第一話
令和○年、3月――
「ほら、三条さん。せっかくの機会なんだから、よく見ておくといいですよ」
「はい」
教授の言葉に促されて、整然と並べられた冊子に目をやった。
紙でできただけのそれはひどく軽いもののはずなのに、ずしりとした存在感を放っている。これが歴史の重みというものか。
古い、という言葉ではもう足りないほどの昔の、そう、千年以上も前に書かれたという物語――『夜半の月』。
その写本の一つが、今、自分の目の前にある。
じわりと沸き立つ興奮を鎮めようと努めながら、一方で、私は確かに感動に打ち震えていた。
『夜半の月』――
全三十帖から成ると言われている、平安時代の長編物語。
言われている、などと曖昧な言い方をするのは、現代まで残らなかった帖があるという説もあるからだ。帖と帖の間で話が飛んでいたり、最終帖の後に続く物語があるという見方もあるが、現在までに確かに見つかっているのは、三十帖。
作者は未だ不明。女性目線で書かれていることから女性作者説が一般的だが定かではなく、その性別でさえ、現代に至っても解明できていない謎の多い作品だ。
内容とはいうと、一言で恋愛小説。これに尽きる。
時は平安、左大臣家の「物の怪姫」と呼ばれる主人公が、「尼になる!」などと髪を切ろうと大騒ぎするところから物語は始まる。やがて(諸々あって)親王に見初められて結婚するまでを描いた前篇『夢の通ひ路篇』と、幸せな結婚生活のさなか、数々の陰謀に巻き込まれつつも、親王のただ一人の正妻として、これまたひたすら愛される後篇『燃ゆるおもひ篇』から成る。
「物の怪姫」だけに、本物の物の怪なり生霊なりが現れたり、はたまた天狗が現れたり、登場人物も実にバラエティに富んでいる。愛と憎しみが渦巻く、とはいえなかなかに突っ込みどころの多いコメディタッチな古文で、現代語訳なんかは思わずプッと笑ってしまいそうになる場面も多い。
奥ゆかしさが大切にされた平安時代に、左大臣家の姫という立場でありながら、初っ端から出家騒ぎを起こした主人公の性格もぶっ飛んでいるが、そんな主人公を愛してやまない親王も物語のヒーローだけに格好よく描かれていて、それがまた萌えポイントだったりするのだ。
姫が親王と結婚して以降は、甘い。とにかく甘い。まあ、いわゆる二人のいちゃいちゃが延々と続くのもこの物語の特徴でもある。ちなみに最後は、幸せになりましたとさ、めでたしめでたし、で終わる王道の恋物語だ。
古典の世界では、そんな、ある意味異色の存在とも言える『夜半の月』だが、残念ながら原本はすでに消失したと考えられ、現代に内容を伝えているのは写本だけ。それでも、最古のものなんかは当然価値も高いし、一部は有名な博物館に展示されていたりする。一番有名なものは、確か、私の記憶が正しければ重要文化財に指定されていたはずだ。
私が今目にしているこの写本も、それなりに古い、それこそ何百年も前に書かれたであろうことは間違いなかった。
変色しきった表紙は薄汚れてはいるが、戦禍を免れ、ばらばらになることもなく、冊子という本来の形で残ったというだけでも十分奇跡的なことだ。虫食いや破れがあるのは残念だが、この時代のものなので当然ではある。
「三条さん、そっちの箱にもあるから出してください」
「は、はい」
教授に声をかけられてハッとした。
そうだ、今はこの作業に集中しなければ。
埃をかぶった木箱の中には、『夜半の月』が何冊か納められているようだった。
