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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

俺とお前と、物語るものと。

作者: らぷた




海斗(かいと)、僕は芥川賞を目指そうと思う」


ドサ、と開いていた本が床に落ちる音が、閑静なカフェにやけに大きく響いた。


平凡な文学部生である俺は、友達と駄弁りながら、のんびりと放課後を謳歌していた。そんな俺を唐突に拉致し、大学近くのカフェに連れ込み、長いことむっすりと黙り込んでいたこの男。その第一声がこれである。訳がわからないことこの上ない。


「どーしたよ(れん)、富と名声でも欲しくなったんか?」


よっこいせ、と本を拾いつつ雑に問いかける。


「それ」


「これ?」


指し示す先は俺がまさに拾い上げた本。帯には「芥川賞受賞作家!」とでかでかと書かれている。


「これがどうかしたか?」


「だって、君が…っ!」


「俺?」


「……なんでも、ない」


珍しく硬い表情で黙り込む蓮。手元のアイスコーヒーの氷がからんと音を立てる。これは長くなりそうだ。


そう思いながら俺は、蓮と出会ったのもこんな蒸し暑い夏の日だったなと、ぼんやりと過去に思いを馳せていた。




***




俺は平凡な文学部生だ。同期と馬鹿騒ぎしたり、居酒屋でバイトしたり、試験前日に慌てて徹夜してグロッキーになったり。一般的な大学生の御多分に洩れず、それなりに騒がしい日々を送っている。

そんな喧騒は嫌いではない。


嫌いではないが、でもやはり──長く続けば息が詰まる。


そんな時、俺は逃げるように図書館に駆け込む。


一人本を読んで、静かで雄弁な文字の海に深く深く沈み込んで。そうして呼吸を取り戻す。



うちの大学はカフェやら飲食店やらが近くにあるので、図書館を利用する奴は少ない。そんな居心地の良い空間で、課題や遊びやバイトの間を縫って。習慣的にあるいは発作的に、俺は本の世界に没頭しているのだ。





その日もいつものように四人がけの机の一角で、推し作家の最新作に耽っていた。


すると誰かが俺の斜向かいに座る気配がした。分厚い本が何冊か机に置かれ、しばらくしてページを捲る密やかな音が静かに響く。


へえ珍しいなと思いつつ顔を上げ、俺は小さく息を呑んだ。



柔らかそうな栗色の髪が、陽に透けてあわく煌めいていた。星を溶かし込んだような銀色の瞳が静かに手元の文字を追っている。その繊細な睫毛が瞬きする度に音を立てているような気がして、思わずまじまじと見つめた。


夕陽がその整った輪郭を柔らかく縁取って、そのどこか神秘的な雰囲気に、微かな酩酊感を覚えた。


何より、仄かに笑みを湛え、食い入るように紙面を見やるその横顔が。……酷く綺麗だったから。


「お前、それ何読んでんの?」


「は、」


見開かれた銀に俺の姿が映っている。なんだか不思議な心地がして、俺はちょっと笑う。


「ごめんいきなり。ここ来てるやつ少ねえから、気になって」


「『超弦理論における11次元宇宙のブレーン分布の多重化』」


「なんて??」


「……論文。物理の」


「なるほど……?」


頭の上にはてなを浮かべていると、初対面の彼は一つため息をつき、めちゃくちゃ平易に言い換えてくれた。ありがたい。小説じゃなかった上に、わからなすぎてシャットダウンするところだった。


「そか、難しそう……お前、めちゃ楽しそうに読んでたから、なんの小説だろうと思ってた。すげえな」


「楽しそう?僕が?」


「え、うん」


呆けたように呟いて、自身の頬をぺたぺたと触っている。あんなに上機嫌そうな空気を醸しておいて、なんだその反応は。面白いやつだなあと眺めていると。


「きみ、だれ?」


透明な声に少し面食らう。月明かりに照らされた雪のような銀が、俺を捉えた。


「俺?えーと、久語海斗(くご かいと)。文学部二年」


「へえ」


聞いているんだか聞いていないんだかよくわからん相槌を打って、こいつは口の端を少し上げる。儚げな雰囲気が霧散し、面白がるようにきゅっと目を細めたその表情に、なぜだか鼓動がどくりと跳ねた。


