恵まれた生活をありがとう
ワンライは初めてです。
これでも友達は多い方だ。幼少期には習い事の塾やピアノで放課後のサッカーにも加われない学校生活だったが、高校にはいる頃には共通の趣味の友人や、気のいいやつとつるんで青春を謳歌している。なにより最初に声をかけてくれた後ろの席の美少女、佐々木さんには感謝しかない。
「初めまして、よろしくね」
眼鏡ごしに柔らかく目を細めて微笑む彼女は、すぐに学校生活の楽しみの一つになった。ボブにした丸っこい髪型同様に丸っこくて人を刺激しない性格の彼女の周りには、男女問わずに友達ができた。それからは友達の友達、といった感じで俺もクラスの皆と馴染んで、世間話やら宿題の写し(苦手な古典はやる気にならないのだ)で騒がしい日々を過ごしている。
一つ、こんなに満ち足りた学校生活にケチをつけるとしたら、佐々木さんが俺の前の席であったらよかったのに、ということだ。後ろの彼女を視界に入れるには振り向かなければならないわけで、授業中にそんなことをしていれば何事かと彼女を不思議がらせてしまう。そんな顔も見てみたいが。
と、そんなことを考えている自分の頬をつねる。今は板書ばかりの世界史の授業。暗記はテスト前にまとめてしてしまうほうなので、授業中はつい気が抜けて、とりとめのないことばかり考えてしまう。一息ついて教室を見回す。
皆も退屈なのかその表情や背中は心ここにあらずといった感じで、教科書を立てて、寝ている者もいる。休み時間の生き生きした級友と何故か同じに思えず、高校入試の、知り合いのいない試験会場を思い出した。
ザリ、と砂をかくのに似た異音がすぐ近くで聞こえた。ここは一階だが、グラウンドには人影もなく音の出所に戸惑う。室内にいて耳に砂が入るわけでもないし。構わず滞っていた板書をしようとペンを手にしたとき、今度は頭を思い切り殴られた。何か、硬い棒のような感触だった。机に叩きつけられ、勢い余ってノートごと床に倒れこむ。
頭のなかに痛みが反響しながらも、後ろを振り向くとそこには何もなかった。何も。
白紙のノートのように何も書き込まれていない空間。脳みそがきゅうきゅう絞られているような気がして、たまらず目元を押さえる。
「どうしたの!?」
佐々木さんの悲鳴のような声に我にかえる。先生ふくめ、クラスの皆がこっちに驚きと気遣いの視線を向けていた。佐々木さんはイスから降りて背中をゆっくりとさすってくれる。気分が悪くなったと思ってくれているのだろう。しばらくしたが視界は二重にぶれて、なかなか直ってくれなかった。
「先生、坂井くんが体調不良みたいです」
何も言えない俺の様子を察して、保健室に行く許可までとってくれた。先生も突然のことに驚いているらしく、ああそうだな、とただうなずいていた。保健委員が付き添いに呼ばれたが、俺はそれを断って一人で教室を出た。申し訳なかったし、変なものをみて気が動転していた。
静かな廊下を歩きながら、さっきの真っ白な光景を思い出す。貧血、とかではないと思う。目の調子がおかしいだけならば、砂漠のような荒涼としたこの感覚は何だというのだろう。広く果てのない場所で独りでいる錯覚に、身震いする。結局、保健室についてもその震えは止まらなかった。
次の休み時間には友人に心配されたが、すぐにいつもどおりにくだらないことで笑いあって、いつのまにか放課後になっていた。ただし佐々木さんの様子が違っていた。弓道部の練習がない日は玄関まで他のやつらと駄弁りつつ歩くのだが、今日は一言もしゃべらなかった。相づちとか笑ったりとか、反応はあるのに、自分から話したりはしない。そして、さよならと言っているその目が、どうしてか怖かった。
家に帰ってもそのことがずっと頭から離れず、嫌われてしまったかとあれこれ考えていた。そのせいでインターホンが鳴ったときも佐々木さんが会いに来てくれたのかと、かなり都合のいいことを妄想してしまっていた。母がでないのかインターホンは何度も繰り返す。カメラで確認すると宅配っぽい制服の女性だった。
「はーい」
「坂井さんですねこんにちは急ですがここからデータ移送を行っていただきます」
どこも途切れることなく何か言われる。は?
「ここはもうすぐ壊れてしまいますあなた様のデータが傷つく前に移送してください一時データは本体にて保護されます」
「いや、なになになに。知らないですよ」
何かの勧誘? 急いで扉を閉める。相手は細身の女性なので、難なく押し退けて鍵をかけることに成功した。大して動いていないのに汗をかいてきた。嫌な、あの、昼間と同じ感覚。
「坂井様はサービス期間内のためほかのパックをご利用することが可能です」
後ろ、リビングへ通じる扉の前に女は立っていた。手にはタブレット端末。
「な、なんで」
「このたびは電脳空間のご利用をありがとうございます思いがけないエラーの発生を防ぐため直ちに本体へ移動してもらいます」
世界から色が消えていく。影と線。白と黒。
「本体と一時記憶部の同期が行われますが再度同期を切ることは可能です電脳空間の再建に取りかかりますので暫しおまちください」
そして、白も黒も、消えた。
「しょうちゃん、大丈夫?」
優しく呼び掛けてくれるのは佐々木さんではなかった。前に会ったときより白髪も皺も増えた母さん。病室の外が騒がしい。
『犯罪者が幸せになって、どうしてうちの娘はああなのよ! 退きなさいっ、退け!!』
母が俺の手をとる。手首には金のアクセサリーをしていて、爪も手入れが行き届いている。いつも俺の欲しいものをくれた母。無尽蔵にお金を稼いでくれる海外の父。俺の幸せは保証書付だった。
でも佐々木さんは手には入らなかった。
あの微笑みは。
あの優しい声は。
全部勘違いだったらしい。
「ごめんね。目を離してるすきにあの人が入り込んだみたいで、機械が故障しちゃったみたいなの」
「うん。いいよ」
目覚めても世界に色はなかった。母と話すのもうんざりする。俺が刺した佐々木さんがどうなったのかは知らない。全部母が何とかしてくれた。俺の青春もお金で買ってくれた。だから、母ももう要らない。ここで人と話すのはとても辛くて疲れる。
「母さん、今度は違う電脳空間を試したいな」
欲しい現実がお金で買えるなんて、便利な世の中だな。カタログをめくる音が外の狂騒を打ち消した。