青年の主張
今日のナナカは午前様。
足音を殺して入ってきても、おれはまだ起きていて、ナナカの帰りを今か今かと待ちわびていたわけで。
ソファに寝るおれの頭上を横切って、自室に入って戸を閉めて。スーツを脱ぐ衣擦れの音がする。
そこからはおれの妄想力の出番。しかし僅か数秒間の着替えは、あまりにも時間が短すぎた。
疲れているのか、会社でシャワーを浴びたのだろうか、ナナカは部屋から出てこずにそのままに布団にもぐってしまったようだ。ならば、とおれは静かに身を起す。そうっと、そうっと、ナナカの部屋へと四つん這いになって近づいていく。戸を引くスピードは花丸満点。音も立てず人一人分開けて、布団の中で背中を丸めるナナカが視界に映った。
その華奢な後ろ姿を見ると、蜂蜜のようにとろりとした甘い感情がこみ上げてくる。そっと顔をその首筋に近づけて、軽い口づけを落とす。眠いから邪魔するな、とか、くすぐったいとか、いつもより柔らかな声が聞こえるのを想像するだけで胸が躍るこの瞬間。
「な、にをするかああ!」
突如布団から飛び出した足に、踵落としを決められた。
「ええと、ナナカさん…?」
現在午前三時。おれは腰のあたりに氷枕を当てていた。
流石のナナカも悪いと思ったのか、いそいそと氷枕を用意して、引き出しから湿布を出してくれたのだが、湿布は箱に入ったままポイと渡されて、どうやら貼ってくれる様子はない。
「なにかな」
と返事をしたナナカは、なぜかソファに座ったおれから微妙な距離を取って、リビングテーブルの向こう側に座っている。
「いや、あの、おれ、自分で背中に貼るのは難しいなと思うんだけど、ほら、ここのところ」
「っ! 成せばなる! ふ、服をめくるな!」
「は?」
なんだかナナカが変だ。どうしたのだろうとつい見つめていると、居心地悪そうに視線を泳がせ始めた。
「……いや、あ、あんたももう、その、子どもじゃないわけでね。おいそれと人に肌を見せてはいけないと思う」
「おれ、男だからあんまりそういうの気にしなくていいと思うけど?」
「お、男だからこそ男であることをもっと意識して慎み深く…」
「あのさ、なんか、ナナカ変じゃない? 今日会社で何かあった?」
躊躇いがちにそう訊けば、図星だったらしく、ぐ、と言葉を詰まらせる。
「い、いや、その…どのようなルートからかは知らないんだけど、あんたがここに住んでいることが、そこはかとなく知られてしまっているようで」
「会社の人に?」
「そう。そうなんだ。それで、あんたは男なんだけど、そういう男じゃないとか、つまりそういう話になって」
「つまり、おれ、ナナカの恋人に思われたってこと?」
「……ざっくりとまとめるとそういうことになる、な」
珍しいことにしどろもどろになりながらそう答えるナナカは、頬がちょっと赤くなって壮絶に可愛い。おれとの噂話があることを正直に話してくれたことも嬉しいが、普段にないナナカの表情におれはどうしようもなく浮かれる。
「それで、ナナカはどう思ったの、その話を聞いて、さ」
氷枕をテーブルの上に置いて、おれはソファから降りて、のそのそとナナカの方へ近づいた。しっかりと隣を陣取って座ったが、予想外にナナカが距離を取ってくることはなかった。
「………正直、よく分からない」
たっぷり沈黙したのち、ナナカはそう口を開いた。
「あんたのことはすごく大事だし、何を措いても守ってあげようって思えるけど……」
やっぱりな、とおれは思う。ナナカと出会ったとき、おれは十にも満たなかった。そのときナナカは既に大人の女性で、おれはどうしたって子供だった。異性として意識しろというのは難題だろう。
でも、ナナカの中でおれの存在が大きいことも、よく分かっている。そして、こうも動揺を露わにするのは、少なくともおれが以前のおれではないと分かっているからだろうと察することもそう難しくはなかった。
「けど?」
続きを促すおれに、ナナカは意を決したように息をついて、突き刺すような視線をこちらに向けた。
「あんたは、どう考えているの?」
「どう、って?」
「私を、どうしたい?」
「ど…」
言葉を失った。どうって、どうって、そんなの、分かりきっている話で。まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかった。
「おれは、ずっと言ってるけど、ナナカが好きだし、恋人になりたい」
「うん。それは、分かってる。それでどうしたいの?」
こ、これは具体的に答えろということらしい。な、ナナカを食べたいって言えばいいんだろうか。いや、それだと伝わらない? 抱きたい? いや、それだと直接的すぎるような…、し、したい? とか? ナナカ普段澄ましてるからなあ。普段と違う感じで、うーん…
「め、めちゃくちゃにしたい?」
思わずそう言ってしまったが、すぐに後悔した。ボンッと弾けるようにナナカの顔が真っ赤に染まったからだ。珍しいな。可愛いなあ。…と萌えている場合ではない。
「な、な、な、なに、なに、い、言って…」
「わーわーわー!今の無し! 偽らざる本音だけと今の無し!」
「ほ、本音…それがあんたの本音…」
「わーっ! ナナカ引かないで! ほら、おれ二十歳だしね、ヤりたい盛りの……わっ! 今のもなし!」
「わざとか! わざとだな!」
突然その場に立ちあがったナナカは、絶妙な位置に正拳突きを放ってきた。殺意さえ感じたその一撃をすんでのところで受け止めたが、急に体勢を変えたせいでおれはバランスを崩し、床に背を打ち付ける格好となる。拳は掴んだままなので、ナナカも巻き添えになったのは言うまでもない。
ふっと顔にかかった影に、おれは目を見張った。
耳に触れるナナカの横髪からふわりと好い匂いがして、全身に圧し掛かった柔らかい身体に息が止まりそうになった。
転んだ瞬間、ナナカは目をつむったらしい。眉を寄せ、ゆっくりと目を開けるその様を、おれは下からジッと見つめていた。
「ナナカ」
声は掠れ、体がひどく熱い。
じっと見つめたおれの視線と、ナナカのぼんやりとした視線が交わったとき、時が止まったような気がした。
「ナナカ、キスしたい」
「なに、言って」
「キス、してよ。お休みのキス」
甘えた声で乞うおれを見下ろして、ナナカは眉をハノ字にする。かつてのおれは、こうしてキスを強請った。そうしてナナカは、いつもこんな風に困った顔をした。
あ、と思う。ふっと顔が近づいてきて、そっと額にキスが降りた。
「おやすみ、私の愛しい子」
泣きたくなるほど嬉しい、そして切ない言葉だ。ナナカは分かっていない。それだけじゃ、足りないってことを。後頭部をぐいと掴み、瞠目するナナカの顔を引き寄せる。ちゅ、と音を立てて軽く口づける。小さな悲鳴が柔らかな唇の端から漏れる。それさえ呑みこんでおれは何度も何度も口づける。
「ね、していい?」