「海斗、きみ、変なやつだな」


「いやお前に言われたくはないぞ??」




この日を境にやたらこいつ、成瀬蓮(なるせ れん)に遭遇するようになった。図書館だけじゃなく、中庭とか、廊下とか、帰り道とかで。どうやら、なぜか懐かれたらしい。


なんで最近俺んとこ来るのと聞いたことがあるが、蓮は一言「落ち着く」と、定位置である俺の肩に頭を乗せ、小難しい論文を読みながら返した。


なんだそれと思わなくもなかったが、まあ特に実害もなかったので好きにさせておいた。


それから俺たちは授業以外の時間をほとんど一緒に過ごすことになった。



不思議と息苦しさは感じなかった。俺にとってもこいつの側は、なぜか酷く居心地が良かったので。




***




後から知ったがこいつ、成瀬蓮は俺の一個下で、理工学部で。色々な理由でかなり有名人なんだそうだ。



たまには先輩風吹かせて奢っちゃろーと、蓮にカフェラテを押し付けてるところを友達に目撃され、後日なぜかどん引きしたように話しかけられた。


「海斗、あの王子と絡みあったん?」


「蓮って王子呼ばわりされてんの?絡み……っていうかまあ、それなりに話すけど」


「まじかよ強えな。成瀬、クソほど無愛想なのにクソほどモテてるし首席だしで、理工の男どもが悔し泣きしてたぜ」


「へー……」


蓮ってそんな感じだったのか。噂って怖え。友人は驚く俺を見てうんうんと頷く。


「俺もちょっと話したことあるけど、あいつ全く表情変わんねーし、何考えてんのかわかんなくて怖かったわ」


「そうか?わかりやすいと思ってたけど」


いやまじで、蓮は結構顔に出るタイプだと思う。


論文読んでる時とか周りに音符飛んでるの見えるし。一緒に定食屋に行った時も、ちまちました作業が好きって理由で焼魚定食頼んで魚バラすだけバラして、俺に食わせて満足げな顔してる。


そういうときの蓮はきゅっと唇を吊り上げて、目元を緩める。あとほんとに機嫌いい時はちっちゃい鼻歌も聞こえてくるんだ。


そうエピソードを挙げると、一瞬友人は息を飲み、そして盛大に複雑そうな顔をした。


「うわぁ……」


「なんだその顔は」


「お前って結構そういうとこあるよな」


「どういうことだよ」


そうやいのやいの言い合っていると。



「海斗」



静かな声がして、俺は無意識に詰めていた息をゆっくりと吐き出す。嗅ぎ慣れた柔軟剤の匂いに力が抜ける。


背後の気配にぽすんと寄り掛かり、降ってくる綺麗な銀色を見上げた。


「よお、蓮。どした?」


「……迎えに来た」


「今日約束してたっけ?」


色素の薄いしなやかな指が俺の頬をするりと撫で、くすぐったくて体を捩る俺に、蓮は目を細める。


「暇、でしょ?付き合って」


「はいはい」


んじゃそういうことだから、と手を振ると、友達はなぜだか引き攣った笑顔で「あ、ああ、またな」と返した。




***




長い回想から意識を引き戻す。


思い返せば最近の蓮はどこか様子が変だった。

そわそわと落ち着かない素振りを見せたと思えば、俺と友達が喋っているところに顔色悪く飛んでくる。「具合でも悪いのか?」と聞いても黙って首を振るばかりだし。そしてこの芥川賞云々である。さて、彼の優秀すぎる頭脳は一体何を考えているのやら。



「……僕はきみに、ずっと隣で本を読んでいてほしい」


蓮が漸く重たい口を開いた。絞り出すような、苦しそうな声だった。


「僕が本をたくさん書いて、芥川賞を取って、そうしたら海斗は僕の本を読んでくれるだろう?」


「は、いや、まあ、それはそう、だけど」


「きみの頭の中を、僕が作った世界で埋め尽くせる」


俺は思わず目を丸くした。



「…………それが、お前が本を書きたい理由?」



蓮は真剣な顔で一つ頷いた。


本当に何を言ってるんだこいつは。

それじゃあ、まるで。


「……お前、馬鹿?」


「…自分がおかしいことなんて、わかってる」


「いや違くて、」


暗い声で目を伏せる蓮に慌てて首を振る。


そういうことが言いたいんじゃなくて。

それって、とか。お前いつから、とか。なんで、とか。

聞きたいことが洪水のようにぐるぐると脳内をを駆け巡る。


ぽろりと口をついて出たのはそのどれでもなかった。



「本読んでない時は?」


「え?」


「俺が飯食ったり、話したり、遊んだり、蓮んちでダラダラしたりしてる時は?お前にとってどんななの?」


静寂が落ちる。俺との時間を思い返しているのだろうか。返答を待つ時間を少しくすぐったく感じる。蓮はしばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。


