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色のない街  作者: 宮崎 白子
1/4

始まりと1回目

目も眩むような青の中で、花びらがひらひらと舞っていた。その桃色がよく映える空には、水に溶いた白い絵の具をつけたようにうっすらと雲が張り付いている。


1年生の時は新しいことばかりで、どこか当時の私には場違いなところのように感じていたこの雛菊(ひなぎく)中学校は、中3になった今では、使い古した文房具のようにボロボロで、退屈で、居心地が良く、愛おしく、手放し難い。


私、朝倉(あさくら) 巴菜(はな)はゆったりと結んだ髪の毛先を弄りながら、赤くなった鼻をまたズズッとすすった。


花が舞っている。

薄桃色の花だ。


あいつは、桜を見下ろしてなにを思っているのだろうか。


そう思いながらも、ひんやりと冷たい窓枠に触れ、桟に入り込んだ花弁を手に取り、外へつまみ出した。多くの年月をかけて育ったのだろう逞しくてあせたような色をした幹は、目一杯に両手を広げて桃色を握った枝々を支える役割をしっかり果たしている。銀色の窓枠が下の景色の額縁のように見えた。視界がじわりと滲んで、慌てて私はごまかすように教室内に目を向ける。


先ほど3時間ほどの退屈で座りっぱなしだった式が終わり、そのまま教室に戻って来てまた椅子に座っているので少し腰が痛い。担任の先生達はまだ帰って来ず、生徒たちを静かに待機させるため、監視役の体育科の鬼教師が黒いスーツに身を包んで廊下に立っている。窓枠にもたれかかりながらお喋りな口を閉じ、考え込むように俯いているのが視界に入った。いつもなら、そんなこと気にも留めずにヒソヒソと話し出す男子や、こんな時のために持って来たメモ帳を使って手紙を投げ渡しする女子はどこにもおらず、張り詰めたような雰囲気が、扉も窓も開いているはずの教室から閉じ込められたように出て行かなかった。


それどころか、決まってみんな机を見つめて…、いや、ある人は黒板に貼ってある紙でできた花飾りを、ある人は天井に取り付けられた、埃を被らないようにビニール袋で簡単にカバーされた扇風機を、さっきまでの私と同じように外の風景を呆然と眺めている人も居た。


と、がたんっ、ずずっ、と滑りの悪い音がして、半開きになっていた扉が閉まった。みんなの視線がそちらに向かうのが分かった。もちろん、私の目も。入って来たのは、担任の山口(やまぐち)先生だ。キリッとしたまゆに、真っ黒く、少し癖がついてくるりとした髪。男の先生だが、優しくて女っぽくお茶目なところはうちのクラスだけではなく他の学年でも人気が高かった。うちは他のクラスよりも少しお騒がせな事件が多かったから苦労も沢山あっただろう、静かに真面目にしといてあげればよかったなぁ、なんて、今更になって思う。

そんな山口先生は面長で色白の顔を少し赤らめていた。特に目元が腫れたように赤く、ハッとして私はすぐに目をそらした。その表情に驚いた訳ではない。再確認させられているようで嫌だったのだ。大好きな先生の表情に。今日が最後なんだよ、と。


先生が入って来た途端に、又は、彼の表情をみた途端に、数人は声を殺して泣き出した。机の上に水玉模様を作る涙をみて、最近SNSで見かけた、“涙は血液である”という言葉を思い出した。それが本当なら、今日1日だけで一体何人の人が、どれだけ血を流したんだろうな。なんて場違いな考えが浮かぶ。


私はあの日、泣いてあげられなかったな。


私の席は一番後ろの左端。だから、左隣には誰も座っていなくて、私は右隣か前の人しか話ができる人が居ない。山口先生は細長い缶に番号を書き込んだ34本の割り箸を入れて、1人一本ずつ引き、黒板に書かれた引き当てた番号の場所に行くというシンプルなくじ引き式の席替えを行なっていた。この場所を引き立てたときは、友人達からぶーぶーと不満そうに羨ましがられて思わず笑ってしまったのを覚えている。でも、私はその席の位置よりも、隣にあいつがいるということが嬉しくて、席を移動させる際浮かれて閉めずに机に突っ込まれていた筆箱を盛大にぶちまけたのだったっけ。


