは後で考えよう。
「支度を終えたら、朝餉をいただくわ。小梅、ご飯はいつもより大盛りにするよう下仕えの者に伝えて」
「はぁ。それは構いませんが、いつもはお椀一杯で十分だとおっしゃる姫様が、突然どうなさったのです?」
「夜に向けて体力をつけなくてはならないの!」
実は寝不足であまり食欲もないのだけれど、そんなことは言っていられない。糖分を摂れば頭も働くというし、なんでも胃に詰め込んで、身体だけは万全の状態で次の夢に備えなくては。さすがに、ここまで寝坊して昼間のうたた寝はないだろうから、次に三の君の夢を見るとしたら、やはり今夜だ。
早速、着替えをして膳を運びこんでもらおう。そう小梅に言おうとしたら、耳を赤く染めた小梅が視線を泳がせた。
「……姫様、宮様との仲がよろしいのは結構でございますが、あまりそのようなことを大々的におっしゃらない方がよろしいですわ。わたくしだからよいものの、他の者が聞きましたらすぐにお噂になってしまいますわよ」
「噂? なぜここで宮様のお話が出てくるの?」
「なぜって、姫様がおっしゃったのでございましょう? ……夜に向けて体力を、と」
「……」
「……」
「ち、違うわよっ、あれはそういう意味ではないわ! や、やだ! 私はただ、このところ夢見が悪く寝不足だったから少しでも精をつけなければと思って」
「さ、さようでございますの。とにかく姫様、お支度をなさいましょう!」
小梅が気まずそうな顔で、さささ、と着替えや化粧の準備をしはじめる。まだ朱に染まったその耳を見るに、絶対に勘違いしてる。夢見がどうのとか、完璧に私の言い訳だと思ってる。むしろそれが本当の理由なのに!
昨日同様、居心地の悪い思いをしながら、私はただ座っていることしかできない。
雛菊に続いて、小梅までも……
これじゃ私が、新婚三日目、宮とのめくるめく夜にとっても乗り気みたいな空気だ。恥ずかしい、もう恥ずかしすぎて居たたまれない。だからなんでこの部屋には穴がないの! 穴があったら直行で入りたいのに!
一人赤面していると、コホン、とわざとらしく咳が聞こえた。視線をやれば、小梅がにっこりと微笑む。
な、なに……? なんでそんな笑顔なの。嫌な予感がするのだけれど。
「姫様、わたくしとしたことが動揺してしまいまして、失礼いたしました。姫様がそのようなおつもりならば、ええ、もちろん小梅も全力でお手伝いいたしますわ! ですから今日の湯浴みも念入りにいたしましょう、宮様に隅々まで愛していただくのですもの」
「ちょっ…… 小梅っ、なによその言い方! 湯浴みなんか一人で大丈夫よ、むしろ一人でさせて!」
「ま! 何をおっしゃいますの!? 今宵は大切な三日目ですもの。お美しい姫様を、更にお美しく磨き上げさせていただきますわ!」
うわぁー…… また昨日の一連の儀式を繰り返すの、勘弁してー……
色んな意味で真っ青になっている私に、小梅はそれはそれは楽しそうに、歌うような声で話した。
「衣も香も、お任せ下さい。宮様が更に姫様に夢中になるよう、素晴らしいものを取り揃えておきますわ! そして……三日夜餅ですわねーー!! うふふふふ」
◇◇◇
“お身体のご調子はいかがでしょうか
姫宮様がお健やかにお過ごしになられているか、気掛かりでなりません
急なこととなりましたが、兵部卿宮様と結婚する運びとなりました
姫宮様にはご報告が遅れ申し訳ございません
落ち着きましたら、また伺いたく存じます”
さらさらと紙に筆を走らせ、墨が乾くのを待って、私は雛菊にその文を手渡した。
「姫宮様にお届けしてちょうだい」
「はい、かしこまりました。文使いに渡して参りますわ」
「ありがとう、お願いね」
あの大雨の日以来、姫宮とは会えていない。泣きながら「美味しい」と食事をしてくれたあの小さな姫は、今頃どうしているだろうか。
宮とのこともあり、このところはずっとバタバタとしていたが、「姫宮を健やかにする」という私の使命は終わるどころか、ようやく始まったばかりだ。院と帝に強引に乗せられた船とはいえ、途中で降りるつもりはなかった。姫宮の、可愛くもあり弱い一面を知った今では、特にそう感じている。
あれから、食わず嫌いなどせずに、少しでも多く食べてくれているといいのだけれど。
