05『街』
「――――…………、おえぇ」
刺すような頭痛と、異様な吐き気で我に返った。
同時に感じたのは、ああ俺にはちゃんと身体があるんだ、という奇妙な自覚だ。
痛むというコト、苦しむというコトは、即ち感覚があるというコトで、それはつまり、身体が存在するというコト。
そんな当たり前なはずの事実に、なぜだか少し、ほっとした。
口の中に、ジャリジャリとした砂の味を感じる。それを唾と共に吐きだしたところで、俺はあることに気がついた。
――即ち。
自分が、地面の上にうつ伏せになって倒れている、ということにだ。
「…………、ぅあ」
これは、転移に失敗したのだろうか。
それとも仕様なのだろうか。
どっちだったところで嫌な気分だ。
とにもかくにも気持ちが悪かった。内臓を全て裏返しにされたような、なんとも言えないダメだコレ感が、身体の底へ粘ついて沈澱していた。
衣服に付着した土埃を払いつつ、立ち上がる。
頭痛も吐き気もその頃にはほぼ収まりつつあって、俺は若干ばかりの安堵を覚えていた。
そしてようやく、落ち着いて辺りを観察できるようになる。
周囲は、見たこともないような街だった。
正確には、現実には見たことのない風景、というべきか。
ところどころに植物があしらわれた特徴的な街並みは、しかし、現実以外でならば確かに記憶にある光景だ。
――《空透領域》。
SoCにおける、最大にして唯一の、広大なるプレイヤータウンである。
もっとも大層なネーミングの割に、大抵のプレイヤーの間はほとんど《街》としか呼ばない。たった今使用した転移晶石にしても、プレイヤー間での呼称はもっぱら《ワープ石》とか、酷ければ《石》だけとか。その程度だ。
「さて……どうやら無事に帰還できたみたいだ、け、ど……」
周囲の人が、異様な目で俺を見ている。
「……」
まあ、急に街中でのたうつ人間がいれば、それは注目を集めるだろうが――それよりも。
見た瞬間に、あるいは見られた瞬間にわかった。
――彼らはNPCじゃない、人間だ。
ここまで感情の溢れる人々が――主に何コイツ的な怪訝な思いだとしても――先の奴らと同類とは、どうしたって思えなかった。
「……さて」
俺は人目を避けるように、慌てて近くの路地へと走った。
なんかスゲエ目で見られてしまった。物凄い不審人物を見る顔だった、アレは。
人を探して街に来て、その街で今度は人目から逃れようとするとは。
何をやっているんだ俺は。
「……さてと」
路地裏で俺は、腰からまたナイフを抜いた。
先の二の舞を演じる訳にはいかない。
とりあえず、すぐ横にあった壁を、ナイフの峰で殴りつけてみた。
「――――~~~~っ!!」
手、超、痛っ!
刀身は止められていた。めっちゃ弾かれた。反動で右手がめっちゃ痺れている。ヒットポイントは削られていないが、NPCどもの攻撃より痛かった。
……壁が、硬すぎる。今の俺なら、コンクリートくらいなら軽く斬れそうな気がしたが、とてもじゃないがこの壁は壊せない。
俺は次に地面にナイフを突き立ててみたが、やはり弾かれる。手が痛い。
「ゲームと同じ、か……」
フィールドなら、たとえば樹を斬ることもゲームではできた。だが街の中のオブジェクトは全て破壊不可能だ。それはここでも同じらしい。
俺は脳内のウィンドウを参照し、今度は適当な攻撃スキルの発動を試してみる。
……やはり発動しない。攻撃系のスキルもまた、街中では基本的に発動しないのだ。
――ならば。
「あんまりやりたくないんだが……」
最後に。
俺は、自分の手に、思いっ切りナイフを「おらっ!」突き立ててみた痛い!
