第二十四話
筆を取っては硯の上に置き、また筆を取っては迷って硯に戻す。
何度繰り返しただろうか。既に墨は乾き始め、目の前の紙は真っ白なまま。気が付けば隣にいた小梅が怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「姫様、いかがなさいましたの? 先ほどから、おかしな行動ばかりなさって」
「いい書き出しが見つからないのよ」
「兵部卿宮様へのお文でございますか」
「ええ」
「いつも通りに返歌をなさればよろしいではありませんか。今日はわたくしに代筆も頼まず、どうなさいましたの?」
「さすがに、この文だけは自分で書かなくてはいけないような気がして。だけど、なんとお伝えすればいいものか…… どう書いたとしても、失礼なことに違いないし」
俯いた私を見て、小梅は何かを悟ったのだろう。
「姫様」と白湯を差し出した。
「一度、お離れになってみてはいかがですか。少しお休みになられた方がよろしいかと思います」
「ええ、そうね。気分転換も必要よね」
とは言いつつも、頭の中は兵部卿宮への文のことでいっぱいだ。
いつものように、頼みの古典文学の知識を引っ張りだしてくる気にはなれなかった。過去の誰かが詠んだ歌を引用したり真似るのではなく、私自身の言葉で兵部卿宮に伝えることが誠意だと思ったからだ。
白湯をすすりながら何かないものかと考えるのだが、やはり思い浮かばない。完全に行き詰ってしまったようだ。
――やはりこのままでは駄目だ。
私がそう強く思ったのは明くる日の朝、五条院から左大臣邸へ戻る車の中でのことだった。
こんな状態のまま、兵部卿宮と繋がっていることはできない。彼に文を書こう。「どれほど待っていただいても結婚はできない」と打ち明けなくてはいけない。
現代に戻るだとか三の君の魂がどうだとか、そういうことはすべて抜きにして考えてみたときに、自分の心は既に答えを出していると思った。私は鷹衛さんが好きだ、その気持ちを誤魔化すことはできない。
そこまでの明確な思いがあるのに、兵部卿宮と何事もなかったように文をやり取りすることはこれ以上できない。だからそう伝えようと、早速、筆と硯、紙を用意したのに、いざ書こうとすると手が止まってしまった。
それが、ここ数日続いている。その間にも、兵部卿宮から、相変わらずの美しく優しい文は届いていた。一刻も早く、言わなくてはいけないのに……
けれど、何といえばいいのだろう。
「結婚はできない」と、それだけ書くにはあまりに失礼だ。かといって、他に惹かれている人がいるからとバカ正直に書くのも違うような気がする。「では今までなぜ私とやり取りをしていたのか」と問われれば、言葉を返せない。
鷹衛さんへの好意にはっきりと気が付いたのは昨夜のことだけれど、それは私の事情であって兵部卿宮には何の関係もないからだ。
何を書いてもあの優しく誠実な人を傷つけるのかと思うと、私の胸も痛んだ。
お会いしたことはなくても、人柄は滲み出ていた。あんなに毎度、丁寧な文をくれてこちらを楽しませ、自分も楽しいと言ってくれていたのに…… これならば、いっそやり取りなどしない方がよかった。こうなると分かっていれば、絶対にしなかった。既に後の祭りだ。
それに、私の慕う相手が、自分に仕える鷹衛さんだと知ったらどれほど苦しむだろうか。鷹衛さんは「何も心配はいらない」だなんて言っていたけれど、そんなはずはない。いくら人のいい兵部卿宮だって、いい気分はしないはずだ。私が彼の立場なら、とんでもない裏切り行為だと激昂するかもしれない。
自分が求婚者した姫と側仕えが恋仲だなんて……
たとえ兵部卿宮の怒りを買ったとしても、私には何の言い逃れもできない。