それを一つ一つ、丁寧に取り出しては机の上に並べていく。
この貴重かつ幸運な機会を私が手にしたのは、半年も前のことだった。
「京都の書庫を調査するから君も来ないか」――そう教授に誘われたのは、学会発表も無事終わり、気の抜けた宴席でのことだった。
「書庫」と言っても、文字通りただの本の倉庫というわけではない。先祖代々何百年も受け継がれてきた、京都の歴史ある名家の蔵なのだという。一般の人間なら絶対に立ち入ることのできない場所。教授はその蔵へ調査で入る申請をしたらしい。そして、ゼミの学生である私にも声をかけてくれたのだ。
更に聞けば、その書庫には『夜半の月』の写本もあるらしいというではないか。しかも、奇跡的に三十帖すべて揃っているという夢のような話だ。断るはずもなく、大きく頷いた。
小学生の時に古典に目覚め、中・高とそのまま古典愛を胸に成長した私は、大学でも当然のように文学部に進み古典文学を専攻した。現在は院の一回生、研究対象は言うまでもないが、もちろん、『夜半の月』。
だって、大好きなのだ。
はじめて『夜半の月』を読んだのは、十年以上も前。
現代語訳された児童向けのロイヤルラブストーリーの衝撃を侮ることなかれ。それまでの古典=難しい、古いなんていうイメージをすべて吹き飛ばすほどの面白さだった。古典の世界へようこそ!!なんて声が頭の中に響いた気がした(多分、幻聴だけど)。
周りの友達がみんな漫画やアイドル、オシャレに夢中だった頃、ひたすら本の虫と化して学校の図書館の本を読破した私は、今度はもっと本の多い市の図書館に通い、その時代のものをひたすら読みふけった。現代語訳に飽きると原文にも手を出した。また違った世界にいたく感激した。古典ってなんて面白いんだろう!!
お小遣いの少ない学生にとって、図書館とはこれほどありがたいものかと思ったものだ。福沢諭吉が何枚も必要なお高い専門書まで揃っていて、しかもタダで読めるというのだから、私にとってはパラダイスのような場所だった。
一時期はまりすぎて、古文特有の「かな」や「けり」を語尾につけて会話するという、若干恥ずかしい黒歴史ができたのも致し方なし。周囲に「古文オタク」と罵られようと気にしなかった。基本私はマイペースである。論文の評価は気にするが、他人からの印象は一切気にしない。古文オタクで結構、むしろ私にとっては名誉のあだ名よ。そういうメンタルの持ち主なので、古典道を貫いた。古典が好きで何が悪い。
そうして棚の端から端まで一通り読んで、最後にもう一度スタート地点に戻って気付いた。
私は物語が好きなのだ、と。それも甘々のいちゃいちゃがある、『夜半の月』が一番好きなのだ、と。
それに『夜半の月』は私の恋愛バイブルでもある。男女の駆け引きというものはここから学んだように思う(※実践したことはない)。そんな実益と趣味を兼ねた本が大好きなのは、考えてみれば当然のことでもあった。一周回って解ったというやつだ。
古典愛と『夜半の月』について語ると長くなるので、ひとまず割愛する。
話を戻して――
あの夜、「写本を実際に見るのは、いい経験になるから」と教授は言ってくれた。
私は古書鑑定の専門ではないのだけれど、『夜半の月』の本物に触れる機会なんてそうそうあるものではない。一介の学生に過ぎない私を、教授クラスの申請が必要な書庫に立ち入らせてもらえるだなんて……!
