1 ある日住宅街の中、スライムに出会った
植木信がその道を通るのは、いつもの日課である。
クリスマスの日、パートナーもいなく寂しくバイトをした帰り道。植木信は一人でトボトボと、閑静な住宅地を歩っていた。
信は腕時計を見ると、夜の11時を示していた。
「遅くなりすぎたかな」
0時から朝の5時までは、国が定めた特別警戒時間。外出していけないわけではないが、自己責任となる。23時にはギルドが巡回警備に動き出すので、出会ったら意味もなく注意を受けるかもしれない。面倒である。
信は万が一のため、魔物除けの魔石灯にスイッチを入れた。夜になって動き出す魔物を避けるためだ。コートのポケットからスマホを取り出し、魔物発生状況も確認する。とくにアラートマークは出ていない。
「今日も平和だな」
信は魔物にさして恐れず、今日の夜食は何を食べようかな? 研究している魔装具の改良点はどうしようかな? などと考え、テクテク歩いていた。
雪でも降りそうな寒空の下、白い息を吐きながら帰り道を歩く。家の近くに差し掛かったあたりで、信は嫌な物を見つけてしまった。
電柱の下にポツーンと、一つだけダンボールが置いてあった。バスケットボールが一個入りそうな、箱形のダンボールだ。
電柱の街灯に照らされたダンボールには、こう書かれていた。
『ひろってくださり』
ひらがなで、小学生が書くような汚い字で、そう書かれていた。しかもひろってくださいの、最後の文字が、「い」ではなく「り」になっていた。「ひろってください」が、「ひろってくださり」になっている。
信は文字の事を笑うよりも、置いてあるダンボールの中身が気になった。
「また猫を捨てた奴がいるな」
信の家は猫を飼っている。信の妹である植木香澄が、捨て猫を拾ってくるからだ。一時期、捨て猫のせいで猫屋敷になったが、里親を探しまくって、今は二匹ほどになっている。
「何でこの地区には猫を捨てる奴が多いんだ」
信が通って来たこの道にも、何回も捨て猫がダンボールに入れられているのを見た。信はバイトの帰りで疲れていたが、あまりに小さい子猫だったら、拾って里親を探そうと思った。この寒い冬だ。凍死でもしたら寝覚めが悪い。
猫を飼うのはもう何度もやってきたことだ。今さら一匹くらい増えても両親は怒らないだろう。信はそう思って、ダンボールに近づいた。
魔石灯を消して、背負っていたリュックにしまう。バイト先で猫用にもらってきた、賞味期限が切れそうな猫缶を用意する。信は物音を立てないように、静かにダンボールに近づいた。
目の前に来てみると、ダンボールからは鳴き声がしなかった。寝ているのかと思ったが、死んでいることも考えられる。それ以前に、ただのゴミが入っているかもしれない。
ゴミならばそれでいいのだが、子猫ならまずい。真冬の寒さで死んでいたら最悪だ。信は少しドキドキして、ダンボールの蓋を開けてみる。
「……え?」
信は、一瞬何が起きたか分からなかった。
ダンボールの中には、丸く、緑色の物体が入っていた。ボロ布にくるまって、入っていた。
入っていたのは、ボールのようなゼリーのような物体である。その物体の頭頂部には、タンポポの花らしきものが生えている。
その物体は、ダンボールを開けられたことに気付いたようだ。街灯の光に目をさまし、体を動かした。
信を見上げるように、上体を反らす丸いゼリー。
一瞬信はパニックになるが、このような物体には見覚えがある。小学生の時、先生に習った。
頭の部分にタンポポの花が生えているのは見たことがないが、信はこの生物の名前を知っていた。
「ス、ス、スライム?」
ゼリー体の魔物はいくらか種類があるが、目の前にいるのはスライムっぽい。というか、スライムである。
スライムは、ダンボールの中でじっと信を見つめていた。スライムに目があるわけではないが、信は見つめられている気がした。
信は学校で習ったことを急いで思い出す。
スライムは知性が非常に低く、人間には懐かない。可愛らしい見た目をしたスライムもいるが、酸や毒を吐く非常に危険な魔物である。雑食で、人間を襲ってくることもある。
信は魔法を使えるが魔物を倒したことはない。魔物を倒すのは“その道”に進んだ人だけだ。一般人である植木信は、スライムすら見たことがないのである。
「や、やべぇ」
信は焦った。スライムは今何もしてこないが、逃げようとしたら襲ってくるだろうか? 野生の熊とかは、走って逃げると追ってくるらしい。そういう習性があるからだ。もしかするとスライムもそうかもしれない。
なぜこんな住宅地の路上にスライムが捨てられているのか不明だが、今はとにかく逃げないといけない。おとなしいうちに逃げて、ギルドと警察に伝えよう。
信は少しずつ後ずさるが、スライムが信の手に持っている物に気づいた。それは先程用意していた猫缶だ。
スライムは突然体の横から細長い触手を伸ばす。
