1-⑩
なかなか更新が遅れて申し訳ありません。
作中少しグロテスクな表現があります。
苦手な方、嫌いな方は閲覧をお控えください。
女中と言えば、滾る物を感じる人もいるだろう。だが、入ってきたそれはパートのおばちゃんと何も変わらなかった。愛想が有る分パートのおばちゃんの方が上だ。
メイド服っぽい制服を身に纏った、市井によく居そうな、ただのふくよかなおばちゃん。不愛想が顔に張り付いた、『愛嬌』とか『敬愛』といった言葉から縁遠い顔つき。
女中に初老の男が近づき何やら耳打ちすると、女中は眉を顰めながら鷹揚に顎をしゃくってみせた。
冷血女に頼まれた初老の男はそれなりの地位だろうに、一介の女中がそんな態度をとっていいのだろうか、と余計な心配に駆られてしまう。元居た世界が礼儀とか接客とかを重視していたからだろうか。だが、初老の男は何事もなかったかのように手を振って女中を外へ追いやる。
なんていうか、この世界は全体的に『雑』だな。
女中が扉へと向かう。次はあっちか。ネロに後ろをつけるよう指示を出そうとする。が、不味いことに、出ていけば確実にネロの姿を見られるタイミングだった。
逡巡する間もなく、女中が部屋を出ていき扉が閉まる。
鼠だから見られても大事にはならないだろうが、念をいれてこの機は見逃しほうがいいだろう。
女中は『俺の手』を持って――言葉にしてみるとグロテスクだが――またここに戻って来るだろうから焦ることはない。
いざとなれば、窓を突き破って外に出ることもできるだろう。窓枠にはめられているガラスは、前世では考えられないほど厚ぼったくて歪んだものだ。強化ガラスというわけもあるまい。
次はどうするかと考えていると、冷血女が女中を遣わした初老の男のところまでやってきて話しかけ始めた。
「そういえば、あの女中はあの女が部屋にいるのを知らないのではないですか」
「シニストラリですか? あの女は牢に入れたのでは?」
「あれで、公爵様の部下ですから勝手に牢に入れる訳にもいきません。下知があるまでは元の場所に置いています、とはいえ、檻には入れていますが」
「なるほど……、まぁ女中も馬鹿ではありませんからな。大丈夫でしょう」
一連の話を聞いて、俺は思わず顎を撫でる。
シニストラリなる人物が誰だかわかってきた気がする。
女。
牢に入るようなことを仕出かした。
牢には入っていないが檻に入れられている……。
思い当たる人物は一人しかいない。
知っている人物だったというのが驚きだが。
思い出すのも忌々しい。
あの拷問吏のことだろう。
そして、拷問吏の居室は俺の頭上――
塔の上部だ。
◇
ネロはひとまず待機。
目的の人物が拷問吏だとすれば、ネロが今いる城から先回りして塔に向かうのは余り良い手とは言えない。
先回りするのなら、同じく塔にいる鼠を使うべきだ。
つい先程支配下においた黒色ドブ鼠。
『番号31 黒色ドブ鼠 体長5~40㎝ 重さ50~2000グラム
いつも病気に掛かっている 汚物に塗れたケダモノ だから誰も愛してくれない 汚い前歯で病気を移す』
「なんだこの悲しい文章」
「は?」
テディが話しかけてくるが聞こえなかったふりをしてやり過ごす。悪いが説明のしようがない。
『魔獣全書』は悲観的な記述が多いな。灰色ドブ鼠もそうだし。
『誰も愛してくれない』、『独りぼっち』。
胸が抉られるようなワードだ。
でも、汚物に塗れた鼠を愛せるかっていったら余程特殊な性癖が無い限り無理だろう。
病気はともかく、汚物は自業自得では。と思ってしまう。
とりあえず風呂入れ。
話が逸れた。
前回ネロで塔を探索したときに見つけた拷問吏の居室は、たしかこの塔の上部。
黒色ドブ鼠Aを使役できれば、ネロを慌てて動かすより、位置が近いぶん効率的だ。