『夜半の月』に並々ならぬ愛情を持った私をこの場に呼んでくれたのは、それを知る教授の厚意に他ならなかった。
とにかく、そういうわけで今に至るのだが、整理といっても言葉通り古書をただ整頓するわけではなく、一つ一つの保存状態を確認し内容精査を含めた作業をする。以前の調査では分からなかったことが、研究が進み、今回は分かったりするのだ。それが世紀の大発見に繋がることも、ごく稀にあるのだけれど。
作品内容についてなら一週間でも一ヶ月でも夜通し語れる私も、今はひたすら邪魔にならないように、足を引っ張らないようにと他の調査メンバーに気を遣いながら、ただ黙々と作業に徹していた。
専門家というのは皆プライドと情熱を持って仕事をしている。こういう場所では絶対に出しゃばらず、知ったかぶりをせず、というのが鉄則である。付け加えれば、研究者なんてみんな変わり者や異様なこだわりを持った人ばかりだ。何が地雷かなんてわからない。そのテリトリーを土足で踏み荒らして、悪い意味で目をつけられたくないというのが私の本音だ。
それに、何より私を信頼してこの場に呼んでくれた教授の顔に泥を塗りたくないというのもあった。チームワークが大切な調査という場で勝手な行動は慎むのは当たり前なのだけれど、下手なことをして二度と調査に呼ばれなくなる、なんてことだけは避けたい。
教授の指示通り、そっと、慎重に冊子を机に並べること、数十回。
これで終わりですと教授に声をかけようとして、出かかった声を飲み込んだ。
おかしい。箱の中に、もう一冊ある。
あれ、なんで? あれ? あれ??
机の上には『夜半の月』写本が三十帖、二度数えなおしてみたけれど確かに三十帖あった。
では、この箱に残ったもう一冊は……?
手にしてみたが、他のものと外観は全く一緒だ。
同じように古びて汚れた表紙は、もとの色が分からないほど黄ばんでいる。中身を開いてみた――が、白紙だった。
いけない。
勝手に触れることはご法度だった。冷や汗が流れた。自分の軽率な行動で、古書を傷めることなどあってはならない。
急いで元に戻して、同時に溜息が漏れた。
知らず期待していた自分に呆れた。まさか失われた帖の一つではないかと一瞬でも考えてしまった。
こんなところにあるはずもないだろうに。いや、何か発見があることを期待して調査するのだけど……
そもそもこの蔵は何度も調査していると聞いている。今更新しい帖が出る可能性は低い。たとえ今回がニ十年ぶりの調査だったとしても。
だけど、そしたらこれは何?
外観は一緒なのだから、『夜半の月』の手引書? 解説書の類?
まさか、そんなの聞いたこともない。他の古書が紛れた? ……にしては、見た目が一緒すぎる。
疑問符で頭がいっぱいになった私は、素直に教授を呼んだ。
いくら古典文学を専攻しているとはいえ、まだまだ知識不足であることは否めない。考えたって答えが出る気がしなかった。ここは経験も知識も豊富な教授に声をかけるのが正解だといえる。
「先生、一冊多いようなんですが」
「多い?どういうことだね?」
説明するより見てもらった方が早い。私は白紙の一冊を教授に指差した。
「三十帖はあちらに。これは残った一冊です」
どれ、と慎重に紙をめくった教授の眉間の皺が少しずつ深くなっていく。
手元にあったこれまでの調査資料を何やら確かめるようにめくっては読んでを繰り返し、「うーん、何だこれは……」と首を傾げたかと思えば「いや、しかしそうだと仮定するならば……」などと呟いている。
異変に気が付いた調査メンバーの一人が近づいてきて、二言、三言、教授と小声で会話をすると、同じように訝しげに眉をひそめた。
何か想定外のことが起きたらしい。ただならぬ空気を感じる。
二人でああでもない、こうでもない、とまた言い合うと、やがて教授は私に問いかけた。
「これは本当に箱の中にあったのかね?」
「え、ええ、一番下に。他のものと同じようにありましたが」
「……まだはっきりとは言えない――が、三条さん、もしかすると」
「?」
「これは、『夜半の月』の一冊かもしれん」
「ああ、そうなんで……はっ?」
『夜半の月』の一冊??
まさか。それは話が飛躍しすぎではないか。いや、私も一瞬考えたけれど。
「そうだとすれば、三十帖完結前提で語られてきたこれまでの研究がすべて引っくり返る、大変なことだ。いや、しっかりと吟味はしなくてはならないが」
そうと決まったわけでもないのに、隣でこくこくと頷く調査メンバーが目を輝かせている。
尚早ではあるが、と、教授は根拠となる理由をいくつか挙げているようだが、あまりの衝撃に私の頭が追い付かない。
その間に、メンバーが一人、二人と集まってきて教授を囲み討論している。高揚した声が次々に飛び交った。
失われた巻?
