第六話 其の二
雛菊の手前、顔には出さず心の中で思い切り叫んだ。
計画は嘘じゃなかったのだ。
「とめることなどできません」なんて恋歌の常套句。だけど先に夜這い計画を聞いているこちらとしては、「やはり想いがとめられなくて忍んで来てしまいました」なんて言いながら夜中に侵入してくるパターンが目に浮かんでしまう。
宰相中将はこんな文のやり取りだけで今夜を終わらせようなどとは露ほどにも思っていないだろう。指一本も触れさせてたまるか。
なにが「飛んでいきそう」だ。
魂飛ばしたいのは私の方! 元の世界に帰りたいのに!
もう来るなら来い、返り討ちにしてやる。
「雛菊、代筆を。病に臥せってからは小梅に頼んでいたのだけど、今夜はあなたにお願いするわね」
「は、はい、かしこまりました」
「硯と筆はそこにあるわ」
「は、は、はいぃ……」
だ、だめだ、これは。
そんな振り子時計みたいになった腕で、どうやって文字を書くつもりなのか。筆が紙を滑る前に、ぼたりと垂れた墨の染みができそうだ。これなら、私の方がいっそまだマシな出来になるのではないか。
「小梅が寝込んだ今、私にはあなただけが頼りなの。雛菊、そんなに緊張しないで。私を助けてくれないかしら」
「姫様を……わたくしが助けるのでございますか?」
「ええ、そうよ。それに何か失敗したとしても、私は何も咎めたりしないわ。今夜のことは私とあなただけの秘密よ。あなたに不手際があったとしても私は目を瞑るし、責任を取らなくてはいけない事態になったら私がそうするわ」
「で、ですが、それでは姫様のご評判が……左大臣家の名に傷がつきます」
「ああ、そんなことを気にしていたの? ねえ、考えてもみて? 私は物の怪に取り憑かれた物の怪姫と呼ばれているのよ、これ以下の評判なんてないでしょう。もうすでに一番下よ」
宮中での儚い姫君説を雛菊はおそらく知らないと思われたので、あえて言わなかった。別に嘘をついているわけでもなし、余計な情報はこの際いいだろう。それが効を奏したのか、不安げに揺れるばかりだった雛菊の瞳に光が宿った。手の震えもいつの間にか止まっているようだ。
よし、これならなんとかいける。
「わ、わかりました! わたくし、姫様のために精いっぱいお尽くしいたます!」
「心強いわ、ありがとう。それでは、返歌をお願い。ええと、内容は……」
“生憎、誰かとお間違えのようですね
貴方様のお名前のように、露のように儚い一夜に涙した女性のなんと多いことでしょうか
そのお言葉を私が信じられるはずもございません“
「あのぅ……姫様は、宰相中将様がお嫌いなのですか?」
遠慮がちにおずおずと聞かれたので、私は迷わず頷いた。
答えがイエス一択の問いかけである。
「ええ、もちろんよ。絶対に嫌なの、お断りなのよ」
「そうだったのですね! わたくし、頑張ります! では、届けてまいります!」
何やら力強く拳を握り締めて、勢いよく出て行った雛菊だったのだが……
また数十分後、しょんぼりとした様子で現れた。
手には何か植物に結わえられた文がある。おそらく、文の受け取り自体を拒否しようとしたのだが、文使いに押し切られてしまったのだろう。あの勢いはどこへ消えたのか、凹んでいる様子にこんな状況なのに思わず笑みがこぼれそうになった。笑っては余計可哀そうなので、慌てて頬を引き締める。
「……宰相中将様からお文です。姫様、申し訳ありません……」
「謝らないで。分かっているわ、雛菊。精一杯頑張ってくれたのよね」
「ですが……せっかく姫様がわたくしを頼りにして下さったというのに、わたくしは何のお役にも立てておりません……」
「そんなことないわよ、あなたが一生懸命なのを見ていると私も勇気をもらえるもの。だからそんな顔をするのはおやめなさい」
「姫様はお優しいのですね……わ、わたくし……」
「えっ? な、泣かないで! だからその、ええと、そう、文は? そうよ、文よ! 中将様はなんとおっしゃっているの? また中身を読んでくれないかしら」
「は、はいっ」
“これほどまでに愛しく思う貴女を、他の誰と間違えるというのでしょうか
私の気持ちを知っていながら、どうかそのような意地悪をおっしゃらないでください
この恋の苦しさに耐え続けるよりも、きっと死んでしまったほうが楽なのに“
「はぁぁ……」
昼間の兄のものと同じくらい、大きなため息が漏れた。
意地悪とかもう、そういうレベルではないのだ。嫌いなのだ。はっきり言って嫌いなのだ。むしろそう言っているのだ。なのになぜこうも伝わらない? これは恋の駆け引きなんかじゃないんだと、どう説明すれば分かってもらえるのか。貴方の想い人は、貴方自体を心底嫌がってるのだと、どうか理解していただけないものだろうか。
大体、宰相中将なんか、絶対恋で死ぬタイプじゃないだろう。今まで女性に何度同じことを語ったのか、そんなんじゃ心臓がいくつあっても足りないぞと言いたい。
この時代の和歌には、すぐ、思い悩んで死ぬだの恋患って死ぬだのと詠まれる。それが普通のことでもあったので、宰相中将の文もまあ一般的な恋文の一つといえるが、現代に生きる私からしたら、どうも女々しく感じられてならない。いちいち死ぬとか言うんじゃない。
添えられていた松の小枝は、まさか、この邸の松を折ったのか。雛菊がこの文を持ってきた時間から考えても、やはり宰相中将が近くにいることは間違いない。