信は当然焦る。襲ってきたか! そう思った。
信は身構えるが、伸ばされた一本の触手は、彼の右手にある猫缶を奪った。
「え?」
スライムは猫缶を器用に触手で絡め取ると、中身を食べ始めた。どうやら食べ物と分かっているらしい。
猫缶の中身はかつおフレーク。触手を器用に使い、フレークを掴みとると体に取り込んだ。何やら体がプルプル震えているので、食べていると思われる。
信はその光景に唖然とした。
「俺よりも猫缶を食べた? 人間は襲わないのか?」
信はスライムを観察する。よほど腹が減っていたのか、大き目の猫缶があっという間に空になる。空になった猫缶は、触手で掴むとポイッと横に投げ捨てた。無機物は食べられないらしい。
信はもう一個、バイト先から猫缶をもらっていたので、もう一つスライムに与えてみる。
するとスライムはまた信から猫缶をひったくると、もそもそと食べ始めた。信を襲う気はないようだ。
「うーむ」
信は考える。知性は低いと言うスライムだが、エサにがっつく姿は、犬や猫と同じように感じる。しかも丸く愛らしい姿をしているので、それほど危険に見えない。頭に生えているたんぽぽも、スライムの可愛らしさを際立てている。
といっても、これは偶然、信を襲わなかっただけかもしれない。たまたま猫缶が好きなだけだったかもしれない。
「でも、こいつ可愛いな。スライムってこんななのか? もっとドロドロしてるのかと思った。もしかしたら触れるかも」
信は風系最低級の攻撃魔法「ウインドショット」をいつでも使えるように、“腕輪型のファクター”にセットした。
ちなみにファクターとは、この世界で一般的に使われている魔法発動装置だ。誰もが持っている。
「よし。準備はOKだ」
猫缶に夢中になっているスライム。愛くるしい姿のスライム。信は目の前のスライムに興味が湧いた。湧いてしまった。危険と分かっていても、触ってみたくなったのだ。
スライムの体はそれだけで毒性がある。触れればやけどしたり、皮膚が溶けるかもしれない。
それでも信は思った。
猫缶を奪われた時、手に触れた触手は柔らかく、特に皮膚がやけどしたりしなかった。問題なさそうに見えたのである。
そっとスライムに近づき、人差し指でスライムをつついてみる。
「こ、これは」
スライムは、すべすべで、柔らかかった。スクイーズみたいなさわり心地である。
「き、きもちいい」
信はスライムのさわり心地にびっくりした。
こんな生物がいたのか!
信は学校で習ったスライムの認識を改めた。
触れた指は何ともない。時間差で指がかぶれるとかもなかった。たぶん大丈夫だろう。
猫缶に夢中になっているうちに、信はスライムを撫でてみた。子猫を撫でるように。
「おおぉ!」
とても感触が良い。張りのある、それでいてプリンのように柔らかい、極上のおっぱいを触っているようだ!
優しく撫でられたスライムもまんざらじゃないのか、体をプルプル震わせる。
調子に乗った信は、スライムを撫で回す。嫌がらない程度に、優しく。さわり、さわりと。
スライムは猫缶を食べたままだが、よほど気持ちよかったのか、もう一本触手を伸ばしはじめる。
「うわ、なんだなんだ」
伸ばしたもう一本の触手は、信の顔を撫ではじめた。スライムは信に興味が沸いたようだ。
「あはは。くすぐったいな」
信の顔を何度も撫でる触手。吸盤のついていないタコの触手とでも言えば良いだろうか? 触手自体も、柔らかかった。
二つ目の猫缶を食べ終えたころ、信はスライムを抱っこしていた。
スライムは清潔で、体液でべちょべちょとか、排せつ物まみれとかはなかった。すべすべのゼリーを触っている感じだった。抱っこされてもスライムは暴れないし、信に体を預けたままだ。
「すごい人懐っこいな。子猫でもめったにないぞ」
なぜかスライムの頭頂部にはタンポポのような花が生えている。信には少しそれが気がかりだったが、毒草には見えない。
信は改めてダンボールを見る。
『ひろってくださり』
文字は間違っているが、信はスライムにときめいてしまった。ペットショップにも並ばない魔物がスライムである。
角うさぎとか、フェアリーラットとかは、人気のペットだ。ペットを超えた“従魔”なんかには、デザートイーグルとかもある。大型のものとなるとスレイプニールもいるくらいだ。
家族が何か言うのが目に浮かんだが、信はこの人懐っこいスライムを拾っていくことにした。
「君の名前はポポだ。安直だけど、頭にタンポポがあるからだ。いいかい?」
スライムは鳴き声を上げず、体を上下に震わせた。
「よく分からないけど、うれしいのか? それじゃ、ポポ。よろしくな」
信はポポをダンボールに入れて、家に持ち帰った。
持ち帰る時、信はまったく気づかなかった。
名前を名づけ、ファクターを起動させ、お互いの了承を得る。
信は、スライムと従魔契約してしまっていた。スライムが触れていた信のうなじに、契約印が刻まれていた。