文に書いた私の気持ちは、紛れもなく本物だ。彼女のことを心配しているし、露顕を終えた後は、日を調整して、一度顔を出しに行きたいと思っている。義務で行くのではなく、私がそうしたいのだ。
『周りの人間はどんどん離れていく。誰も我のことなど好いてはおらぬ』
彼女が傷ついた顔で放ったあの言葉が、ずっと忘れられない。一体、なぜあそこまで周り全部が敵のように思っているのか。
確かに姫宮は我儘で一方的な部分もあるので付き合い難い印象を与えるが、一方で人一倍淋しがり屋で脆く素直な部分だってある。それを一瞬でも見れば、彼女を嫌いになれるはずもなかった。むしろ、守ってあげたくなるような気もするし、彼女に近付けたようで嬉しく感じると思うのだが…… それに、彼女はあんなに可愛らしい少女だ。
本人にも伝えてはいるが、少なくとも私は姫宮が好きなので、「誰も好いてはいない」ということにはならない。姫宮の女房達も古参の者が多いように見えたが、彼女達だって辞めずに傍にいるのは、姫宮の短所ばかりではなく長所を知っているからだろう。
あの日は、食事のことを優先して踏み込まずにいたが、自分が嫌われているのだという誤った姫宮の認識を、違うのだと早く否定してあげたい。何かが彼女の心に深い闇を落としているのは事実だ。それを、どうにかして取り払ってあげたい。
父も兄も自分のことを嫌いなのだ、とも言っていたが、まさかそのようなことはあり得ないだろう。院は当然のことだが、あの仏のように穏やかな宮が妹を蔑ろにするとも全く思えない。
「宮様に、今宵、聞いてみようかしら……」
原因とまではいかずとも、もしかしたら、何か知っているかもしれない。何せ宮は血を分けた兄妹で、現在同じ敷地に住んでいるのだ。姫宮のことは毎日と言っていいほど耳に入るだろう。であれば、宮に相談し、彼に助言を貰うのが手っ取り早い。
二人が険悪な仲だということは一度も聞いたことがないし、むしろ『竹取物語』を貸すくらいには好意的だ。宮だって実の妹の心身の健康を願っているはずだろう。やはり、一度宮に相談してみよう。
本来であれば、もっと時間をかけて姫宮の心に寄り添うべきことだ。でも、ここまで急くのには、理由がある。
私には、もう時間がない。
天狗が私に与えた情報からは、この世界に留まれる残り時間など知ることも出来なかったが、カウントダウンはもう始まっているはずだ。
正直、自分のことで手いっぱいで、人の世話なんか焼いている場合ではない。自分自身の未来が今後の行動にかかっているのだ。よそ見をしている余裕がないことくらい、私が一番よく分かっている。
けれど、姫宮の心の棘を取り払い、彼女がこの先、元気に生きていってくれたら――きっと、私がこの世界にきた意味があったのだと思える。もしも、力及ばず私が三の君もろとも消えてしまったとしても、あの子が笑っていてくれれば、何かが報われるような気がするのだ。
我儘で淋しがりな、小さなあの子。
知れば知るほど、その酷似した様子に驚いた。姫宮は、私の妹によく似ている。甘えたがりなところも、人間関係が少し拗れてしまっているようなところも、そして私を慕ってくれているところも。外見は全くの別人だが、性格は妹の雰囲気と重なる部分が随分と多い。
だから、こんなにも気になるのもかもしれない。姫宮の影にあの子が見えるような気がするから。
宮と結婚した今は、彼女は私の義妹になる。
私のもう一人の妹……ここに、この世界にいる間にどうにか、助けてあげたい。
まずは、宮にどう切り出すべきか。
宮が訪れるまでは、もうあと数刻ほどだ。実際には、夕餉や小梅の湯浴み強制連行があるので、ほとんど時間はないといってもよい。
夕焼けに赤く染まり始めた雲を目に、私はもう一度、自分が何をするべきなのかを考えた。
シリアスが続くと(読者様が)鬱々するので、ところどころで息抜きを入れています汗
ちなみに私はバッドエンドも鬱展開も全く平気ですが、夜半の月はハピエンでまとまります!('◇')ゞ
次話で宮様再登場です。随分濃い新婚三日間になってしまった...
ラブラブはまた次回ですm(_ _)m
本日もお付き合いありがとうございましたm(_ _)m




