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触れる、朝

 かつてのおれは、触れることに臆病だった。柔らかな白い肌に、まるで病のように焦がれながらも、あと数ミリで触れるときになって抗いがたい恐怖に襲われた。この身に満たされた凶悪な力は、あの人にとって凶器でしかなく、ふとしたときに壊してしまうのではないかと悪夢に等しい考えに取りつかれた。


 それでも、体を縮込めるおれにかまわず、あの人はいつだって、あっという間に境界線を越えてきた。まずは頭、そして頬、緩やかに肩を撫でて、おれがおずおずとその背に腕を回すと、ぎゅっと抱きしめてくれた。温かさを感じたあのとき、ぎゅっと胸がつぶれるような衝撃を覚えた。鼻先がつんと痛み、じわりと瞳が濡れたことを、昨日のことのように覚えている。







「……そろそろ、出かけたいんだけどね」


 あの人の困ったような声が耳を撫でた。黒のスーツに着替え、玄関で靴を履こうとかがんだ彼女を、おれは後ろから抱きしめた。肩に鼻先を埋め、馴染みのシャンプーの香りに安堵し、華奢な肩を覆うように腕を回した。解放しようとしないおれに、あの人は嘆息し、一段高いフローリングの床に腰掛けた。




 現在のおれは、ありていに言えば本能のままに、あの人に触れる。あのときと立場が一転したようだ。おれが手を引くと、あの人の指先に震えが走る。抱きしめれば、やはり肩が不自然に揺れた。耳朶に触れると、ほんの僅か体が硬直する。


――抵抗、はない。

だからおれは止めない。



「…ね、いうこと聞きなさい」


 呆れた調子の裏に、若干の戸惑いが見え隠れすることに、おれは内心狂喜した。まるで犬猫のようだけれど、遠慮なしに頬と頬を摺合せ、甘えてみせる。


おれはいつだってさみしい。

あなたがいないと、生きていけないよ。

行かないで、傍にいて。


 心の中に、感情が降り積もっていく。でも言わない。おれの言葉は上滑りして伝わらない。まるで子供の様な駄々に聞こえるだけで、湧き出るような愛しさと、額づいて懇願し、傍にいてと慟哭するほどの寂しさを覚えていることなど、分からないだろう。いや、伝わらないほうがいいのかもしれない。それは本来、子供が持つような感情ではないはずだ。色とりどりの紙に包まれた可愛らしい甘味にはない、ふとすれば刃物のような凶器を孕む、中毒性の高いものだ。



「…ナナカ」


「ん?」


 振り向こうとしたあの人を、おれは振り向かせまいと抱きしめる手に力を込めた。


 言葉なんて、こんなときどうしようもない。

 白黒の“絵本”の中で、一組の男女が空白の会話の波間を、喘ぐような口づけで流離っていく。吹き出しは無音を表現していたが、二人の息遣いをたしかに聞いた。こんなとき、互いにどんな言葉をぶつけ合うというのだろう。好き、愛している? それともなんだろう。交感の時を、触れること以外何に費やせばいいのだろう。


――優しく触れる。


 それだけで、代えがたいほどに愛しく、大切だと伝わるはずだと、おれは本気で信じている。少なくとも、あの人から教わったのはそういう愛情表現だ。


 おれは、あの人に触れられて初めて、愛されることの喜びを知った。



「なんでもない、いってらっしゃい」


はにかみ、腕を解いた。ようやく振り向いたあの人が立ち上がり、玄関先に座り込んだままのおれを見下ろす気配がした。


「顔を上げて、見送ってくれないの?」


 いつもより明るい、どこかからかうような声が落ちてくる。


 おれって、ばかだ。ほんと、ばか。



「みおくる」


拙い口調で言って、顔を上げた。耳のあたりが熱くなるのを感じた。子供の様だ、と思われたと、確信した。恥ずかしさと、この人限定に感じる嬉しさがないまぜとなって、どういう表情をしたらいいか本当に困る。つい、とやんわりと握られた手を取って、円い爪を指の腹で撫でた。


「いってらっしゃい、ナナカ」


にこりと笑って、送り出す。あの人は淡く紅に色づいた唇を歪ませて、ほほ笑んだ。


「いってきます」


 あの人が遠ざかる。おれの手から逃れ、冷たい金属のノブを回した手を、おれはじっと見つめていた。あの人がこのまま消えてしまうわけでもないのに、胸が痛む。さみしい。かつて置いて行かれたことの、トラウマなのだろうと自己診断した。別離の扉、と呼ばれる異世界への扉。目の前にあるのはただのドアだ。あの人を奪うわけじゃあないんだよ。


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