花が咲いている。

白い花だ。

クラス内の皆の気持ちを汲み取っているのか、なにか他のどうでもいいことを考えているのか、うつむいて太陽の光を浴びている。


毎日朝と夕方、欠かさず水を組み替えてあげているが、だんだんと元気を無くしているのは事実だった。枯らしてしまったら、なんだかあいつのことを忘れてしまいそうなのが怖くて、家に帰っては花について調べ、学校に朝早く来てちまちまと小細工をしている私を見ても、友人はなにも言わず、一緒に花を眺めていてくれた。


そんな花の前に、窓から花びらが舞い込んで来た。桃色の花だ。桜だ。

教室の蛍光灯は仕事をしていない為、外から差し込んだ太陽の光が、私の右側の席にまでくっきりと届いており、桃色の衣装に身を包んだバレリーナを映えさせるスポットライトのように、優しく花たちを照らした。

桜は、俯いた花を励まそうとでもするかのように舞っていたが、くるくるとした動きは、段々と遅くなり、ふわりと横たわった。やがては風に押され、つつー…、となぞるようにステージから退場していった。


岡田(おかだ) 凛斗(りんと)は、いつだってまっすぐに、何かを見ていた。きりりとした眉、すらりと通った鼻、長身に、しっかりとついた筋肉、色白の肌にはいつも、部活動でつくった青い痣があったが、不思議と痛々しくなく、まるで勲章のように、堂々とそこにあった。低いのによく通る声も、馬鹿みたいに笑う顔も、解けもしない問題を親の仇のように睨む目も、私は全部覚えている。入試が終わって、一緒に帰る時、笑いながら絶対一緒に通えると言っていた時も、凛斗がそういうなら、と、不思議と叶う気がした。


あの日、私の家に電話がかかってくるまでは。



「岡田君が、交通事故で亡くなりました。」



いつもはお母さんが電話に出るのに、家に誰もおらず、私が渋々受話器を耳に当てたときのことだった。正直、言葉の意味を理解していなかったと思う。その後はただ、電話をかけてきた女の人の、次の連絡網の人にまわしてください、というどこか淡々とした言葉通りの行動をして、そのまま倒れるように眠り込んだ。


凛斗が死んだ、という事を時間をかけて納得する暇はなかった。あいつが消えても、学校生活は当たり前のように巡り、寧ろ残りの1週間半を大切にしようと学校側でもクラスマッチやお別れ遠足、友達や先生に手紙を書く時間等が設けられ、私はその度に何かの役員に立候補して、なるだけ忙しくなり、なにも考えられなくなるように、いつもの空想癖が自分の首を絞めてしまわないように努めた。それでも、私の頭にはあいつがいて私にずっとこう言っていた。


「お前が俺と居られる残りの時間は、1週間半どころか、この先一生やって来ることは無いんだぜ。」




風が吹いている。

冷たくもない、暑くもない。

ただただ、生暖かく、それでいて心地のいい風が、私を包み込む。空のオレンジと、雲の灰色と、足元には沢山の色が転がっている。あの桃色が見えて、私はゆっくり口を開いた。言葉は、出ない。


「なに泣いてんの。」


慌てて振り返った。

耳元で囁かれた気がしたが、声を発した張本人は、思っていたよりも遠くにいた。変な気分だ。


「なんでこんなとこにいんの。」

「別に、気まぐれ。」


少し複雑そうな笑顔で笑う彼は、そう言いながら近づいて来て、


「会えるなんて思ってなかったけど、変わってないのな、お前。」


私に触れようとして、思い直したようにゆっくりと手を引っ込めた。


「こんなとこにいるよりさ、もっと楽しいとこ、行こーぜ。」


唯一私と少し似た頭髪が、夕日に照らされてキラキラと輝いている。


「連れてってくれるの…?」

「…、いや、そんなとこより、もっとずっと楽しいとこだよ。」


誘いを入れて来た彼は目を輝かせる私を見て眉を潜めて笑い、首を振ってそう言った。その答えは私にとってあまり良いこととは思えなかったが、それでも彼が、凛斗が連れて行ってくれるのならきっと深く悩まなくていいんだろう。


「なにそれ、どこ行くの?」


尋ねると、凛叶は白い歯を見せて、今度は目一杯わらって言った。



「色のない街。」





**********


後頭部がやけに痛い。その痛みでうっすらと目を開けると、見覚えのあるメンツが私を含んでぐるりと円を作るように座り込んでいるのが見えた。どうやら、眠ってしまっていたようだった。変な夢を見た。夢じゃなかったなら良かったのに。そんなことを思いながら、もたれかかっていた壁から頭を離し、悲鳴をあげている箇所を上から下に撫でてやると、少し痛みも引いてくる。