――ありえない。
だってその中身は白紙だったはずだ。本当にそうなら、物語の続きが描かれているはずだ。
いや、しかし私が中身を見たのは一瞬のことだったし、すべての紙を確認したわけじゃない。何か書いてあったのだろうか。
もしくは、私の目には見えなかったものが、教授の目には見えたのかもしれない。だとしたら、それは一体何なのだろう。ああ、写本についてもっと勉強しておけばよかった。知識不足だなんて理由にならない。
研究の世界はそれほど甘くはない。既に先人が調査したものを何度も検証し、膨大な数の先行研究の論文に目を通す。そして、些細な自分の発見や考察が、もしかしたら研究対象の解明や新しい読解に繋がるのではないか、と淡い期待を抱きながら、自らも論文を書く。
その内容考察ばかりに重きをおいて、写本研究がおろそかになりつつあったのは、私の完全なる反省点だ。今更嘆いても遅いのだけど。
教授の言う通り、あれが本当に――、本当に『夜半の月』の欠巻ならば大変どころの騒ぎではない。
歴史を変える代物だ。
私はずっと考えていたことがある。
第一帖は本当に始まりの帖なのか、と。
姫が髪を切る場面の、前のシーンはないのか。そこにいたるまでの理由は?? だってどこにも書いていないのだ。研究者の諸説はあくまで仮説であるので想像でしかない。本当は作者はどう書いていたか。
いや、それよりも前篇と後篇の間の空白の数年間はどこへいったのだろう。
帖の途中で、度々ぶつ切れで終わっているのはなぜ?
その答えの一つが、あの白紙の冊子だとしたら?
ああ、何これ!! どういうこと!?
◇◇◇
「欠巻だったのかな……」
口に出したつもりはなかったが言葉に出ていたらしい、隣にいた女性が不審気にこちらを見ていた。
気まずさに早く歩き出したいと思ったが、信号はまだ赤だ。
驚かせて申し訳ないとは思ったが、害のない独り言ぐらい許してほしい。こっちは今それどころじゃないのだ。
数百年間気付かずにいた発見があるかもしれない。とてもじゃないけど平常心ではいられない。
結果だけ言えば、あの冊子の正体は不明のまま、今日の調査は終了になった。
また明日、仕切り直しということになったのだ。
その後、会議と称された飲み会が設けられたが、当然のごとく、あの白紙の一冊についてはおおいに盛り上がった。教授が頬を緩ませて、「歴史が変わる瞬間に立ち会っているのかもしれない」と夢見心地に話していたのは、酔いが回っているせいだけではない。研究者ならだれでもきっと、興奮冷めやらぬ一日になったことは確かだった。
教授と一部の調査メンバーは第二次会議(といえば聞こえはいいが、ただの酒呑みの二次会である)に出席しているが、私はお暇して一足先に帰ることにした。本音を言えば自分もその場に残って可能性を語りたかったのだけれど、悲しいかな、私はお酒は全く飲めないし、朝もめっぽう弱い。明日の調査に支障があっても困るので、後ろ髪をひかれる思いで宿泊予定のホテルへ向かうことにした。
とはいえ、心ここにあらず、というのはこういうことなのだろうなと、我ながら思う。
次々に浮かんでは消える期待と疑問が、頭の中をぐるぐると回っている。
ふと目にした夜空に、満月が浮かんでいた。
『夜半の月』の作者も、こんな風に月を眺めたのだろうか。
そう思うと、とても不思議な気持ちだった。
千年も前に生きた人と自分が同じものを見ているだなんて。
信号は青に変わっていた。あの女性もいつの間にか隣から消えている。
ホテルに向かおうと歩きだした時だった。
突如、白い――目を開けていられないほどのまばゆい光が私を包み込んだ。