先程騒ぎが起きた時、黒色ドブ鼠Aに『感覚共有』が使えなかったが、使えなかったのは恐らく名前を付けていなかったことが理由だと推測する。
初めに『感覚共有』が解放されたのも、拷問室でネロに名前をつけた時だ。普通に考えて関連性があるとみていいだろう。
駄目なら別の手を考えればいい。
しかし、名前、名前ね……。
俺が中学の頃考えていた設定集のノートは、中学を卒業するまでにはダンボール一箱分あった。処分しようかとも考えたが、ゴミ捨て場で誰かに見られたらと思うと捨てることすら出来なかったのだ。
まぁ、そんなこんなで名前はネクロファティマスの他にも色々考えている。ストックはいくらでもある。
黒い鼠、黒。『黒い神』とか『黒』とかでもいいが、やはりオリジナルがいいな。
「『ヘルガボルグ』で」
◇
時間はないし、一度経験した流れだ。
巻き進行で行くとしよう。
まず、名付けは成功。
画面上の名前が『黒色ドブ鼠A』から、『ヘルガボルグ』へと変化。
『感覚共有』も問題なく行使できるようになった。
『名前:5/6』が『名前:4/6』に変化。やはり、名前を付けるのは制限があると見た方がいいかもしれない。名付けは用心深く行うべきだろう。
ヘルガボルグは、ネロと同じく進化したはずの鼠であることは確かだが、ステータス上ではネロと比べると数段劣っていた。
『名前:ヘルガボルグ LV:3 生命力:2 素早さ:4 力:1 特力:1 次のLVまでに必要なマナ:3』
全体的に見て、蛇と戦った時のネロより低い数字だ。
ちなみに所有マナは2。俺の血を飲ませた結果によるものなのかはわからない。
レベルも、ネロは8で進化したのに比べ、ヘルガボルグは未だレベル3だ。進化する条件はレベルだけでなく別の要素を満たすことでも可能ということだろうか。もしくは、『黒色ドブ鼠』として生まれた可能性もある。
まぁ、野生の灰色ドブ鼠に遅れを取ることはないだろうから、ステータスに関してはとりたてて支障があるわけでもない。人間を相手にするわけでもないしな。
他にも色々と気になる点はあったが、時間もない事だし一先ず塔の上部へと向かうことにする。
階段を上り、広間を抜け、石造りの廊下を駆け上る。牢屋の通路を通った時、囚人たちの叫び声が上がりひと騒動あったが、それは割愛する。
ちなみに塔の扉は隙間だらけの襤褸普請なので、いくらでも通り抜けることが出来た。城の方はきちっと隙間なく作られているのに、塔の扉はノブすらない。こちらは城と比べ作りが古いのだ。
『感覚共有』でヘルガの感覚を追体験して幾つか感じたことがある。
ネロと一々比べてヘルガボルグには悪いが、やはりネロより筋肉の動きや反応速度が、捕獲時の怪我を考慮しても劣っている。階段を上る度、挙動に溜めを要したり、兵士から隠れる時に寸前の判断で躊躇したり。ステータス上仕方ないのだろうが、それ以外にもお互いの信頼関係があまり築けておらず、それが動きを悪くしているような節がある。
ネロとは生死を共にした仲、同じ釜の飯を食べた仲でもあることだし、阿吽の呼吸でこちらの伝えた意図を感じ取りすぐに行動してくれる。だが、ヘルガボルグはこちらが意図を発したあと、何故そのような行動をしなければならないのかと考え、自分で吟味した後に行動する。ヘルガボルグが望まない行動であれば、行動してくれない場合も多々あることだ。ヘルガボルグの性質はネロよりも幾段か狂暴だ。支配に置いたからと言ってこちらの言う事をすべて聞いてくれるわけではない。後々これがどんな悪影響を及ぼすかわからない。懸念材料の一つだろう。
時間が解決してくれればいいのだが。
塔中の移動に関してはヘルガボルグと意志の疎通が密に取れていなかったとしても、廊下には木箱や麻袋などが雑多に置かれていたので隠れ場所には困らなかった。
