第十二話
考えなければいけないことが多すぎる。それも、頭の痛いものばかりだ。
小梅が持ってきてくれた唐菓子を一つつまんで口に入れながら、私は、あの鞍馬山での天狗との会話を順に思い出していた。
一番の頭痛の種は、死にたがりの三の君だ。極楽浄土へ行かれてしまうなんてとんでもない。
どうすれば彼女に、現世に未練を持って戻ってきてもらえるのか。彼女の魂が生きる意味を見出せなければ、私はこの世界に囚われたままになってしまう。
それに、私自身の身体は今、どうなっているのだろう。あれから随分と気持ちも落ち着いて泣き出すようなこともなくなったが、心の棘は深く深く突き刺さったままだった。
それでも帰ることを諦めようとは一切思わない。
天狗は条件さえ揃えば帰る方法はあると言っていたのだから、今はそれを信じるだけだ。自分が勝手に立てた最悪のパターンの仮説よりも、そちらに希望を持つ方がよほど生産的に思えた。もちろん、私の精神面もその方が安定するし、いちいち凹んでいても時間が勿体ないだけ。
どん底まで落ち込めば、あとは浮上するしかないのだ。一度負のループに入ると長いが、そこから脱出したあとの立ち直りは早いのが私だ。切り替えは大事だとつくづく思う。
「姫様、いかがなさいました? そのような難しいお顔をなさって」
「小梅…… 少し考え事をしていたのよ」
「例の、天狗のことでございますか?」
ドキリとした。
誰も、小梅でさえも、鞍馬山で天狗と会ったことは知らないはずだ。
鞍馬寺の参詣を終えて、はや数日。あの出来事は未だ、私の胸だけに収めている。
「有明中将様にあのように釘をさされては…… 申し訳ございません、姫様、何もできず、何のお役にも立てず」
「ああ、そんなことはもういいのよ、小梅。それよりも、先日は助かったわ」
内心ほっとしながら、話の方向を変えてみる。個人的には天狗にはもう会えたので、今更小梅に情報収集をお願いすることもないし、それができないことで彼女がしょんぼりとする必要もなかった。
思い返してみれば、小梅の持ってきた情報が半分は当たっていたというのがすごい。
「霞を食べる天狗」説もあながち外れていたわけでもないし、「千人に一人会える」説も、あの食えないおじいちゃんの気分によりけりなら分かる気がする。そう考えれば、女房の情報網というのも侮れないものである。
「先日とおっしゃいますと……有明中将様の件でございますか」
「ええ、お兄様をうまく足止めしてくれたわね。おかげで、鞍馬寺に参詣することができたわ」
「姫様の入れ知恵と文がなければ乗り切れませんでしたわ。わたくし、とてもはらはらといたしましたの。寿命の縮む思いでございました」
あの兄相手である。小梅の言葉がおおげさではないことはよく分かった。
恐れるべきは、兄の勘というものだろうか。なんと私が鞍馬山へ出立した翌々日に、兄は邸へ来たのだそうだ。口止めしていたので父も母も私のことは一切話さないでいてくれたらしいが、何かを感じ取ったのだろうか。私の部屋へも日を変えて、度々訪れていたらしい。
「姫様は臥せっていらっしゃいます、と何度申し上げたことか。几帳の向こう側から、妹は声も発せぬほど気分がよろしくないのか、とわたくしに問いかける中将様の追及の勢いと言ったらありませんでしたわ。書き溜めておりました文をお一つずつお渡ししてなんとかお帰りいただきましたが、嘘と知れたらと思うと、わたくし、恐ろしくて恐ろしくて」
うわぁ……
その様子がありありと目に浮かぶ。小梅、相当ストレスだっただろうな。
兄のあの性格だ。はじめは本当に私が病で臥せていると信じていただろうが、後半は絶対に疑ってかかっている。
文に書いた内容というのは、「今はただ休んでおりますのでそっとしておいて下さい」とか「元気になりましたらお兄様とまた楽しくお話をしたいです」とか、「喉が痛むので声も出せず私だって悲しいのです」とか、そんなものだ。どれをどの順番で渡すかや、兄の言葉に対して小梅がどう返答するかなどなどを、私達は細かく打ち合わせをしていた。小梅はそれに忠実に行動したのだろう。
