第5章「ファースト・ダイブ」
世界が脈を打ち出すような感じ…
世界が、裏返った。
律は、足元の感覚を失ったまま、光の裂け目に吸い込まれていた。
耳に届くのは、自分の心臓の音だけ。
カチ、カチ――。
メトロノームの刻みが、遠くで逆流するように響く。
次の瞬間、足が地面を踏んだ。
白い草原。
音がなかった。
風もない。
雨粒が、空中で静止している。
その粒が、淡い光を帯びていた。
「……ここが、境界?」
律の声は膜を通して遠くに響いた。
「そう」
灯の声が背後から届く。
「落ちたあとにしか見えない場所」
律は振り返った。
灯の灰色の瞳が、静かに光を宿していた。
「音が……ない」
「境界は、選択の前景だから」
灯は淡々と答える。
「音も、時間も、止まる」
律は視界の奥に目を凝らした。
逆さに伸びる影の塔が、空を裂いていた。
「……何だ、あれ」
「境界の骨」
灯は短く言った。
「あなたが進むなら、もっと近くで見ることになる」
足元に、水面が広がっていた。
その水面に、現実の街が映っていた。
ビルの群れ、信号の赤、雨に濡れたアスファルト。
すべてが、逆さに揺れていた。
律は膝をついた。
指先が、水面に触れる。
冷たさが、現実の証だった。
「……湊」
声が、雨粒の間をすり抜けて消えた。
その瞬間、幻聴が律の耳を打った。
兄貴、迎えに来てくれ。
律は息を呑む。
「今の……聞こえたか?」
灯は首を振った。
「境界は、あなたの声を映す。幻じゃない。記憶の残響」
律の胸が軋む。
「ここに……湊がいるんだな」
「痕跡はある」
灯は水面を指差した。
小さな足跡が、逆さに揺れていた。
「戻れるのか」
律の声は震えていた。
「戻るためには、置いていくものがある」
灯の声は淡々としていた。
「最初に掴んだもの」
律はノートを握りしめた。
指先が白くなる。
「……俺に、それを捨てろって?」
「選ぶのは、あなた」
灯の灰色の瞳が、底なしの静けさを湛えていた。
カチ、カチ――。
メトロノームの音が、近くで響いた。
その音が、律の耳に崩れ込む。
時間が、逆さに流れ始めていた。
律は立ち上がった。
「湊を迎えに行く」
その声が、雨に溶けて消えた。
灯は静かに頷いた。
「なら、進んで」
扉の奥に、何があるのか。
救いか、破滅か。
答えは、まだない。
律は、静かに息を吸った。
そして、歩き出した。
雨が、まだ落ちない世界で。
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次回更新予定は2/6です。




