転炉とチハタン
──1937年6月、富士演習場──
轟音と共に二両の試製戦車が富士の裾野を疾走していた。
「どちらも良く動く」
原中佐はその様子をホッとしながら眺めていた。
八九/九五式軽戦車開発後に八九式を元として高価でも質の良い物を求める戦車学校と九五式を元に安く軽い物を求める参謀本部の間で対立が起き、初の競作となった為作業量は期限に追われた試製一号戦車に比肩する物があった。
東北帝国大学が開発したLD転炉や新型電動機、NC工作機械、陸軍の暗号部門経由で齎された電子計算機は重量、材料価格削減や工作精度向上、設計期間短縮に貢献した。
特に重量軽減は大きく、溶銑に純酸素を吹き込む事で窒素その他不純物を低減した鋼材は引張強度下限が235N/㎜から295N/㎜に向上し約20%の軽量化に成功したのである。
防弾鋼板に置き換えるなら従来の装甲と厚み、重量や射撃距離、角度が等しい時強度が25%増しとなる事を意味する。
原の預かり知らぬ事ではあったが、装甲品質は1960年代日本のそれとほぼ同等だった。
戦車学校は主要部だけでなく上下面以外に30㍉装甲を施すよう主張していたが、上記効果により懸架装置他構造材重量を減らして装甲重量に振り向けても要求性能を満たした為採用される事となった。
九七式中戦車
全長: 5.52m
全幅: 2.33m
全高: 2.23m
全備重量: 14.2t
乗員: 4名
エンジン: 三菱SA12200VD 4ストロークV型12気筒空冷ディーゼル
最大出力: 200hp/2,000rpm
最大速度: 44km/h
航続距離: 210km
武装: 九七式18.4口径5.7cm戦車砲×1
九七式車載7.7㎜重機関銃×2
装甲厚: 8~30㎜(第二種装甲換算9.6~36㎜相当)
・装甲厚及び質的向上に伴い、上部攻撃を除いてM2機関銃及びソ連軍の対戦車ライフルに対する完全耐性を獲得し、池田大佐の死亡フラグは消滅しました。