松に「待つ」を掛けているのだろう。曰く、「貴女のことを長い間ずっと待っています」と。
「雛菊、返歌をお願い」
とにかく今は返事をして時間を稼ぎつつ、その間に対策を考えなくては。
文のやり取りだけで、「やはり無理なのか」と宰相の中将が悟って帰ってくれるなら万々歳だが、相手はそんな輩ではない。
押し入られてしまっては私の分が悪すぎる。女性が男性に力で適わないのは当然だが、加えて私は病み上がりだ。こんな細い身体で成人男子を押しのけることなど無理に等しい。今の私の本気の拒否は、向こうにしたら場を盛り上げるだけの抵抗に映るかもしれない。最悪だ。
その最悪のパターンは簡単に思い浮かぶのに、気持ちばかりが焦って対処方法が見当たらない。こうしているうちにも宰相中将は確実に近づいてきているはず。その足を止めるためにも、今は返事をしなくては。
“まあ、意地悪とはどのようなことなのでしょう
それほど辛い恋なら今すぐおやめになってはいかがですか
慰めて下さる女性は沢山いらっしゃるのでしょう、そちらへ今すぐお帰りになって “
ポキリ、と松の枝を中央から折って文へ差し、雛菊へ渡した。
「私は貴方を待っていない」と「貴方も私を待っても無駄ですよ」という二つの意味を込めて。送った松を折って返すなんて、中々のストレートパンチだと思うのだけど、さて、どう出てくるか。
これまでの反応を見る限りでは引いてくれないだろうな……
しつこいと余計嫌われるぞと面と向かって言ってやりたい気もするが、一応今の私は左大臣家の三の君。高貴な立場にある姫なので、現実的にそんなことはできないのが悲しい。家族でさえ几帳越しに会い、檜扇で顔を隠さなくてはいけないのだ。ハードルが高すぎる。
やはり具体的な対策は一つも見つからないまま、あれやこれやと考えていたら、また雛菊が文を携えてきた。
可哀そうに、やはり同じく役に立てなかったのだと凹んでいる。気にしなくていいのに。
だって、こんなにはっきりと拒絶している私でさえ宰相中将を退けられず、正直ほとんどお手上げ状態なのだ。小梅ならまだしも、新人女房の雛菊にどうこうできる問題ではそもそもない。私のことを思ってのことなのだろうけど、こうも毎回落ち込まれるとこちらも申し訳なくなってくる。むしろ、こんな夜に私付きになっちゃってごめんなさい。女房の仕事が嫌になったり、自分に自信が持てなくなったりしなきゃいいのだけど。
仕えてくれたのはたった数時間程度だけど雛菊は素直でいい子のようだし、経験はこれからいくらでも積めるので、辞められては困る。何せ我が左大臣家は今、私の物の怪騒ぎと父母の心労による体調不良が重なったことで、人手不足気味なのだから。
「中将様のお文よね、読んでちょうだい」
「……はい。では、失礼いたします」
“どこへ帰るというのでしょう、貴女以外の元へなど戻れません
たった一度でもお会いになっていただければ、私のこの想いが真実であるとお分かりいただけるはずです
どうか一目でもそのお姿を私にお見せ下さい“
「……参ったわ……」
時代とは違うとはいえ、同じ日本人なのだろうか……
言葉が通じないのか、ただのバカなのか、バカでポジティブなだけなのか。
……そのどれもか。
古典文学を愛し数十年。読んだ和歌は何百とあるが、ここまで引き下がらない男へ対して、女性側からお断りした返歌の例はあっただろうか。脳内の記憶倉庫の和歌を超スピードで探すが、一向に見当たらない。
何と書けばいいの、もう出し尽くした気がする。あとは同じようなことを繰り返し連ねる他、手だてがない。
雛菊にまた代筆をお願いしようとした時、何やら騒がしい音がして――あっという間だった。
ザッと音を立てて簾が上がる。
見えた黒い人影に、瞬時に理解した。
宰相中将が来たのだ。
「な、なりませぬっ……」
よくぞここでその一言を言えた、と、雛菊に感心している場合ではない。
とっさに檜扇を開いて顔を隠した。心臓が早鐘のように鳴る。それがうるさいほど身体中に響いて、冷や汗が噴き出した。
ああ、最悪が目の前に迫ってきている。
本当に強行突破してきたんだ……なんてこと!
「姫、突然の無礼をお許しください」
やはりそうだ。彼は宰相中将だ。
自信に満ちたその声は堂々としていた。とても許しを請うものではない。
今、彼と私を隔てているものは几帳がただ一つだけだ。なんと頼りない。これを倒されでもしたら万事休す。処女喪失まっしぐらだ。
きっと宰相中将は、三首目の文を書いたときには、もうこの邸の前にいたのだろう。私の返事など当てにせず、初めからこうするつもりだったに違いない。時間稼ぎをしていたのは、向こうも同じだったのか。
「あのような文のやり取りだけでは私の真意は伝わりません。どうか、貴方の声を聞かせて下さいませんか」
横にいる雛菊は真っ青な顔でガタガタと震えている。貴族の姫君という私の立場からすれば、直接男性と話すことはマナー違反になるのだが、彼女はもう会話の取り次ぎもできないだろう。それを無理やりさせる気にもならない。下手をしたら小梅の二の舞だ。
やるしかない。そう、私が。
「無礼と思うのならばお帰り下さいませ」
声が震えないように、冷静を装った。けして相手に私の心の内を悟られてはならない。――本当は、怖いだなんて。
だってそうでしょう?見ず知らずの男に犯される手前まできているのだ。恐ろしい以外の何ものでもない。ここはもう大声で小梅を呼ぶべきか。
「ああ、姫……貴女なのですね」