「同じくらい……大切だ」


けれど、と、未だ考えを巡らせているのであろう蓮は、慎重に、しかし強い意志を持った目で俺を見据える。


「願わくば、それを僕の隣でしてほしい」


蓮はお世辞を言うタイプの人間ではないから。その言葉がどうしようもなく彼の本音だと、嫌というほど理解できて。

その実直な声が、俺の心の柔い部分に、質量を伴って甘く突き刺さる。


「じゃあお前、芥川賞なんて取んなくてもいいんじゃん」


「でも、」


「馬鹿。でももだってもないよ」


無駄を削いだ「効率的」な文章。彼が真剣な顔で、でもちょっとだけ口の端を上げて読んでいたのは、いつだってそんな文章だった。論理を是とする世界で生きてきたはずだ。


けれど彼は今、自分の中の感情という名の不条理に名前を欲しがっている。人によって異なる様相を見せる、定義の定まらない、不確かな不条理に。


「海斗、僕はどうすればいい?」


迷子のような情けない顔で、不安気に揺れるその美しい銀色は、それでもただ真っ直ぐに俺を射抜く。


「わからないんだ。この気持ちがなんなのか」



それはおそらく、数多の作家がその語彙の限りを尽くして悩み抜き、絞り出すように、血反吐を吐きながら、あるいは激情のままに綴ってきたものであるのだろうけれど。


「お前、案外いけるかもな」


「は?」


「芥川賞」


戸惑うように下がる眉に、俺は耐えきれずふはっと笑う。



最初から最後まで、理系人間とは思えないほど、随分と熱烈で文学的なことばだ。


「月が綺麗ですね」と囁かれ、「死んでもいいわ」と即答できるような心境では、残念ながらまだない。


正直なところ俺にもわからないんだ。



未だ俺を睨め付け、肩で息をしている蓮を見ると、思わず口元がほころぶ理由も。


いますぐこいつの頭を大型犬よろしくわしゃわしゃと撫で回したくなる意味も。


けれどただ、普段論理的で冷静で、感情なんて必要ないって顔で科学の世界を生きる彼が、俺のことでこんなにも感情を揺れ動かしてるのが、どうしようもなく可愛くて。



「お前の『それ』に相応しい言葉は、俺にもわからんよ。お前が自分で探すしかねえんだ」


「……難しい、ことを言う」


「そうだな、難しい。あんまり難しすぎて、もしかしたら一生かかっても無理かも知んねえぜ?」


揶揄うように言うと、蓮は不満をあらわにちょっと唇を尖らせる。ああ、敵わない。だめだ。降参だよ。……俺も、そろそろ腹を括ろうか。


「拗ねるなって」


今度は衝動に抗うことなく、栗色の柔らかい髪の毛を心ゆくまで、少々荒っぽく撫で回す。撫でて、そうして、驚き見開かれた銀色の一等星に、俺は悪戯っぽく口の端を上げる。



「一緒にいてやるよ、蓮。何年かかったっていい。お前が納得のいく言葉を見つける、その時までさ」


蓮は呆けたような顔をして固まった。


ローディングローディング。


さて。お前に、俺の言葉の決意は伝わるか?



刹那の心配はどうやら不要だった。


とろけるように、花ひらくように。

どうしようもなく愛おしい目の前の彼は、あまりに綺麗に微笑う。


「約束だよ、海斗」


「おうともよ」


蓮の酷く幸せそうな顔と、俺に撫でられ乱れた髪を見て、俺もにこにこしてしまう。堪らなく満たされた心地だ。




それは科学とは違う。ほんのちっぽけで、下らなくて、世界にとっては何の役にも立たないものだ。それでも、だとしても。



探してみようじゃないか。

例え一生かかっても。それでだめなら黄泉の国でも。



俺とお前二人で、




────この心を物語る、言葉を。





《俺とお前と、物語るものと。》




きみがその静かな眼差しで、僕だけを見据えてくれるのであれば。


他には何も必要ないと思えるほど、きみは僕にとってどうしようもなく──。


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