「あ、起きた。」


と、私の真正面にいた女の子が、柔らかそうなふくよかな唇を動かして、そう発した。途端、酷くおかしな状況に置かれていることに気付く。目を瞬かせ、声も出ずただ口をパクパクと動かす私を気にも留めず、彼女は整った顔を歪ませて続けた。


「こんなときに寝てられるの羨ましいわぁ。てか巴菜、剣道部にやたらと仲良い男子いたよね。巴菜が行って来てよ。」

「……?…なに言っ、て、は?亜紀(あき)ちゃん、なんか髪、伸びてない?」


目が冴えれば冴えるほどまだ起きたばかりの完璧に働き始めていない脳内に一気に情報が入って来て、処理しきれない。私の一言に、なにをアホなことを言っているんだと更に顔をしかめてみせる女の子は亜紀ちゃん。3年間で同じクラスになることはなかったが、私と同じ弓道部に入っていて、気が強く、リーダーシップを取りたがる子だ。私は少し苦手。3ヶ月ほど前にご自慢の長い艶々の黒髪をバッサリと切って、キノコヘアーになっだはずだが、いつの間にやら髪が随分と伸びている。昨日会った時も、黒さと艶やかさは変わらないボブカットの毛先をいじりながら私に嫌味を吐きかけてきたはずなのに、こんなに伸びることがあるのだろうか。いや、流石にありえないだろう。それに、今いるところはどうやら半年前ほど前に部活を引退し、もう来ることもなくなったはずのあの懐かしの弓道場のようだった。私はさっきまで病院にいたはずなのに、おかしい。それどころか、あんなに咲き誇っていた桜はほとんど散り、青々とした葉桜に変わってしまっていた。そもそも引退したはずなのに、なぜ私は部活着を着ているんだ。後輩たちは去ったはずの意地汚い先輩たちがきて、本当に嫌がっていることだろう。と、噂をすれば(ただ私の思考回路に出て来ただけなのだが)後輩のゆっちゃんがすすっと駆け足で近づいて来て、


「決まりました?早く行かないと大野(おおの)先輩達、機嫌悪いですよ。」


と、コソコソと早口で伝えると、誰もついて来ていないのを確認するかのように後ろをぱっと振り返る。


「は、大野先輩!?」


思わず声を荒げると、私の両サイドに座っていた女子達が慌てて私の方を塞いだ。慌てすぎて唇に爪が引っかかって痛い。なんでぶりっ子おつぼね大野先輩がここにいるの?もう高1でしょ?そんなことを考えながら、ゆっちゃんの向こうにあぐらをかいて座り込んでいる先輩達を眺める。部活着を着込んだ先輩たちは、噂話に花を咲かせつつ、ちらちらとこちらを見ながら早くしろよ、と亜紀ちゃんに負けず劣らず顔をしかめさせていた。


「ね、巴菜、行ってよぉ。友達もいるんだしさ、いけるでしょ。お願い!」

「待って待って、行くって、剣道部に?なにしに?」


いやいや、そんなことよりももっと他に訊くべきことがあるだろうに、私は慌ててそんなどうでもいい(いや、そこそこに重要なのかもしれないが)ことを訊ねた。先程まで私の口を塞いでいた右隣の方の女子が呆れたようにため息をつきながら言う。


「うちは人数が多すぎて場所がないから、お隣の剣道部に、使ってないスペース貸してくださいってお願いしに行くんだよ。ほんとに何にも聞いてなかったんだね。」

「あはは…、ごめん。」


首筋をぽりぽりと掻きながらいうと、その子は優しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、考えられる時間を与えられたことに安心しながらまた脳内で会議を開く。つまりこの状況は…、ん?前にもこんなことあった気がする。あらら、確かにあの時と一致してる。でも結局借りられなくって…、てかまって、このまま進んだら確か…、

潤滑油が必要そうな思考回路が脳内でとうとうぎぎい、と音を立てて止まる。ゆっくりと顔を上げて、亜紀ちゃんと目を合わせると、亜紀ちゃんは何か考え込んでいるように私の目の奥の方を見ていたが、すぐに意地の悪そうな笑みを浮かべた。いろんな感情が含まれた汗が、たらりと背中を流れるのを感じる。彼女は最後ににこっとこれまでにないような可愛らしい笑みを私に見せつけると、後ろを振り返って言った。