「…………、っあ~……」
ただし刺された左手ではなく、刺した右腕の方が痛い。
というか、刺さっていない。壁や地面と同様、まるで金属のように硬い。いや、正確には手ではなく、そのほんの数ミリ前の空間に、見えない壁のようなモノが存在するのだ。刃はそれに防がれている。
ともあれ、とりあえずの確認はできた。これなら街の中で、いきなり襲われるような羽目にはなるまい。それさえわかれば十分だ。
俺はとりあえず、裏路地から大通りの方へ、回り込むように進路を取った。
「――――――――」
大通りへと立ち入った俺は、しばし言葉を失ってしまう。
白亜の石畳で舗装された街路。
辺りを覆う青々とした街路樹。
通りへ門戸を開く商店の数々。
そして、道に溢れる人だかり。
人がいる。
そのことへ、ようやく安堵している自分がいた。
だが――何よりも。
ゲームの中で幾らでも歩いてきたはずの街が、実際に目の前に広がっている。そのことに俺は、言い知れぬ感動を覚えていた。
フィールドの草原よりも、遥かに“ゲーム”の中だという感覚がある。それが妙に楽しかった。
……いやはや。
ついさっき大変な目に遭ったばかりだというのに、我ながら安い精神だ。
上へ上へと続く、高い街並みと空を見上げる。
空透領域は、SoCにおいてほとんど唯一のプレイヤータウンだ。
MMORPGには欠かせない類の施設――銀行や宿屋を始めとして、神殿、ギルド、クエストの発注所に、市場や商店に至るまで――の全てが、この街に集中させられている。
この手のゲームとしては、結構思い切った仕組みなのではないだろうか。
だが、その分というか。
この街は驚くほどに広い。ちょっと引くほど広い。全部見て回ろうとすれば、それだけで一日を費やせるくらいには広大だった。
「……、」
それにしても。
なにやら、街の様子がおかしい。
どこか刺々しいというか、恐慌とした空気が漂っている気がする。
辺りに溢れる人影は、恐らく俺と同じ境遇の人間だと考えて間違いないだろう。
見ればわかる。服装とか、雰囲気もそうだが、それ以前によく目を凝らしてみれば、相手がプレイヤーであることくらいはステータス画面で文字通りに見られるのだから。
つまり全員が、気づけばわけもわからずゲームの中の世界(という確証はないが)に送られてしまった――と。そう考えていいと思う。
時折聞こえてくる「ここはどこだ!」「あんた誰なんだ!」エトセトラの叫声や怒号が、そして何より人々の顔に色濃く影を落とす不安と不信が、俺の推測を強く後押ししていた。
中には、「これは何かのイベントなんだろ!?」などと叫んでいる者もいる。
街は完全に機能不全に陥っていた。
「……、うーん」
街に着いたら話を聞けるかと思ったが、どうやらそう上手くはいかないらしい。
誰も彼も、表情に浮かべているのは動揺と焦燥、不安や疑念といった感情だった。時折目が合う者は、誰しも敵意と警戒の込められた視線を向けてくる。
……こんな状況下で平然としている俺やリンのほうが、おかしいとでも言うように。
「――……」
というか。
思いっ切り訊きそびれたが、あいつは何者だったのだろう……。
あからさまに何かを知っている風だったようだが。
街に行けば何かがわかるはず。そんな風に勝手に思ってしまっていたけれど、こんな状況なら彼女に訊いておくべきだった。
ほぼ正円に近い形をしたこの街は、全部で11のエリアに区分けされている。そして円の中心部にある、それより小さな円として囲われた部分が、ゲーム内で死したプレイヤーが復活する神殿のある《零番街》。そして外周部を均等な形で十に区分けしたのが、そのまま《壱番街》から《拾番街》までの各エリアとなっている。
たとえて言うなら、新品のトイレットペーパーを横から見た図が近いと思う。芯の部分が零番街で、紙の部分を十に分けたのが壱番街から拾番街という感じ。
見る限りでは、表通りに溢れる人影は少なくとも三桁には届くと思う。
ここが何番街かは判らないが、仮にこのやたらと広い街の全域に同じ境遇の人がいるとすれば、その数は千や二千を軽く超えると考えていいだろう。
……とりあえず、誰かと話がしたい。
そう考えた俺は、辺りに溢れる人の中からなるべく冷静に見える人間を選んで、声をかけてみることに決めた。
「――あのっ!」
「うん?」
選んだのは、建物に背を預けて腕を組み、じっと街の様子を眺めている一人の青年だ。
俺と同じ黒の短髪で、見た目にはそう特徴がないが、こんな状況だというのにどこか余裕の見える、妙におおらかな表情が印象的だった。いやに綺麗な顔をした優男風で、女装とか似合いそうだなあ、とか何となしに思った。
年齢的には、たぶん同年代か、少し上くらいか。……いや、見た目の年齢からじゃ、中身の年齢は判らないのか?
