第6章「試練Ⅰ—換価」
白い草原は、音を失っていた。
律は、灯の背を追いながら歩く。
足音が、地面に吸い込まれる。
風もない。草は揺れない。ただ、そこにある。
「……ここが境界の前景?」
律の声は膜を通して遠くに響いた。
「そう」
灯は振り返らず答える。
「扉は、何かを求める」
律は視線を横に向けた。
そこに、裂け目があった。
空気が薄く波打ち、淡い光の縁が揺れている。
その前に、積み上がるものがあった。
ノート、楽器、写真、指輪――忘れ物の山。
「……これは?」
「置いていくもの」
灯の声は淡々としていた。
「戻るために、何かを失う」
律の胸が冷たくなる。
「何を、置けばいい」
灯は律を見た。
灰色の瞳が、深さを持たないのに、底が見えない。
「最初に掴んだもの」
律は言葉を失う。
「最初に……掴んだもの?」
「あなたにとって、一番重いもの」
灯は掌を上に向けた。
空気が波打ち、雨粒が止まる。
その粒が、光を帯びて消えていく。
「私は、音楽を置いた」
灯の声が、遠くで響く。
「そして、記憶を半分」
律は彼女を見た。
「……どうして」
「戻るために、選んだの」
その笑みは、静かすぎて怖かった。
律の脳裏に、湊の笑顔が浮かぶ。
小さな頃、二人で聴いた曲。
湊が口ずさんだメロディ。
それが、灯の言葉で崩れていく。
「俺に、それを捨てろって?」
律の声は震えていた。
「選ぶのは、あなた」
灯の灰色の瞳が、底なしの静けさを湛えていた。
律はノートを握りしめた。
指先が白くなる。
「……置いたら、俺は何になる」
「それでも、進むなら」
灯の声は淡々としていた。
「戻れなくなるかもしれない」
律は息を呑む。
胸の奥で、湊の声が響いた気がした。
兄貴、迎えに来てくれ。
幻聴だと分かっていても、抗えない。
「……湊」
律はノートを裂け目の前に置いた。
紙が湿り、インクが滲む。
その瞬間、光が走った。
忘れ物の山が、淡い帯に変わり、空気に溶けていく。
裂け目が広がった。
律の足元で、影が震えた。
遅れて、笑ったように。
扉の向こうで、黒い影が集まっている。
人の形をした黒が、律を見ていた。
その視線が、骨の奥まで冷たく染み込む。
境界の裂け目が、静かに脈打っていた。
カチ、カチ――。
近くで、メトロノームの音がした気がした。
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次回更新予定は2/13です。




