タイトル「女」
タイトル「女」。
私という人間にそんな小説を書かせたら、さぞつまらない内容に出来上がるだろう。もちろん、これまでの人生を否定する気はない。ただ、女として必要な要素が欠落し、別の要素で武装したことは否めない。最近とみに、そう感じることが多くなった。
「ね、ナナカ、聞いてる?」
隣を歩くあいつは、屈託のない笑みを浮かべて私を覗き込んでくる。聞いていると答えれば、あいつは少しむっとした顔で唇を突出したが、すぐに表情を緩め、「まあいいや、せっかくのナナカとの初デートだし」と自己完結してしまった。
つないだ手にぎゅっと力が込められて、私は自分のそれよりずっと温かい温度と一回り大きな手の感触に戸惑いを感じずにはいられなかった。子供のころから綺麗な手をしていたが、指はずっと長く、骨ばったものに変化していた。ときおり甲を撫でてくる親指の爪は、噛み痕などない滑らかな形をしていた。
「おれ、デートしたいな」
昨夜遅く、今日が休日と知るや、あいつは先日買い込んだ雑誌を片手にそんなことを言い出した。
あいつがいなければ一生手に取ることのなかった男性誌は、「ナナカは見ないで」ときつく禁止されてしまい、別段興味はないけれど、書店で開いたきりになっていた。付箋や折癖のついたそれは、今やあいつの愛読書となっていて、分厚い魔術書よりもずっと興味深いものらしい。漫画も一通り読んでいるようだが、買い与えたケースにきちんと整理されており、どんな状態かは確認していない。
「デート?」
縁遠い言葉に怪訝そうに返せば、あいつは嬉々として雑誌を開き、ページの一部を見せつけてきた。“彼女が本気になるデートコース特集”とでかでかとした文字が躍っている。チャート式になったそれを視線で追っていけば、帰着点はあからさまな場所だった。“肉食系でいけ”とご丁寧な助言が付記してある。
「…………」
私は思わず黙り込んだ。これを見せつけられて、どう解釈すればいいのだろうか。考えることを放棄したい。
私の表情をどう思ったのか、あいつは私の隣に並んでページを覗き込んでくる。
「おれさ、ナナカのこと本気だよ」
ぎょっとして振り向けば、視線が合致した。
「この方法でナナカが本気でおれを見てくれるなら、試してみたいって思ったんだけど」
拗ねたようにそう言って、困ったように苦笑した。
口を開いてみるものの、私の脳裏に気の利いた返答は浮かばない。あいつの指が、紙面のチャートをなぞっていく。いくつかあるうちの「昼・ショッピングコース」だ。
「まずは食事でしょ、次は買い物して、そこでプレゼント。さりげなく欲しいものを探れって書いてある。ブランドものか一点ものかは彼女の好みで決めろってさ。歩き疲れたら面倒がらず休憩を取る。甘いものに定評がある店を選べ。……ナナカ、甘いものあんまり食べないよね?」
「そう、だね」
「休憩したら、また買い物につきあうんだって。疲れた顔はするな。質問には素早く答えろ。荷物はさりげなく持ってやれ、だって」
読み上げる項目を満たすのは、どこかの紳士か従者くらいだろう。そこまでつくされるのはごめんだ。買い物は一人で行きたい性分なので、このコース自体気に入らないのが本音だった。
「ナナカは、これじゃ駄目だよね」
「……よくお分かりで」
げっそりとして答えれば、あいつは嬉しそうに破顔する。
「よかった。おれ、身も心もナナカに捧げても、体のいい召使なんかになろうとは思ってなかったから」
辛辣な口調でとんでもないことを言ったあいつは、固まった私の耳元に唇を寄せた。熱い吐息が耳朶を撫でる。
「ね、ナナカ。好きな人と出かけることがデートなんだよね? おれ、ナナカと出かけたいな。ご飯食べて、本を買って、少し歩いて、そしたら帰る。それだけでいいから。ナナカ、おれはまだ恋人じゃないけど、おれのことちゃんと好きでしょ?」
私は思った。機会があり次第、漫画の中身を確認しよう。
(デジャヴだ)
こうして隣り合って昼間の街を歩いていると、すれ違う女たちの視線があいつに吸い寄せられるのがよく分かった。
気づいているのかいないのか、あいつは使えない男性雑誌について見解を披露している。はた目から見れば、会話を楽しむ恋人同士にでも見えるのだろう。デートだから、とつながれた手が誤解を裏打ちし、浮かれたあいつが「ナナカ、今なんて言った?」と顔を寄せてくる仕草は駄目押しとなっているに違いない。
「視線が痛い…」
ぼそりと呟けば、あいつは「ん?」とその顔を近づけてきた。やや首を傾け、私の身長に合わせて屈んでくる。距離を取ろうとしても、つながれた手を起点にぐいと引き寄せられ、じゃれあう恋人同士のように顔を寄せ合う結果となった。
視線が実体化すれば、私の身体には無数の穴が開いただろう。じわり、と何か言い知れない感情が湧きおこる。
――羨望の色を濃くした視線を浴びることは、決して初めてではない。
『ナナカ、気にしちゃダメだよ』
幼いあいつは廊下の途中で立ち止まると、私の手をぎゅっと握り、見上げてきた。すれ違う女官の私を見る目には、はっきりと蔑みの色が浮かんでいた。力のない者と、見下されているのだ。
『大丈夫。気にしてない』
本心からそう答えた。しかし、彼女の目に滲んだ感情、おそらく嫉妬だろうそれを忘れることは難しかった。彼女がこの幼い子どもに見出したのは、膨大なる力だろう。恐れ、忌避しながらも、執着せずにはおれない彼女たちを、私は頭から否定することができなかった。つないだこの手が離されることを、私はどこかで恐れていた。あいつの力ではない何か特別なものに執着しているからなのだろうと、他人事のように分析した。
今私の隣に立つ男は、自らをもう立派な成人男性だと主張する。漫画の影響なのか、私へと触れる機会はいや増した。嫌悪を感じないのは、かつての愛し子だと本能で分かっているからだろうか。それとも、姿かたちのすっかり様変わりした“男”として――と考えて、思考することを止めた。
私はかつてあいつを、愛し子として愛した。酷く愛した。それ以外にまだ、何かあいつに求めようとしているなどとは考えたくない。
別離の門をくぐった私を、嫌ってくれればよかったのに思う。いや、忘れてくれればよかったのに。そうすれば私は、思い出の中であいつを愛し続けただろう。思い出の中のあいつに、変化など与えなかっただろう。
「ねえナナカ、お昼なに食べたい?」
そう訊いてくるあいつは、まるで無邪気な子供だ。私という女は酷いんだよと囁けば、あいつはなんと返してくるだろう。幻想の中で、あいつにとっての私はどれだけ美化されているのだろうか。そしていつか、そのイメージは砕かれるのだろう。――木端微塵に、砕け散る。そのときあいつはどうするだろう。
「ナナカ、聞いてる?」
聞いていると私は答えた。
――きっと私は、泣かないだろう。