そして、私の部屋には小梅以外の女房は近づけないことと、食事の膳はいつもと同じように運ぶこと(更に小梅にこっそり、少々手を付けてもらった)、寝具の中に着物を入れていかにも臥せているような影を作り出すことなどを徹底した。
その甲斐あって、兄に鞍馬山の参詣のことは知られずにいたのだけれど、もう本当にギリギリのラインで堪えていたらしい。兄が几帳を押しのけてでも私の姿を確認したいと言い出すその数時間前に、私は邸に戻ったのだから。
◇◇◇
「解せぬ。なぜそこまで病が重いのに、父上は加持祈祷をなさらないのだ。ついこの間まで生死の境を彷徨っていたお前を、父上が心配せぬはずもない。しかし父上に伺っても臥せているとしか言わぬ。お前、本当にそこにいるのか?」
問いかけるのではなく、問い詰める言葉だった。
「中将様、姫様は、」
「小梅、私は姫に伺っているのだよ」
小梅にかぶせた兄の声は、完全に疑っていた。というより、そこに姫はいないだろう、と決めてかかっていると言った方がいいだろうか。
伺う、と言いながら、疑う。一文字変わるだけで、全然意味も異なる。
「この目で確かめる。そちらへ参るが許せ」
衣擦れの音に、兄が立ち上がったのだと知った。
いくら兄妹とはいえ、高貴な身分の姫とは几帳越しの対面が普通だ。それを知らない兄ではないので、確信を持っているに違いなかった。
「なりませぬ!」
「小梅、通せ」
タイミングとしては今だろう。
二人のやりとりを聞きながら、私はすうっと息を吸ってから、ゆっくり声を発した。
「お兄様、さきほどからどうなさったのです。こちらにいらっしゃるなどと…… このように騒がしいと、休んでいることもできませんわ」
「なっ……姫!?」
「はい」
「そなた…… そこにいたのか? いや、しかし、」
「何を当たり前のことをおっしゃっているのですか? わたくしはずっとここにおりましたわ」
「では何故、これまで見舞いに訪れた時にそのように仰らなかったのだ」
「ですから、喉が痛んで声も出せずにいたのですわ。お文でもお伝えいたしましたのに…… ようやく話せるまでに回復いたしました」
「……本当に、お前、ずっとそこにいたのか?」
「先ほどからそのように申し上げております。お兄様、いかがなさいましたの?」
自然と、自然と。
自分に言い聞かせながら、用意していた言葉をつらつらと、だけど慎重に述べた。少しでも声が上ずってしまえば、嘘だと見破られそうだった。
実際、私は几帳を隔てて横になっている状態だ。兄からの文も、彼が小梅に言った言葉の一字一句も、すべて頭に叩き込んでいた。確かに私はここにいたのだと兄に信じ込ませなければならないのだ。
「そう、であったか」
「ええ、少々熱も出たようですが、今は大丈夫です。流行り病でしょうから、せっかく来ていただいたところ申し訳ありませんが、お兄様にうつしてしまったらいけませんもの。今日はお帰りになって、どうかまた日を改めてお越しください」
数秒の沈黙の後、兄が言った。
それはもう、先ほどのような疑念に満ちたものではなかった。
「わかった、今日は帰ろう。ゆっくり休みなさい」
◇◇◇
あれは本当に冷や汗ものだった。帰宅が数時間遅れていたら危なかった。
邸内の限られた人物にしか参詣のことは話さず、また供として来てくれた者達にも父が「口外せぬように」と口止めしてくれていたようで、その後も兄に嘘がばれることはなかった。
とはいえ、どこから話が漏れるとも限らない。ばれたらばれたで、その時また対策を考えればいい。当初の目的は果たしたので、そこはもう、あまり重要ではない。
「わたくし、二度とあんな思いはしたくありませんわ」
「わかっているわよ、小梅。色々とありがとう」
「……姫様は罪なお方ですわね。その笑顔で全部なかったことにしてしまえるのですから!」