途中、物陰に隠れているときに兵士たちの話声が聞こえてくる。
「やっぱり魔女だったんだよ。あの女、魔女の分際で俺らに命令してやがったんだ」
「閣下があの女を使ってたのは医術の心得があったからだろ? 家宰連中は大慌てだ、ざまあねえ」
「悪魔崇拝の一派が紛れ込んでたなんて教会に知られてみろ……、俺らまで魔女裁判に掛けられるぞ」
「誰かあの女と仲良くやってた奴は居たかね」
「仲良くしてたかは知らんが、世話係をやってたのは阿保のバルドルだ」
「魔女の飯に唾を混ぜてやったとか自慢していたぞ、あの間抜け面。そんなことが何の自慢になるってんだ。丁度いい。何かあったらあいつの名前を出そうじゃないか」
魔女とは、拷問吏のことだろう。バルドルが誰かについても何となく見当がつくが。話の内容は割と興味深い。
噂話に興じる兵士たちを尻目にガラクタの陰に隠れつつ、ようやく目的の場所へと辿り着いた。
油が浮いた樫の扉の隙間を通って中に入る。
面積でいえば10畳あるかという一室。だが、所狭しと置かれている本棚のせいで押入れの中のような閉塞感を感じる。
個室が割り当てられているということは、重要な立場にいるのであろうが、その部屋の主はすぐに見つかった。
それも異様な姿で。
子犬や鶏などの小動物用の、一辺が数十センチから成る小さな鉄の檻。檻の中にはぎゅうぎゅうに手足を折り曲げ詰め込まれた一人の人間の姿があった。パズルのように隙間なく立方体に入れられた人間の体は、生き物というより得体の知れない何か邪悪なオブジェのように映る。
まだ肌寒い気候であるにもかかわらず、その人物は布切れ一枚羽織っていない。
腰まで伸びた長い黒髪を持つ痩せぎすの女。
拷問吏、シニストラリ。
「うぐぅ」とか「いいぅ」とか聞こえてくのは呻き声だろう。
少しでも苦痛から逃れる体勢を探すように、シニストラリは絶えず身じろぎしていた。
自分がやられると判らないが、外から見るとなかなかどうして恐ろしい責め苦のようだ。
全く身動きができない状況というのは思った以上にストレスが溜まる。それを四六時中続けるというのだから肉体にかかる苦痛は想像以上だ。
この方法なら肉体に目立った跡は残らないし、『体を傷つけるな』という注文をうまく守ったうまいやり方だと思う。
俺は途中から楽をしていたので、実際本格でやられたらどうなのかはわからないが、それでも半日近く体操座りしたせいで体中バキバキになった。
あの女が連れて行かれてもう丸一日経つはすだ。
その肉体にかかる苦痛は如何程のものなのだろう。
檻の下に目をやれば、液体が檻から滴っている。
なんの液体かは言及しないが、まぁ一日吊るされていたら出るものも出てくるというものだ。
拷問の考案者が、自ら考えた拷問の被検体になって死に至る。
血腥い時代にはありそうな話だ。
檻にはしっかりと南京錠が掛けられているため、俺にできることはない。助ける気もない。
見なかったことにしよう。
それよりも、俺の手を探さなければいけないのだ。
俺の体の一部を奴らにいいようにされるのは我慢がならない。
女中が来る前に取り返さなくては。
◇
俺の手はすぐに見つかった。
部屋の角、大量の書類と得体のしれない瓶詰の生物の乗った、雑然とした机の上。
思わず悲鳴を上げそうになった。
それは標本のようにピンでとめられていた。
変色しきったバナナのように青黒く変わり果てた俺の手。三本の指は腐る寸前で、真っ黒でふにゃふにゃに萎れている。ところどころよくわからない黴のようなものが白く浮いている。
爪は総て剥がされ、綺麗にされたそれが机に三つ並べられていた。
一部の肉は切り取られ何本かの骨が露わになっている。
吐き気がする。
右手が綺麗なまま残っているとは思っていなかった。
