「甘えるな」と言う人に言いたい、「甘えるな」と
ある作品の感想欄を見ていたら、読者が作者に対して、「甘えないでください」などと書いていました。
その読者のマイページを辿ってみたら、めちゃくちゃ甘えたスタンスで作品を書いていました。
まったく微塵も「甘え」のない人というのを、僕は一人も見たことがありません。
誰でもどこかしら、「甘え」を持ちながら生きています。
ですから、だいたいにおいて、誰かの発する「甘えるな」という言葉は、ブーメランであるのです。
それでも人に対して「甘えるな」と言う人というのは、自分が「甘えている」という自覚がないか、自分の悪い部分を棚上げして、人の悪い部分をあげつらう人です。
自分のことを棚上げしてでも、しっかりと欠点を指摘してあげたほうが、相手のためになるだろうと考える人もいるでしょう。
その考え自体は必ずしも間違ってはいないと思いますが、そう考えている人は、たいてい間違っています。
本来、人の欠点を、その人のために指摘するという行為には、高度な技術を必要とします。
多くの人は、自分(あるいは自分が思い入れを持って書いた文章など、自分の延長線上の何か)の欠点を指摘されると、防衛的になり、その相手の意見を否定して、自分は悪くないと思い込みたがるものです。
こうなると、その人にはその欠点として指摘された部分を欠点として認めるまいとする心理が働き、言い訳や反論をし、その部分を欠点として受け入れられなくなります。
「欠点を指摘してあげたほうが相手のためだ」と言う人の多くは、この点を認識していません。
だから、ストレートに言葉をぶつけてしまい、相手を防衛的にし、その人を殻に閉じこもらせてしまいます。
そして言います。
欠点を指摘されたら自己正当化の屁理屈ばかり並べて、人間性がなってない、まったくお前は人間のクズだな──と。
自分の指摘の仕方のまずさを棚上げして、そう言うわけです。
これが相手のためになるか、と言ったら、そんなわけはありませんよね。
そしてそういう人は、相手の悪い部分にばかり思考をフォーカスし、自分の悪い部分には無関心ですから、同じ過ちを何度でも繰り返します。
さて。
ですから本来、他人の欠点を指摘してやる場合は、その相手の気持ちを考えて、相手が受け入れやすい形で伝えてやるべきなのです。
ただ、これは技術的にも、心理的にも難しいことです。
心理的にも、というのは、多くの人は、「どうしてこっちがそこまでしてやらなきゃならないんだ」と考えるため、そういう行動を取ろうとすること自体が心理的に難しいことを意味します。
ですが、相手のためになるという名目でやっているのであれば、「どうしてこっちがそこまで」などと「甘え」ずに、しっかりと相手のためになるようなやり方でやるべきなのです。
そうでなければ、その名目は自己の行動を正当化するための単なる方便となり、欠点を指摘する行為は、相手を傷つけるための「攻撃」でしかなくなってしまいます。
有川浩さんの『図書館戦争』という作品の作中のキャラクターの台詞に、こういうものがあります。
「正論は正しい。だが正論を武器として使う者は、正しいのかな」
武器、すなわち人を攻撃するための道具です。
正論を、人を攻撃するための道具として使う者は、正しいのでしょうか。
現代を風刺した、なかなか鋭い台詞だったと思います。
話が逸れたので、戻します。
人に対して「甘えるな」と言う人は、まずその「甘えるな」という言葉を発している時点で、自分を甘やかしています。
本来ならば、人に「甘えるな」を言うごとに、自分にはその十倍の数の「甘えるな」という意識を向けなければならないのです。
そして、自分に「甘えるな」という意識を向けたならば、自分が今、人に対して発しようとしている「甘えるな」という言葉が、自分の「甘え」から発せられたものだということに気付くはずなのです。
自分の「甘え」を律し、自分に厳しくあろうとしている人であれば、もっと相手が受け入れやすいように、言い方を工夫するはずだからです。
ただしこれは、「人はもっとどんどん甘えたほうがいいんだよ」ということを言っているわけではありません。
人が楽しく生きてゆく上で、適度な甘えは必要だと思いますが、甘えてばかりでは人生いずれ詰みますし、自分の周りの人にも迷惑をかけ続けてしまいます。
いずれにせよ、「甘えるな」という言葉は、人に向けるべき言葉ではないと思います。
それは、折りに触れて、自分に向けるべき言葉なのではないでしょうか。
という、このエッセイの内容自体が「甘え」だらけなのであるから、世の中ブーメランで溢れているのであります。
感想レスは、状況次第で甘えてサボったり、部分対応だけにするかもしれません。