「大野先輩、巴菜が行ってくれるそうです。」





「は、なんで3年がこねぇんだよ。」


他の部員たちと同じように頭を丸めた、がたいの良い先輩は私が事情を説明すると、不快感を丸出しにして眉をひそめた。むわっとした汗の匂いが充満していて、思わず私も眉をひそめる。この先輩の愛想の悪さには腹がたつが、言っていることには両手を挙げて賛成できる。そもそも、大野先輩たちが使っているあの無駄に荷物が投げ散らかしてあるコンクリート張りのスペースを開ければ、弓道の射型についての練習どころか、筋トレだってできるはずなのだ。それもせずに、弓道部と剣道部をつなぐ芝生の半分以上を削りとろうなんて、なんて我儘なことなのだろうか。それに亜紀ちゃんだ。同意もしていないのに勝手に大野先輩にあんなことを言いやがって、思わず掴みかかるところだった。危ない危ない。私はもうすぐ華の女子高生になるのだ。華の女子高生はおそらくそんなことはしないだろう。


…とはいうものの、実際今の私は女子高校生からは少し遠い所に離れてしまっているようだった。おかしなことが色々と起こっていると思って、剣道場に来る前に調べた弓道部のカレンダーはあと約2週間後に来るはずの4月が開かれていて、しかも一昨年のものだった。どうりで先輩たちがいるはずだ。どうやら私は今、約2年前の4月、中学2年生上がりたての頃にまきもどっているようだった。この状況を夢だというのならこの夢はおかしな所だらけで、感覚どころか痛覚もあるし、昔私が体験したことが今そっくりそのまま夢に出て来ているらしい。現に今、亜紀ちゃんに無理やりやらされているこのやり取りも、身に覚えがある経験済みのことなのだ。走馬灯のようなものなのかな、なんて曖昧に思いながらも、目の前の怖い先輩からどうにか目を逸らそうと、弓道部の近くにある桜と同じように葉桜になってしまっている木に目を向けたときだった。


「あ、巴菜じゃん。」


その先輩の向こう側、道場から聞き覚えのある声が聞こえて来た。

どきんっと、胸が高鳴ってパッと顔をそちらに向ける。


「なにしてんすか、先輩。」


黒木(くろき) 響也(きょうや)は、私の顔から切れ長の目を離さずに、強面の先輩の肩に腕を回してそう訊ねた。そうそう、他の部員はほとんど頭を短く刈っていたにもかかわらずこいつはなかなか髪を切らなかった。今の今まで練習をしていたのか、黒髪からは汗が滴っている。高鳴っていたはずの胸が、段々と心拍数を落としていくのを感じながら、私は口を開いた。


「いやうちね、人数がめちゃくちゃ多くなっちゃったから練習するスペースが足りなくて…、それでお隣の剣道部に芝生のスペース少し貸してもらえたらなぁって思って、お願いしに来たんだけど…、」

「あー、うちのガッコの弓道部、下手くそなくせに人数はいっちょまえに多いもんな。貸してやったらどうすか?板垣(いたがき)先輩。」


と、大野先輩や、他の部員達がきいたら発狂しそうなセリフをさらりとはけるのは、黒木が私のことを信用してくれているからだろうし、私がうちの弓道部は駄目だと笑っていたのを覚えていてくれたからでもあるだろうし、そもそも彼自身お世辞を言うような性格ではないからだろう。

板垣先輩と呼ばれたその人は、黒木を見て心なしか柔らかくなった表情をまた引き締めて、うぅん、と唸った。


「他の奴らにも聞いてみない限り勝手に許可は出せないな。まぁ、君はどっかそのへんに腰掛けておいてくれ。」


そう言って頭をかきながら道場内にはいっていく後ろ姿を眺めて、言われた通り、そばにあった小さな段差に腰掛ける。何故か黒木も隣に座り込んで来て、でも拒絶する理由も見つからないので、ただ2人並んで先輩の帰りを待つことにした。


「最近どうだ?部活では上手くやれてんのかよ。」

「うーん、まぁ、苦手な人もいるけど、まぁ楽しくはやれてるよ。」

「ふーん。」


なぜかいきなりぶきっちょになる黒木に動揺しつつ、あー、結局この時、板垣先輩が帰ってくるまで会話が無くって気まずかったっけ、なんてことも思い出す。

黒木は、小学生の時からの友人だ。1学年6クラスあるというのに、何故か6年間ずっと同じクラスで、中2になって初めてバラバラのクラスになった。私はスマホは高校受験が済んでからと言われていたので、特に連絡の手段も無く、この時期の数日間はあまり口を聞いていなかったはずだ。


