序章
――なんとしてでも、今夜をやり過ごさなくては。
檜扇を握りしめる手に、自然と力がこもる。
これからの数時間に、今後の私の人生すべてがかかっていると言っても過言ではない。
万が一にも失敗は許されないのだ。
几帳に囲まれた狭い空間の中で、並々ならぬ決意を胸に、私は一人頷いた。
夕刻よりもいっそう冷えた空気と、聞こえてくる虫の涼しげな鳴き声が、その時が来るのが近いことを物語っている。
もう、あと一、二時間で、かの色好みと名高い男はこの邸を訪れるのだろう。
そうして、「貴方が恋しい」だの「一目惚れなのです」などと決まり文句を並べ、首尾よく私の貞操をいただいた後は、さっさと自分の邸へ帰り、ここへ通うことは二度とない。
彼の『抱いた女コレクション』の一人に私が加わったのだという噂が、近日中に広がるだろうことは目に見えている。
なんて最悪な未来。
簡単に想像できて、ゾッとする。
背筋に寒気が走って思わず身を震わせた。
絶対に処女は守るんだから。
それにしても、この身を嘆かずにはいられない。
ああもう、本当に……
本当に、どうしてこんなことになったんだろう。
鏡を覗けば、絵巻物から出てきたかのような美しい女性が、今にも泣き出しそうな顔で映っている。
見慣れない長い長い黒髪と、唇に赤く引かれた紅。つるりとした白い肌には、灯りのゆらめきが妖しく影を落とす。
たきしめられた香のかおる、幾重にも重なった着物は、まるで私をここへ繋ぎとめる重い鎖のよう。
置かれた調度品の一つ一つはどれも立派で、とても価値が高いことは分かるけれど、馴染み深いものは何一つとしてない。
当然だ。
だってここは、私の部屋じゃない。
ここは、私のいる世界じゃないんだから。
心の叫びは、きっと誰にも届かない。
言葉にしたとしても、誰が信じる?
平安時代と呼ばれる時間の狭間に、「私」が迷い込んでしまっただなんて。