彼は先帝の皇子、親王だ。ただの貴族とは訳が違う。しかも、この結婚には帝と院の後押しもあったのだ。親王の求婚を断るなど、聞いたことも読んだこともない。
場合によっては、髪をおろして出家しなくてはいけないし、左大臣家にも相当な迷惑がかかるのは必至だ。けれど、兵部卿宮はそれを望まないようにも思えた。彼は本当に優しいのだ。自分の心を痛めたとしても、同じように相手にも痛みを与えるような人では、きっとない。
本当に……鷹衛さんが兵部卿宮ならよかった。
それなら、誰かを傷つけることもなかったのに。
だけど誰を選んだとしても、誰と心を通わせたとしても、一時のこと。
私はいずれは現代に戻り、三の君の魂がこの身体へ宿る。恋をしても、それは続かないし、最後は自分も相手もきっと苦しむだけ。
そう、鷹衛さんとだって……
「兵部卿宮様の求婚をお断りになられるのですね」
「小梅…… ええ、そうよ。私などには勿体ないほど素敵な方だと思うけれど」
「では、そのようにお書きになればよろしいのですわ」
「え?」
「宮様ならきっと分かって下さいます、姫様が悪戯に宮様へのお返事を延ばしたわけではないことを。しっかりとお考えになった上でのご決断ならば、何もおっしゃいませんでしょう。よいではないですか、取り繕ったりはせず、そのままの姫様のお言葉をお伝えになれば」
「そのままの、私の言葉?」
「あれやこれやと仰らず、思っておいでのことを素直にお伝えなさるのが一番よろしいかと存じます」
「……そうね。言い訳がましいことを書き連ねるよりも、その方がよいわね。ありがとう、小梅、なんだか霧が晴れたようよ」
小梅のいうことにも一理ある。
元々私は器用な性格ではない。遠回りするのは、兵部卿宮にとっても、私にとっても、結局よくないのだ。であれば、やはり今の心の内をそのまま伝えるのがいいのだろう。もちろん、鷹衛さんの名前は伏せるけれど。
今度こそ筆をとって紙の上に置いた。
“あなたのお気持ちは嬉しく思いますが、お応えすることはできません
このような返事を書くしかない私をどうかお許しください
さようなら“
これでいい。少し素っ気ないような気もするけれど、そもそも別れの歌なのだから仕方ない。
もうあんな達筆で品のいい優しい文は二度と届かなくなる。そう思うと、すごく淋しく感じられたが、こうするのが一番いい。兵部卿宮の時間をこれ以上私などに使わせてはいけない。彼へ文を送るのはこれが最後だ。
「文使いに渡してちょうだい」
「かしこまりました」
小梅に文を渡した。未だ躊躇う気持ちもあったけれど、鷹衛さんへの思いがある以上、引き返すことはできなかった。
この決断を、父や母へも報告をしなくてはいけない。ただ、両親にもどう説明をすればいいのか。私でさえ、客観的に「兵部卿宮の何が駄目なのだ」と思うくらいなのだから、二人はなおのことだろう。鷹衛さんのことは話せるはずもない。
いい説明が見つからないのなら、父母へ伝えるのは明日以降にしよう。今後の険しい道を思うと頭が痛い。私は思わずこめかみを押さえた。
◇◇◇
夕食の膳を下げ、湯浴みまで終えた頃に、小梅の姿がないことに気が付いた。
つい先ほどまでは、隣で私の世話をし、テキパキと仕事をしていたはずなのだが、一体どこへ行ったのだろう。
「雛菊、小梅はどうしたの?」
「はい、小梅様は客間を整えに行かれましたわ。どうも人手が足りぬようで」
「人手が足りない?」
それは以前までの話で、ここ最近の左大臣家は十分に女房がいたはずだったと思うのだけれど。それこそ小梅が「人手不足とはおさらばですわー」とやけに喜んでいたのをよく覚えている。
確かに、彼女は働き過ぎの傾向があったので、人手が増え負担が少なくなるのなら私も嬉しいと思ったのだが……、どういうこと?