装備的には、SoCでは――というかこの手のゲームでは――スタンダードな、金属鎧に片手直剣、加えて盾を持ち合わせた騎士風のスタイルだ。
「すいません、少しいいですか?」
俺がそう問うと、彼は朗らかな笑みを見せて答えた。
「何かな?」
ハスキーな声音。
玲瓏な響きがあるが、この状況ではむしろ頼もしく聞こえた。
「ちょっと話ができそうなヒト捜してたんだけど……」
「ああ、この状況についてだね」
「えっと――うん」
「ん。いいよ。僕も誰かと話がしたくて、冷静そうな人を捜してたんだ。君、名前は?」
「俺は――」
一瞬詰まった。
どう名乗ろうかと思ったが、考えてみれば俺は、HNも実名も同じなのだ。
ゲームを始めた当初、何も考えずにキャラ名を本名そのままにしてしまった。少し後悔しているが、あんまり本名だとも思われていない。
そもそも愛宕逢理という本名が、俺はあまり好きじゃなかった。字面だけ見たときに、まず男だと思われないからだ。
まあ、とはいえ他に名乗る名もない。
「――アイリ、です」
そう名乗った。
「そ。僕はサイス。サイスって名前だよ。ま、アバターの名前だけどね」
彼――サイスは、なぜか嬉しそうにそう言いつつ、通りの人々へ目をやった。
俺も釣られて視線が移る。
「なにぶん、状況が状況だしね。誰も彼も動揺してる。中にはパニックを起こしている人間までいる始末だ。そんな場合じゃないのにね。そんな状況じゃないのにね」
咎めている様子ではない。かといって憐れんでいるのとも違う。あえて言うなら面白がっているような……いや、それも語弊があるか。
どうにも籠められた感情の読めない言葉だった。
「……まあ、俺はゲーム世代っすからね。こんな状況でも、『あーなんかマンガみたいだなー』なんて考えちゃうから。パッと見は冷静に見えるかもしれないけど、戸惑ってるのは同じですよ」
なんと言っていいのかわからず、お茶を濁すような答えを俺は返した。
その言葉に彼も笑う。
「ははっ。確かにそうだ、僕もそうだ。考えようによっては、冷静じゃないほうが正しいのかもしれないね」
「……はあ」
くつくつと笑うサイス。
うーん、どうにも掴みにくいというか、有り体に言えば、正直かなり変な奴みたいだ。たとえるなら靄みたいな感じ。人選を間違ったかもしれない。
「――で、話だっけ。何か訊きたいことが? といっても、僕にわかることなんてほとんどないけど」
サイスはそこまで言うと、ふと思いついたように付け加える。
「ああ、それと。別に敬語じゃなくていいよ。別に敬語じゃなくていい。たぶん同年代くらいだろう? 僕も使ってないし。どうも敬語は苦手でさ」
「……わかった」
俺は頷き、改めてサイスに向き直る。
「えっと……、だな。こんなことを訊くのもバカらしいんだが……。ここってゲームの、『SoC』の中……だよな?」
なんだか自分が、ひどく間抜けなコトを言っている気になる。
いい精神科を紹介するよ、とか笑顔で言われたらどうしよう。
「――どうだろうね」
幸いにして、サイスはそこでボケてはこなかった。
「それはどうだろう。SoCと関係があるのは間違いないと思うけど、少なくとも僕は、人間がゲームの世界に、電子情報の中に入れるなんて話は、寡聞にして知らないよ」
「いや……それはそうだけど」
「勿論、君の言いたいことはわかる。君の言いたいことはわかるさ」
言葉を二度繰り返すのはクセなのだろうか。特徴的な話し方をする奴だ。
サイスは腕を組み、妙に大仰な挙動で頷きながら言う。
「でも、そんなこと、どうでもよくないかな?」
「え……?」