だがこれは酷すぎる。
なんでこんなことをしたのか。
俺の手は死んだ。
切り離された俺の肉体は死んでしまった。
冒涜され穢された俺の三本の指は、もう二度と俺の体に帰ることはない。
哀れな俺の指。
これをやった奴は許さない。
ヘルガボルグに指示を出す。
檻の中にいる拷問吏。身動き一つとれない哀れな人間。鼠の身でも殺すことは簡単だ。
こいつが俺の右手をバラバラにしてくれたように、俺もこいつをバラバラにする権利がある。
ヘルガボルグは拷問吏の視界に入るように正面に歩み寄ると、狂暴に牙を剥いて見せた。
鼠の姿に気づいた拷問吏は、怯えたように息を呑む。
「く、疫病の黒鼠。何でこんなところに」
病をもたらす黒い鼠。
黄色く菌に塗れたその前歯は人間の柔肉を容易に抉ることだろう。
にじり寄るヘルガボルグを見る拷問吏の目に絶望の色が滲む。
だが、
「くそっ!」
思わず罵倒の声を上げてしまった。
ヘルガボルグの感覚に引っ掛かった人間の気配。足早に廊下を歩く人間のものだ。
こいつを噛み殺している時間がない。
最初の目的通り、俺の右手だけ回収することにする。
今にも飛びつこうとしていたヘルガボルグをどうにか宥めると、机の上に上がり、右手に刺さっていたピンを引き抜く――ピンで机に止められていたわけではなく、何かの当たりを付けるために刺していたのだろう――爪は捨て置き、手の粗方だけを咥えて本棚の陰に隠れる。
拷問吏からは此方が何をしたのか角度的に見えない。突然別の場所に逃げたように見えただろう。
隠れたと同時に件の女中が部屋に踏み入ってきた。
鼻を動かし、岩のように不愛想な顔を顰めると女中は部屋の中央まで歩み寄る。
床に置かれた檻と、その中身に一瞥をくれると、嘲りを含めた声で話しかけた。
「おや、医官のシニストラリ様じゃないですかい、大層な医術を身に着けた御方がなんて格好してるんだい」
拷問吏は女中の顔を見るや、安堵の表情をを浮かべ助けを求めた。
「あぁ、よかった。黒鼠だ。黒鼠が出たんだ。病気を振りまく疫病の鼠だ。ここに居たら殺される。こ、ここから出してくれ」
「何言ってるんだ出せるわけ無いだろう、馬鹿」
「く、黒鼠だ。あれを放っておけば城に疫病が広がるぞ、あれの対処はわ、私にしかできない」
「やかましい、馬鹿」
本棚の影でそっと状況を伺う。
何やら問答を続けてくれているため今は無事だが、女中が俺の手を探し始めたら厄介だ。
この部屋にあると確信しているようだし、隅々まで探されたら本棚の陰など隠れているうちにも入らない。
元の手にくっつけるのは、腐り始めていることだし当たり前だが不可能だ。
連中の手に渡さないことが目的の為、連中の手に届かない所に遺棄できればそれがいい。
とはいえ、目に付かないようここから運び出すのも難しい。
どうしようか、と逡巡しているとヘルガボルグが俺の手を甘噛みし始めた。ジェスチャーで食べてもいいか? と言う意味だとわかる。
……何を言っているんだ。
腐りかけだし、人間の肉だし、しかも肉を食う食感は俺に伝わってくる。
俺の手を食べる感触を俺が味わうのだ。
そんなグロテスクな真似、できる訳がない。
だが、他に上手い手があるかと問われれば、思いつかないのも事実だ。
ヘルガボルグに食べさせてしまえばそれ以上隠滅する必要もない。
それに、『悪魔は魔素の塊』の実験はまだ途中だ。真実かどうかを見極めるのには丁度いい。
確かめてみる価値はあると俺は判断した。
中々手に入らないマナを入手できればめっけものだ。
ヘルガボルグに『右手』を食べる許可を送る。
今日何度目になるだろう、俺は胃の中身を床に吐き出した。
それと同時に得体の知れない膨大な何かが、ヘルガボルグの中に溢れて来るのを感じた。