まるで恋をしているかのような言葉に、思わず笑ってしまった。
小梅ってば、本当に三の君が大好きすぎるんだから。
「姫様こそ、大変だったのでしょう。雛菊から聞きましたわよ。物の怪が悪戯で突風をおこし、姫様を飛ばしてしまわれたのだと」
そう言われると、それは違うと否定したくなる。風で飛ぶって、私は羽根かなんかか。
話に出てきた雛菊は、昨夜から女性の日がはじまり休んでもらっている。旅の疲れもあるだろうし、休む理由が出来たのは、そうしてほしい私としてはちょうどよかった。
「まあ、でも大丈夫よ。結果的に鞍馬寺へ参詣もできたのだし、この身の穢れは洗い流せたはずよ。お父様も喜んでいらっしゃったわ、これでもう安心だと」
「それならよろしいのですが…… あら、白湯がなくなりましたのでお持ちいたしますね」
「ええ、ありがとう」
ふわりと舞い込んできた風に外を見た。まだ明るい西の空にはもう白い三日月が浮かんでいる。
箱に入れっぱなしだった檜扇をそっと取り出した。
そういえば、まだ開いていなかったなと思い出す。扇には美しい絵が描かれていることもあるが、この扇はどうなのだろう。
一本一本ゆっくりと開けていくと、ほのかに檜の優しい香りがする。そこに広がる、白と銀、緑の色彩。
「満月……」
銀と白で見事に描かれた丸い月が輝いていた。そこに竹の緑が映える。シンプルな絵柄なのに、心を奪われるほど、とても美しかった。
これを私にくれたあの人は、私のことを「かぐや」と呼んでいた。会えて嬉しい、とも。『竹取物語』のヒロイン、かぐや姫はやがては月に還ってしまう。あの人は私を彼女に見立てて、こんな扇を持ち歩いていたのだろうか。
でも、それは。
「考え過ぎだよね」
あの、二度目の出会いからだ。
どうして鷹衛さんのことがこんなにも気になるのだろう。また会う約束だなんて、一方的に渡されただけの檜扇がこんなにも大事なのはなぜ?
この気持ちに思い当たる言葉は分かるけれど、それを認めることはできなかった。だって、私はこの世界の人間ではないのだから。いつかは必ず自分のあるべき場所へ戻るのだ。その時に胸がチクリと痛むような気持ちを育ててはいけない。自覚してしまえば後に引けないと分かっているので、見て見ぬふりをしなければならないのが、どこか寂しかった。
「あら、姫様? そのような扇を持っていらっしゃいましたか?」
いつの間にか戻ってきていた小梅が小首をかしげる。
「ええ、先日いただいたの」
「お美しい月でございますわね」
「そうね。お気に入りよ」
私の行動範囲はものすごく狭い。おそらく父母のどちらかから貰ったのだろうと考えたのだろう。小梅がそれ以上、檜扇について聞くことはなかった。
「それから、姫様。つい先ほど、お文を預かって参りました。その……」
「また宰相中将様?」
鞍馬山へ行っている間も、わんさか届いていたそうだ。その返事も小梅の仕事なのだが、うんざりを通り越してげっそりしてくると言っていたのには笑った。
彼のしつこさは私も経験しているので、よく分かる。
「……い、いえ、宰相中将様ではなく……」
「どうしたの?」
何故か言いにくそうに、金魚のように口をパクパクとさせている彼女から文を受け取り、目を落とした。
“都一の花と名高い美しい貴女に心を奪われました”
なんだ、やっぱり宰相中将じゃないか。
それにしては、随分達筆で文字が美しいような……
「お、お文は、兵部卿宮様からでございます」
思わず口をポカンと開けてしまった。
ちょっと待って。
だって、なんで? どうして?
慌てて続きを読む。
“私はその花に触れてもよいのでしょうか
どうか許されるのならば今すぐにでも”
「ひ、兵部卿宮様っ!?」
「初めてのことです、兵部卿宮様が姫様にお文など」
「兵部卿宮様って、皇子よね……」
先帝五条院の第三皇子で、今上帝の弟君。いわゆる親王という立場の方だ。
なぜ、そのような方が私に?
思い当たることといえば、一つしかない。
鷹衛さんが私を宮に勧めた??