「だってそうだろう? 確かにゲームの中なのかもしれない。でもたとえば、どこかの異世界とかにいるのかもしれないし、もしくはただの夢、幻覚を見てるだけなのかもしれない。でもそんなこと、僕らには知りようがないだろう?」
「そりゃ、そうだけどさ」
「そう。だから、そんなことを考える意味なんてないさ」
「……確かに」
俺は頷いた。理のある考え方だと思う。
ここがゲームの世界だったところで、あるいは何かのファンタジー小説よろしく異世界だったところで、俺にそれを確認する術などない。今立っている現実が全てだ。
ならば、そのいずれだったところで執るべき行動は変わらないだろう。少なくとも当面は。
重要なのは、「ここがどこか」ではなく、「これからどうすべきか」のほうなのだから。
「悪いな。下らないことを訊いた」
俺は頭を下げた。
だがサイスは笑って首を振る。
「そんなことはないさ。ここがゲームの中だとして、なら僕たちは、ここから現実に帰る方法を捜し出すとしたら、やっぱりこれが“ゲーム”だということに則ったモノになるだろうからね。たとえば、七つの秘宝を集める、とかさ」
――僕もそういう小説は好きだよ。
なんてサイスは笑う。
しかし、俺は別のところで衝撃を受けていた。
「現実に――帰る」
言われてみれば。まず考えるべきは、そのことであったのかもしれない。
まるで考えていなかった。我ながらどうかしている。
「……どうやったら帰れるんだろうな?」
「わからないね。てんでわからないよ。ゲーム的に考えるなら、やっぱりクリアするってのが妥当だろうけれど……」
このゲームには、そもそも明確な“クリア”というものが設定されていない。
いかにMMOとはいえ、RPGであることに間違いはない。役割を演じる遊び。だからSoC世界にも、その下敷きとなる世界観設定は存在する。
が、かといって明確なストーリーみたいなものは存在しないはずだった。
「ま、結局まずは、これからどうすべきかを考えるのが先決なんだろうね」
サイスの言葉に、俺は首肯を返す。
「ああ。ここがゲームの中だとしても、違うとしても、それは変わらない」
「もっとも、ここに来る前はパソコンの前にいて、自分がゲームと同じ格好をしてるんだ。何だかんだ言ったけど、ゲームの中だと考えるのが一番妥当なのは間違いないだろうね」
「……サイスも、ここに来る直前にはSoCをやってたのか?」
俺と同じだ。
最後の記憶が少し混濁しているが、俺も確か、自室でSoCをプレイしていた。
はずだ。
「そうだね。僕の最後の記憶はそれだよ。たぶん、皆そうなんじゃないかな」
そう言ってサイスは、肩をすくめて苦笑した。
子供のようなサイスの顔に、その挙動は妙に似合っている気がする。
と。
そのときだった。
「――――面白い話をしてるのですね」
なんて。
そんな声が、背後から聞えてきたのは。
※用語集※
○空透領域【施設】
要するにプレイヤータウン。SoCにおいては、各フィールドの休憩場を除いてほぼ唯一のセーブポイント。通称《街》。
零番街~拾番街の全11エリアに区分けされ、そのひとつひとつが、まったく違うコンセプトに基づいた外観をしている。
とにかく異様に広い。区分ひとつが普通のゲームのプレイヤータウンひとつ分の面積は余裕であり、全て巡ろうと思ったら、それだけで一日を潰せるだろう。
なので移動はもっぱら転移晶石。プレイヤーの中には車やバイクを駆る者もいる。
ゲーム設定的には、人類に残された最後の街。《人類最後の最前線》。
都合のいい諸々の設定は、全て《色の力》の一言で片付けられている。