と、後ろに誰かいる気配がして、もう先輩が帰って来たのかと、慌てて立ち上がって振り返る。


あ、と言いかけて、口をつぐんだ。


静かになったはずの心拍が跳ね上がって来て、熱いものが喉のあたりまで込み上げてくる。さぁぁっと、風が残り少ない桜を散らすように通り抜けた。結びきらなくて垂れてくる短めの横髪を抑えて、まっすぐ顔を見るが、なんと声をかければいいのか分からなくて、とりあえず会釈をした。


「こんちわ。」


低いけれど、よく通る声だ。でも、聞き慣れていた声よりも、心なしか少し高い。私が先程から密かに目だけで探していた凛斗は、頭に手拭いを巻いていて、頬には黒木の倍ほどの汗が流れていた。見慣れた格好なのだが動揺が隠せなくて、黒木に助けを求めるように視線を投げかけた。おかしい、あの時は凛斗は道場から出てこなかったはずなのに。確かに私は黒木と2人だけで先輩を待って、出て来た先輩に他の部員たちに許可を得られなかったことを聞いて、大野先輩になんて説明したらいいんだととぼとぼ弓道部まで帰ったはずだった。


「どうした凛斗、珍しくサボりか?」

「おう、中は暑くてたまんねーや、夏になったら地獄だぜ。」


薄い唇を伸ばしてにやける黒木に、凛叶は人懐こそうな笑みを浮かべて答えた。そして先ほどまで私が座っていた所を開けるようにして座り込み、汗を十分に吸ったのだろう手拭いを外すと、垂れてきた汗を胴着の二の腕あたりで拭った。髪の色は、水分を多く含んでいるからか、少し黒っぽくも見える。その様子を眉をひそめて見ている私を見て、黒木は可笑しそうにニヤリと笑った。


「凛叶の事そんな目で見る女子とか初めてみたわ。」

「えっ、どう言う意味?」

「凛叶は見てくれがいーからな、大概の女子はほっぺた分かりやすーく赤くして、キラキラした目で見るんだよ。」

「おい、響也、それ以上喋ると殴るぞ。」


そうやって黒木を黙らせると、凛叶は苦笑して私を見た。慌てて目をそらすが、特に気に留めた様子もなく、口を開く。


「俺、岡田凛叶。4組。剣道部に所属してる、…ってのは、さすがに分かるか。…君、朝倉巴菜さんでしょ。」


名前を知られていたことに驚いて、思わず凛叶の顔を見ると、視線が絡んだ。彼はそのままふわりと微笑んで


「弓道部なのにやたらと絵で賞状もらってるよね。廊下に飾られた風景画、見たよ。上手だね。」


うおおお、見ててくれてたのか、でも夢なら願望なのかな、凄い勢いで顔が紅潮していくのを感じながら、何か話そうと慌てて口を開く。


「わっ、私も、岡田くんのこと知ってたよ!1年生なのに沢山剣道の大会で優勝してて、あっ、あと、1ー2の委員長もしてたよねっ!」


食らいつくように手を拳にしてそう吐き出すと、驚いたように目を丸くしている凛斗と目があってまた恥ずかしくなる。一応出会ったばかりなため、よそよそしさが話しづらくて、本当は凛叶と知り合った後に手に入れた知識をほんの少し入り混ぜる。


