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魔法の指、魔法のカード

 一般的に言えば、ペットを飼うようなものなのかもしれない。玄関を開ければ嬉しげな足音が聞こえてきて、大型犬に似た成人男子が満面の笑みを浮かべて飛びついてくる。寂しかったよと胸に顔を埋めようとするので頭をはたいた。悔しそうに唇を尖らせ、今日も悪い子だったよ、と報告してくる。分かっている。あいつはちっとも悪い子ではなかっただろう。娯楽もない部屋で一人、私の帰りを待っていたに違いない。

「おかえり、ナナカ」

「ただいま」

 すり寄ってくるあいつに、思わず笑みが浮かぶ。二人暮らしとなって早一週間。早いものだ。

 一人暮らしを始めたのは、中学を卒業したあとだった。可愛げのない少女の引き取り手はいくらかあったが、部屋の静けさを好む私は沈黙を貫き、遺産を継いで一人暮らしを始めた。当然帰宅部で、課外活動に精を出した。あの頃の私は、夜の街が好きだった。血の色さえ黒く塗りつぶされる、漆黒の闇が好きだった。



「ね、ナナカ。明日一緒に買い物行こうよ」

 いそいそとスーツの上着を脱がせ、皺にならないようにハンガーにかけるあいつは、まるで新妻のようにこまごまと働く。この世界に非常識だろうあいつを外で働かせる気は当然なく、それなら家事をしたいと強請られ仕方なく許しを与えた。とはいっても、基本的に一人で外に出るのはNGだ。出来ることは物を壊さない程度の掃除と、洗濯機のスイッチを押すことと、皿を割らない程度の食器洗い、洗濯ものを取り込むこと、泡だらけになりながら奮闘する風呂掃除くらいだった。初めから期待していなかったが、料理の腕は壊滅的で、まな板に直角に包丁を突き立てたときは驚いた。鋭角に鋭く真っ二つにされた人参は、惨殺死体のごとく床に転がっていた。

「買い物? 何か欲しいものがあるの?」

 二人で買い物に出て随分楽しんだようで、あいつはとにかく買い物に出たがった。食材に関しては仕事帰りに私が買ってくる。料理のできないあいつのために作り置きし、冷凍食品も常備している。卵はあいつの練習用に二パックは買い置いてあった。

「んー、暇だから本が欲しいんだけど、だめ?」

 かつて私がそうであったように、世界を渡ると補正が施されるようで、あいつはこちらの言葉を話し、読むこともできる。うちにある本はすべて読み終えてしまったようだ。テレビもパソコンもないこの家で、本は唯一の娯楽だったのだろう。見た目と言動に反して、あいつの趣味の一つは読書だ。あちらにいれば、巨大な書庫を自由に使え、望む本の入手も簡単だっただろうに。勝手に来たとはいえ、少し不憫だ。

「……明日は朝から仕事が入ってるから、今から行く?」

 時刻は八時過ぎ。近所の書店は十時閉店だったはず。私の提案に、あいつは嬉しそうに破顔した。



『ナナカは本、好き?』

 好きだと言えば、幼いあいつは嬉しそうに破顔し、私の手を引いて書庫へと連れて行った。第一書庫と呼ばれる、ちょっとした迷宮に似た巨大な書庫はあいつの庭みたいなもので、司書に目録を持ってこさせるとテーブルの上に開いておき、どんな本が読みたいかと尋ねてきた。あちらのことを何も知らなかった私は、歴史や概要の書かれた本を所望した。するとあいつは不意に指をくいくいと動かして、何が起こるのだろうとぽかんとしていると、数冊の本が宙に浮き、こちらに飛んできて、テーブルの上に積み重なった。その一つを手に取って、あいつは私に差し出した。

『この本は客観的に書いてあるからお勧めだよ。先入観なしに読めるから』

 さんざん可愛げがない子供だと陰口をたたかれてきた幼いあいつの言葉に、私は思わず笑ってしまった。好奇心に満ち満ちた生意気な口調のあいつのどこか、どうして可愛くないと言えるのだろう。私よりずっと小さな手で分厚い本を抱え持つ幼い子は、あれこれと講釈をつけてお勧めの本を紹介してくれた。きっと一度は目を通しただろうに、私の隣につきっきりで、平坦な一文をイメージとして映画のように見せてくれた。とても分かりやすいと言えば、それは嬉しそうに笑った。