あの人自身がくれた文ならこんな気持ちにはならなかっただろうと思って、苦笑した。
何を期待していたのだろう。自分の愚かさに胸が痛む。
「とにかく、すぐにお返事をしましょう」
そう小梅に言ったところで、何やらばたばたと騒がしい音が近づいてきた。遠くからこちらへ向かっているのは、父左大臣だ。
今日は、訪問の約束はなかったはずだが、急ぎの用だろうか。小梅も驚いているようだ。
父は几帳の前にどかりと座ると早々に人払いをし、口を開いた。部屋には父と私、小梅だけがいる。
「姫、落ち着いて聞きなさい」
「お父様、慌てて、どうなさったのです?」
嫌な予感がする。
そして更に嫌なことに、そういうものは大抵当たるのだ。
几帳越しに見えた、意を決したような父の顔。心臓が早鐘のように打つ。
とんでもないことが起ころうとしているのではないか。
だって、こんな父を私は見たことがない。
父は、「落ち着きなさい」ともう一度、まるで自分に言い聞かせるかのように繰り返して、私に告げた。
「つい先ほどのことじゃ。出仕の後、上様が儂をお呼びになり、ご提案なさったのじゃ。兵部卿宮にそなたを娶らせてはどうかとな」
め、娶らせる??
娶らせるって、結婚ということ!?
兵部卿宮といえば、ついさっき文が届いたばかりではないか。タイミングが合いすぎではないか。
いや、それよりも気になるのが上様の、帝の提案ということだ。提案などと緩い言い方をしているが、宣旨でないだけでほぼほぼ命令である。
三の君は、左大臣家の姫君だ。身分の高い相手と結婚するのは普通のことだが、一方で彼女は病弱で異性にも興味がなく、父もほぼ諦めていたはず。左大臣家からは帝に大君が、東宮に中君が既に入内しているので父の権力は絶大だ。お姉様方が皇子を産めば、いよいよ盤石になる。そんな父が、自分から帝に働きかけたとは思えない。
では、なぜ突然こんなことが起きたの?
帝が、自身の考えで突然そのようなことを言うだろうか。あり得ない。誰かの口添えがあったとしか考えられない。
「お父様、一体、どういうことですの?」
「儂にも分からぬ。上様には、そなたはまだ病み上がりである旨と、そのような状態では兵部卿宮様にも失礼じゃとお伝え申し上げたのだが、では病が完全に治った後に結婚させてはどうかとおっしゃられての」
「で、ですが……兵部卿宮様はどのように? 上様が思いつきでおっしゃったのでございますか?」
「いや、兵部卿宮様はそなたをことのほか気に入っておられるとのことじゃ。先方よりこの結婚を願い出ておられると」
なんで!?
帝の二つ下、腹違いの弟が東宮で、その六つ下の同母の弟宮が兵部卿宮である。私は、この親王、兵部卿宮に気に入られているそうなのだが、さっぱり意味が分からない。
鷹衛さんは、よほど私のことを美化して宮に話したのか。出会い方なんてお転婆どころではないぞ、なにをどうすればそうなるのだ。
「お父様、その兵部卿宮様ですが、先ほどお文をいただきましたの」
「なんと!! 今すぐに返歌しなさい、今すぐにじゃ!」
兵部卿宮がお相手となると、父だって文句はない。異論を唱えるどころか、むしろ帝のお墨付きだ。
決して失礼な返歌は詠んでくれるなと私に圧力をかけているのは、この縁談に父も賛成しているからなのだろう。
考えてみれば、それもそうだ。結婚できないなら尼にさせるしかないと将来を嘆いていた末娘に、これ以上ない縁談が舞い込んできたのだから。しかも、兵部卿宮にはまだ北の方も愛妾もいないはず。となると、私は正妻ポジションということか。宰相中将に比べたら、月とスッポンくらい違う。
大変なことになった。
もう三の君の身体を返すとか、そんなことを言っている場合ではない。
このままでは、三の君の意志を無視して、彼女が知らないうちに結婚させられてしまう。
左大臣家の姫君なのだから、政治的な意味での結婚は彼女もどこかで覚悟はしていたかもしれない。事実、姉君二人がそうなのだから。それでも、そんな政略結婚は、「私」が三の君の中にいる今じゃ困るのだ。
もし三の君を現世に残るよう説得できても、勝手に結婚していた事実を知ったら「やっぱり私極楽浄土へ行きます」といいかねない。
脳内大混乱の中、「都一の花などほめ過ぎです」とイエスともノーとも言えない返歌をなんとかしたため、思わず心の中で叫んだ。
もう、もう……なんでこうなるの?
次から次へと……誰か助けてよ―――!!
これまで後書きに注釈を記載していましたが、少し前の章から、注釈とルビを一緒にしています(こちらの方が読みやすいかと思いまして…)
ようやく恋愛の「れ」の字くらいが始まりました。
続きはまた明日ですm(_ _)m
お付き合いありがとうございました。