「どうも数日ほど前から、女房の間で流行り病があったようですの。命に関わるようなものではないのですが、熱が出るようで、みな、大事をとって部屋で休んでいるのですわ」
「まあ、そうなの。それは心配ね」
「ええ。西の対の方が特にひどく、東からも人手を割いてあちらのお世話をしているのですが、こんな時に限って有明中将様が今宵こちらへお泊りになるそうでして」
「お兄様が?」
「はい。なにやら、宮中で管弦の遊びが行われるのだそうです。遅い時間になりそうだからと、今宵は宮中から近い左大臣邸にとのことで、小梅様は中将様のお泊りになるお部屋を整えに行かれました」
「そうだったの。ああ、それで客間ということね」
数日ほど前というと、姫宮の文に急かされ五条院へ行ったり、泊まったりでばたばたとしていた頃だ。帰宅後も私の頭の中は兵部卿宮への文のことで埋め尽くされていたし、そんな私に気を遣い、小梅は何も言わなかったのだろう。
左大臣邸が大変なことになっているなど何も知らなかった自分が情けない。
「みな大変なのに、私は何も知らずにいたのね。申し訳ないわ」
「姫様がそのように感じることはございませんわ、東の対の者たちにはそれほど影響はございませんし」
「そう…… お母様は大丈夫かしら。お父様も」
出家騒ぎの時よりは元気になったとはいえ、随分と痩せていた母が気掛かりだ。あれ以降、父や母とは何度か会っているが、二人の健康状況はいつだって心配だった。
三の君の大切な両親だ、私のせいでかけた負担や不安は出来る限り軽減し、健やかでいて欲しいと思っている。特に母は病がちで臥せている時間も多いので、そこに邸内で流行り病などと気が気ではない。この世界に来てから、三の君を通して「私」に優しく接してくれた二人のことを、私ももうただの他人とは思えない。
「東の方様ならば、ここ最近はお身体のご調子もよいと伺っております。ご心配なさらないでくださいませ」
「わかったわ。あなたも、どうか身体は大事にね、雛菊。決して無理をしてはだめよ」
「もちろんでございます、万が一にも病になどなれば、姫様が悲しまれますもの。それにわたくしの取柄は元気だけですわ!」
「それならいいのだけれど…… では小梅はしばらく戻ってこないのかしら」
「先にお休みになられてくださいと、言伝を預かっております」
兄が泊まるのであれば、必然的に兄の世話役も必要になる。
もし小梅がそちらも担当しなくてはいけないのならば、もしかしたら今夜彼女は戻ってこないかもしれない。小梅もそれが分かっているから、雛菊にそう伝えたのだろう。
「姫様こそ、お身体の方はいかがなのですか? このところ、あまりよく眠れていらっしゃらないのでしょう?」
「……ええ」
原因は分かっている。夢のせいだ。
小さな三の君に、有明中将が白い草花を手渡して、「幸せにおなり」と微笑む――、あの夢を皮切りに、あの日から毎日、眠っている間は何かしら見せられている。彼女の思い出なのか、記憶の断片なのか。
身体は横になっているので多少疲れは取れるものの、意識はずっとあるような気がするので精神的に休まらない。
同じ夢を日に三度も見ることもあれば、全く違うものを見ることもある。そして夢がぷつりと途切れると、そこで私の目は覚めてしまう。それも、必ずだ。見回すと辺りは暗く、まだ夜中だということが、このところ、ずっと続いていた。
どうも一日に見る頻度が、日に日に増えているようなのだ。昼間にうたた寝をしても見るので、本当に休めた気がしない。
熟睡できないことがこんなに辛いなんて知らなかった。
朝は起きられないし、昼間は頭にもやがかかったように思考がぼんやりとし、夜は夜で、昼のうたた寝のせいかなかなか寝付けない。悪循環だと分かっているのだが、肝心の原因である夢を取り除こうにも、その方法が分からないのでお手上げ状態である。夢を見ずに眠るにはどうしたらいいのだろう。
最近は目の下に隈までできてしまっているらしい。小梅がお化粧を少し濃くしてくれているらしいのだが、どうにも隠しきれないようで、曇った鏡でさえそれがはっきりと分かる。とにかく邪魔せずに眠らせて!、というのが最近私の一番の望みだった。
内容だけでいえば、悪夢では決してない。
でも、こうも毎日見せられるとそれに近いものに感じる。何かのメッセージなのか。そうだとするなら、三の君が私に訴えているのだろうか。あんな幼い頃の思い出のようなシーンだけ見せられたとしても、正直なところ何も分からない。
今日もきっと、何かを見せられるのだろう。そう思うと、眠ることが怖くさえあるのだが、睡魔は私の拒否など簡単に呑み込んでしまう。そうして、抗えない私は夢の世界へ連れて行かれるのだ。
もう、うんざりしていた。
「姫様、お休みになられますか」
「ええ、そうね。そうするわ」
誰に言ったって、この不可解な出来事は分からないだろう。
唯一相談できる相手がいるとすれば、それは天狗のおじいちゃんだが、気安く会えるわけでもない。試しにちらりと外に目をやってみたが、この前の鳶の姿など一切見えなかった。
お願いだから、今日こそ、眠らせて。
三の君、この身体は貴女のものでもあるの。休まなければ、いい加減倒れるわよ。だから貴女のためにも眠らせて。
そう願いながら瞼を閉じたのだけど、やはりいつもと変わることはなく、私はすぐに目を覚ましてしまったのである。
次話、修羅場になります(・・ )
ストックがなくなってきました……
毎日更新もそろそろ終わりそうです^^;
本日もお付き合いありがとうございました。