『ナナカは何にも知らないから、おれが全部教えてあげる』

 ありがとうと丸い頬を撫でると、子猫のように擽ったそうに体をよじった。可愛い私のいとし子。本ばかりがすし詰めになった第一書庫は広すぎた。ここはあの子の専用だったと、あとから司書に聞いた。



「そういえば、ナナカがこっちに来たとき、おれと書庫に行ったの、覚えてる?」

 客もまばらな書店の中、あいつと私は連れ立って書棚を漁っていた。ふとあいつはそう訊いてきて、私が頷くとほっと息をつく。忘れるはずもない。あんたとの思い出はすべて、一つの取りこぼしもなく、大事に大事にしまってあると言えば、かつて可愛らしい子供だったあいつはなんと言うだろう。

「おれはこっちの歴史も概要も興味ないけど、ナナカがどういう本が好きなのか知りたいな」

「うちの本は全部読んだんでしょ?」

「料理の本と、経済書と、日曜大工の本とか、ナナカの好みは何かって疑問には答えてくれそうにないよ。料理の本は、食べたいところに付箋はっておいたからあとで見て。おれ、ナナカの料理が一番好き」

「よいしょしなくてもリクエストくらい応えるから」

「お世辞じゃなくて、本当に。ナナカはいいお嫁さんになれる。おれ保証する。お婿さんがおれだといいなあって妄想してもいい?」

 何と答えていいかわからず沈黙した。あいつは別段気にした様子もなく、雑誌を手に取りページをめくっていた。傍目から見れば、私たちはいったいどんな関係に見えるのだろう、とふと思った。年齢を基準にすれば姉弟が妥当だろう。成人男子となって現れたあいつに対し、私はそれほど歳を重ねていない。姉弟にしては似ていないのが問題だ。――それならば、一体何に見える?

「ねぇナナカ、ここ見て。“女心が分かる漫画ベスト!”って特集があるんだけど。漫画って絵本のこと?」

 男性誌によくもそんな特集があったな、と思わず感心してしまった。世の男性は意外と切羽詰まっているらしい。あいつは嬉々としてページを見せてくる。

「ね、ナナカ。おれもこれ読んでみたいな。この中でナナカお勧めの漫画、買ってもらっていい? 読んだら女心が分かるなんて、魔法みたいだね」

 好奇心たっぷりにそう言ったあいつの顔はあの頃とまるで変わっていない。あのとき、幼いあいつは親切にも本を紹介してくれた。第一書庫より随分と小さい書店の中、漫画を数冊探すことなど造作もない。雑誌を受け取り、漫画コーナーへと向かう。漫画はあまり読んだことがないので、残念ながらお勧めと呼べるタイトルはなく、とりあえず載っている物はすべて買うことに決めた。カルガモの子供の様に後をついてくるあいつの手に次々と重ねていき、不安定にぐらつくほどまで積み上げて、私は雑誌を片手にレジへと踵を返す。

「え、えっ、ナナカ? これ、もしかして全部買うの?」

 動揺も露わにあいつが呼び止めようとするが、大人買は大人の特権だ。権利を行使して何が悪い。従者をつれて闊歩する王様のようにレジへと向かい、すべて会計するようにと店員に告げた。塔と化した漫画と、最後に雑誌を添えて、財布からカードを取出して提示する。店員は呆気にとられていたが、すぐさま我に返ってレジ打ちを始めた。魔法の指はないが、私には魔法のカードがある。後ろでおろおろとこちらを窺う意外と小市民なあいつに、からかう様に言ってやった。



『ナナカがいるなら、あっちのテーブルを避けて、ふわふわのソファを置こうかな。そうしたらのんびり座って読めるでしょ? 寝転んだって平気なように、いっそのことベッドにしちゃう? ちょっと殺風景だから、模様替えもしたいね。ナナカはどう思う? ナナカは何色が好き? そうだ。その前にお茶ができるスペースを作らないとね。何もない日は朝からここに来て、お昼も三時のおやつもここで食べようよ。ここはおれの専用だから。今日からナナカと二人の専用だから。ここにいれば二人きりだもん』


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