うわさばなし
『男と住んでるんだって?』
無線機のイヤホンから聞こえてきた予想外の言葉に、私は息をひそめている状況も忘れ、噴き出しそうになった。
相手にしてみれば暇つぶしの話題の一つにすぎなかったらしく、軽くせき込んだ私に、悪びれる様子もなく『わりー』なんて声をかけてくる。
「…どこで聞いたわけ」
『どこって、風のうわさ? その反応だと、マジなんだな』
どうせ暇な誰かが手慰みに調べたのだろう。今となってはどうでもいい。歩く拡声器であるこの男が知っているということは、大方の連中に知られているに違いない。面と向かって聞いてくるのは、もう随分と長い付き合いのこの男くらいだろうけれども。
「性別は確かに男だけど、そういう意味の男じゃない」
『ふーん、ついにおまえにも男ができたか。どんな猛者だ?』
相変わらず失礼な男だ。この軽さがなければ、組みたいと申し出る者も少しは増えるだろうに。
「だからそういう相手じゃない」
『ま、なんでもいいさ。押し問答には興味ない。俺が言いたいことはだな――』
「いい加減通信切るよ」
『おまえ、この仕事そろそろやめねぇ?』
「は?」
そう訊き返したとたん、パシュっと乾いた音が鼓膜を震わせた。ハッとして振り向くと、死角から私を狙っていたのだろう、スーツの男が一人コンクリートの床に仰臥していた。もう随分と久しぶりに、ひやりとした感覚が私を襲う。
『ばーん。よそ見してると危ねぇぜ』
呑気な相棒の声が、イヤホン越しに聞こえた。
不意の出来事に未だ心音は不規則だ。
『ま、こういうこともあるから、仕事辞めろって話。収入は減るだろうけどな、女の幸せってやつ? おまえも味わう時が来たんじゃねぇの?』
「何馬鹿なこと言って、あいつはだから」
『“あいつ”が誰だか知らねぇが、何そいつヒモなわけ?』
ヒモ…。その言葉に一瞬言葉を失う。
いやいや、あいつはただの短期(予定)滞在者だ。あちらでは、私は詳しく知らされていないが、言うところのお坊ちゃんの立ち位置だし、生活費のことなど考えてもいないのだろう。ほとんど魔法のカード(クレジットカード)で支払っているから、お金のこともまるで気にならない。そうに違いない。それに私はあいつの世話係で、――いや、もう世話係ではないけれども…。
『だとしても働けって尻叩けばいい話じゃねぇか。その、なんだ? 子供とかもさ、この先、育てるんだったらやっぱり、傍にいたいだろ。こんな稼業じゃそれは中々難しいぜ』
相棒の経歴は未だ謎に包まれているが、妙に真に迫った物言いだった。言いたいことはよく分かる。私はもう若くない。以前は家族など興味もなかったし、縁遠いものだと思っていたが、あちらに行ってからというもの、人恋しい時間がどんなものか分かるようになってしまった。
でも、あいつと結婚? 世話をしていたかつての子どもと?
「結婚とか、そんなの考えられない。歳が10は違う」
『いやいや、10歳くらい別にどうってことねぇよ。ていうか年下ってことに普通に驚いたぜ。まああれだな、男の立場から言わせてもらえば、10ってことはあれか、今二十歳くらい? そうなると、なかなか耐久力もあるし、欲求も盛んな時期だからな。やっぱりそれも含めて、この仕事はやめた方がいいぞ。腰が死ぬな』
「さらっと下ネタやめろ?」
直後放たれた銃弾は、怒りを込めて標的の額へと撃ち込まれた。
『ひゅー。その腕がもうすぐ引退かと思うと惜しい気もするぜ』
「だから、そういう予定は」
『なんだぁ? そいつは一緒に暮らしてるってのに、口説き文句の一つも言わねぇのか?』
「く…」
絶句した。
いや、ないことはない。好きだと言ってくるのはほぼ毎日のことだし、婿になるならおれがいいとか、そんな発言もあったような気がする。恋人になりたいとか、デートしたいとか…、いやいや、あれはデートという名を被ったただのお出かけだ。さらりと流してきたものの、思い返してみると結構恥ずかしいものである。
「…………………く、どかれて、いないことは、ない」
『なんだそりゃ。それでおまえはなんていうんだよ』
「え、何てって…『うん』とか」
抱き着いてきたときは、「離れろ」とか「はいはい」とか適当にあしらったこともあったな。
『ひー! 悪い女だな!』
相棒は可笑しそうに笑いながら連続発砲した。どれも命中するところが憎い。
『好きな女と一つ屋根の下で、口説いても素っ気ないって、もうあれだな、押し倒――ブツッ』
それ以上聞きたくなくて無線の電源をオフにし、ため息をつく。
変な言い方に聞こえるが、口説かれていることは認めよう。だが、あいつの目指すべきは果たして私との結婚なのだろうか。大体、あいつは一時的にこちらにいるだけの存在であって、私はもうあちらに戻る予定はない。
物思いにふけっていると、足元に一発銃弾が撃ち込まれた。飛んできた方を見やると、にやけ顔の相棒がしきりに何か訴えている。下手に無視して、待ち受けているのは十中八九面倒くさいことだ。
無線の電源を入れると、からかうような相棒の声が聞こえてきた。
『なぁにー、照れちゃって思わず電源切ったってわけかなあ?』
「ふざけるなよ?」
『まぁまぁ、真面目な話、貴重な年下男子をな、下手打って逃がすんじゃねぇってことだ。一緒に住んでるってことは、おまえも満更でもねぇんだろ? あれか、弟とか、そんな感じか? 何でもいいが、ちょっとでも情があるなら、男として見てやれよ』
弟ではない。かつてのいとし子だ。誰より愛したからこそ、私は今ここにいる。
「……愛していた。あいつを、私は愛していたけど、でもそれは、男としてじゃない」
『男としてとかどうとか、そんなのは後付でいい。おまえはそいつが大事なんだろ? いなくなったら寂しいだろ? 心の中が、妙な感じにならねぇか?』
あいつが、いない。そんな情景を描いてみる。
たった数日なのに、あいつは私の生活をあっという間に浸食して、心の空洞を埋めて、私の隣を陣取って。
それなのに、あいつがいない。そんな情景を描いてみた。
『大事なら、どんな結果にしろ、面と向かい合ってやるのが正解だと俺は思うぜ』
分かってる。そんなこと、分かってる。だから私は、逃げたんだ。
そう思ったけれど、口に出すことはできなかった。