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届かない手紙

ブログより転載

 乾いた唇を無意識になぞるあの人をちらと盗み見て、おれは気づかれないようにそっとため息をついた。時折猛禽のような鋭さを持つその視線は、ただぼんやりと窓の外に向けられていて、熱い視線を送り続けるおれなど見向きもしない。そのくせ蟻の入る隙間もない要塞のごとく、その気配は少しの緩みもなく、あの人とおれの境界にきっちりと線引きをしていた。

 おれはといえば、手にペンを持ち、机上の一枚の紙に向き合っているだけだ。

「……ねぇ、ナナカ。ホントにセルエスに手紙書かないとダメ?」

 甘えたように尋ねたが、「駄目だ」と簡潔に答えるだけで、振り返りもしない。冷たい反応だ。もちろん嫌いじゃない。“ナナカのすべてが好き”とでも耳元に囁いてみたい。もちろん、そんなことをすれば嫌そうに顔を顰められるか、黙殺されるか――何にしろ、すげない反応しか想像できない。この人に甘えられたい。でも正直に言えば、おれは甘えたい。

 まったくもって何を考えているかわからない人だ。そういう人を好きになったのだから、それを解き明かすことはおれの一生の課題だとでも言うべきか。貪るようにすべてを知りつくしたい。たとえば今、何を見ているのか、とか。

「――ねぇ、ナナカ。キスしたいんだけど」

 そう口を尖らせたが、あの人は黙り込んだままだった。



 あの人の部屋に転がり込んで、はや三日。同居と同棲の隔たりをひしひしと感じながら、おれは今日もあの人のそばにいる。詳しくは聞いていないけれども、あの人の仕事はものすごく不定期だ。薄暗い部屋に取り残されて数日、今日数十年ぶりに「おはよう」を交わしたのがその証拠。目覚めると、ソファで眠るおれを見下ろすあの人と視線が合って、おれはぎょっとして小さな悲鳴を上げた。それに対して半眼したあの人は、呆れたように「おはよう」と頬を緩ませた。なぜか気恥ずかしさを覚えたおれは、寝癖頭を慌てて整え、つっかえつっかえ同様の挨拶を返したのだった。

 “おはよう”という言葉を交わすと、自然とおれの視線はあの人の頬へと向かう。幼いおれは、こっそり市街地に降りて、視察と称した冒険をしていた。市井の民が互いに言葉を交わして、親しげに抱擁し、あるいはその頬に口づけしていた。一日の始まり、そして終わりを、最上の幸せが始まり、これから先もずっと続いていくかのように――幼いおれには奇妙に思えてならない行動だった。だからあの人に出会い、あの人が「おはよう」と言って抱きしめてくれたあと、おれは目の前の最上の幸せが去ってしまわないようにと願いを込めて、その頬にキスをした。幼く、拙い、ほんの僅か触れる程度のそれだったが、これこそが幸せなのだろうとそう思わせてくれる細やかな朝の儀式だった。そして“おやすみ”は、今日というあの人との時間を名残惜しく感じつつ、また明日あの人の視線を独り占めにできるのだと冒険心に似た浮足立った気持ちを覚え、穏やかな眠りの世界へと誘う優しい(まじな)いだった。――あの触れ合いが、今は恋しい。でも、おれの身体は縮まらないし、頬へのキスで甘んじるおれでもない。



 邪な考えに寄り道しつつ、おれは気だるげにペンを動かし始めた。ちゃんと分かっている。こんなもの書いたって届かないし、近況報告なんて無駄だ。心配性で、かつ強かな執事殿が待っているものはそんなものじゃない。

「ねぇナナカ。この手紙、あとでチェックする?」

 そう訊けばようやくあの人はこちらを向き、

「しないよ」

 怪訝そうにそう答えた。分かっている。確認だ。あの人はいつだっておれのやることに口出ししようとはしなかった。でも一応、今回は保険のために聞いておいただけだ。

 おれはペンをさらさらと走らせる。



【拝啓 ナナカ殿  おれはあなたが大好きです。あなたもきっとおれのことが好きだろうけれど、その愛はどういう種類なのか知りたいな。おれのは甘酸っぱくて、どろどろして、粘着質です。あなたのはきっと、野原を過ぎ去る春風みたいなものかな。それとも金色の麦の穂かな。安心できて、優しくて、穏やかなんだろうね。おれはね、あなたに夢中で、ゆりかごを蹴飛ばしてあなたを奪い去りたいと思っています。】



 読み返し、口角が上がった。


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