「…おい、ちょっとお前ら距離近すぎだろ。」


急に腕を引かれて、体が大きく傾いた。

反射神経のない鈍い私は簡単にバランスを崩し、黒木の腕の中に倒れこむような形に。いまいち状況を整理できない私は、呆然として


「あ、ごめん。」


とだけ呟いた。黒木は目も合わせず、そっぽを向いてなにも言わない。


「…ぶふっ、あはははは!!」


何が面白かったのか、凛叶はその様子を見て目に涙を浮かべて笑い出した。黒木は怪訝な顔をして、なんだよ、とぶっきらぼうに声を荒げる。


「ふ、いやぁ、お前、女嫌いのくせに朝倉さんとは仲良いんだなーって思ってさ。」


機嫌の悪そうな黒木に、できるだけにやけた口元を隠そうと凛叶は左手を当てた。

確かに黒木は中学に上がって1年が経過した(.)(正式に言えば過去になるのだが)、なかなかの女嫌いになってしまっていた。原因はよく知らない。しかし、性格は少々難ありな気がするが、黒木は運動ができるし、頭も良くてそもそもルックスがいい。中学1年生中盤の頃、黒木は毎日女の子から引っ張りだこだった。休み時間になると、男女問わず複数人が黒木の席の周りに集ってきて、前の授業のノートを広げ、めいめいに質問し始める。確かに黒木の説明は分かりやすく、丁寧で、おまけに隣の席になった時などは、私が授業中一瞬でも眉をひそめたりノートの端に絵を描きだしたりすると腕を伸ばしてきて説明しだすくらいお節介だった。それが原因だったのか一年生後半になると黒木は月1くらい、多い時は3回ほどのペースで女子に告白されるようになった。最初は私に自慢げに話していたのにだんだんと、迷惑だ、だとか、時と場所を考えてなさすぎる、などと内容が不満に変わっていった。それでも私とは口を聞いてくれるのは、多分、


「いや、どーせ私のことなんて女として見てないもんねぇ。」


「…そーゆー訳じゃねぇんだけど。」


またそっぽを向いてぽりぽりと頰を掻く黒木を見て、私は思わず「嘘つけ。」と悪態を吐く。いやいや、黒木は私のことを絶対に女としてみていなかった。黒木が女嫌いになり始めていた時期、剣道で試合がある前日にも、彼は他の女子に取り巻かれていて熱烈な応援を受けていた。すると、あるめちゃくちゃ可愛いお色気系の(とは言っても今考えれば13歳の色気なんて高が知れている)クラス内で人気があった女子が、


「黒木君が優勝したら、私、なんでもしてあげる。」


と、猫なで声で大胆にもそう言った。多分、自分のルックスの良さに自信を持っていた故の発言だし何を言っても恋愛ごとに興味を持とうとしない黒木への最終手段だったのだと思う。しかし、当の本人である黒木は速攻で


「いや、いらねぇ。」


と、真顔で答えた。その時も隣の席だった私は、ぼんやりとその話を聞きながらどう出るかとにやけていたのだが、思わず「ええ…、」と口に出してしまった。するとなぜか彼はそんな私に目を合わせて、「お前は俺が決勝で勝ったら…、」と言いかけて、目を泳がせて…、


「ジュース奢れよ。」


である。結局私は2日後、所詮顔か。可愛かったら負担をかけさせないんだなと、ぶつくさと文句を言いながら自販機のボタンを押すことになったのだった。それに言い返そうとしてか黒木は、私から缶ジュースを受け取りながら小声でブツブツと何か言っていたが、最終的には、奢ってもらった分際にも関わらず、無性に何かにイラつきながら帰って行った。


「おい、いいってよ。」


急に後ろから図太い声が聞こえて、慌てて私は振り返った。


「はい?」


板垣先輩だ。先ほどと同じように、ずっとそこにいたかのように道場の入り口に仁王立ちしている。私の返事を書くと、呆れたというように意外と大きな黒目を上に泳がせて丸めた頭をまたガリガリと掻いた。


「芝だよ。芝。剣道部員はどこぞの部活動様と違って人数が少ないからな。貸してやってもいい。」

「は?…、い、いいんですか?!」

「なんだよその反応、貸して貰う気でここにきたんだろ?」


怪訝そうな顔でそう言われて、いや、まぁ、そうなんですけど、と口ごもりながらも頷くしかなかった。おかしい。ここの芝は結局借りられずに終わるはずだったのだ。と、いうことは、やっぱりこれは走馬灯ではなくて、信じ難いけれど、タイムスリップ?いや、そうだとしても私はここに来るまでのルートを変えるような大それたことはしていないはずだ。


「良かったな。」


はっと顔を上げると凛斗が板垣先輩の隣で笑っている。いつのまにか頭には外していたてぬぐいがていねいひ巻かれ直されている。明るい茶色に澄んだ瞳が、なんだか心の奥をのぞいているような気がして、私は目をそらした。



**********



ーーーグチャグチャに散らかったキッチンに、白い光が差し込んでいた。新築で張られたばかりの床板は、先程まで小綺麗にしてあったのに、今ではぼこぼこと歪に凹んでいた。掲げた空の瓶を見て、何となく笑ってしまう。小瓶は光を浴びて、キラキラと輝いていた。重い瞼をおろすと丁度、インターホンがやたらにうるさく鳴り響き出したーーー、

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