10・フラグっぽいものを立てまして
齢五歳の王太子殿下に文字を教わる女子高生騎士がいるらしい。はい、私のことです。
「エリナの字はエリナっぽいよね」
勉強部屋と化した書庫奥の休憩室にて。私が必死にドリルをこなしている姿を見ながら、殿下が笑った。うん、今日も笑顔が可愛いですね殿下。
「それラフェスさんにも言われたんですけど、そんなに特徴的です?」
「先生が文字はひとをあらわすって言ってたけど、そのとおりだなって」
この国の、というかこの世界の公用文字はラテン字みたいな、要は記号みたいな文字だ。英語と同じでこの文字を組み合わせて単語を作り、文章にしていく。
今は基本の文字を覚えることから始めて、最近少しずつ読めるようになってきたところ。あ、自分の名前は読み書きともに完璧マスターしました! これでサインが出来るよやったね!
「そうだ、見ててくださいねー」
ドリルもそこそこ、練習用の粗雑な紙にペンを走らせる。そこに書いたのは殿下の名前だ。
ウィスタリア・クロノ・ゼーレエンデ。うん、完璧。
「これ、ぼくのなまえ……」
「身近な人の名前は書けるようにならないとって思って練習したんですよー。あと、グウェンさんと、ラフェスさんと、陛下と、王妃様!」
書けるようになったばかりの名前を書き連ねると、殿下は嬉しそうに笑った。
「すごいね、エリナ」
「でしょうでしょう!」
誉められたら素直に受け取って喜ぶ。これ上達の秘訣なり。
「あとは基本の文法をちゃんと覚えて、分かる単語を増やしていかないと。せめてすらすら読書できるくらいには、読み書きできるようになりたいので」
「……あの、エリナ。これ、よかったら」
殿下が差し出したのは絵本だった。豪華な装丁の立派な絵本。
「ぼくがむかし読んでいた絵本だよ。文字を読む練習にはちょうどいいかなって」
「ありがとうございます! 遠慮なくお借りします!」
「ううん、あげる。ぼくはもう、おぼえちゃったから」
「え、でも絵本って絵を楽しむものであって、覚えてしまっても何度も観て楽しむものでは?」
「いいんだ。これはエリナにもっていてほしい」
ふむ……表紙の絵からして、子供向けの絵本だ。中身をぱらぱらと見ると、王子さまと平民の女の子がお互いを好きになって、一緒になろうとふたりで頑張るお話のようだった。
「殿下でもこういうお話読むんですね。男の子だから冒険活劇ものかと」
「そういうのもあるけど、これは特別なんだ。だからエリナにあげる」
見るからに女の子向けだもんね。持て余していたのかもしれないし、ありがたくもらってしまおう。
「じゃあ、いただきます。嬉しいなー! 可愛い絵ですね」
「……ぼくね、このお話の終わりかたが、とっても好きなんだ」
「あ、そうなんです? じゃあ最後のページは封印! 前から順番に読んでいくことにします!」
「うん、そうして」
嬉しそうに笑う殿下。うーん、早く読んで感想を教えてあげたいと思うと同時に、大切にゆっくり読み解きたい気持ちもわき上がって。さてさて、どうしたものか。
「すてきな絵本をもらっちゃったから、私もお返ししないとなー。またお菓子だと芸がないなー」
「おかしで十分だよ?」
「うーん……」
お菓子を作るのは確定として、きちんと形に残るものを返したい。あ、お返しはあとで考えることにして、今はお仕事をしないと。
「殿下殿下。そろそろ訓練場に行きましょう。今日はランニングです!」
「もうそんな時間? うん、いっしょにがんばろうね」
魔物討伐遠征まであと少し。グウェンさんの忙しさがとんでもないことになっていて、最近は私と殿下の二人だけで基礎トレと簡単な打ち合いをしている。
愛し子チートは木剣も剣として認識されるけれど、相手が殿下で、稽古だと強く強く念じて振れば、ほどよく弱い剣撃になる。本当にチートだなこの力。
「そういえば、最近は私と一緒にいてばかりですけど、お勉強は、どうしてるんです?」
訓練場の外周を殿下と並んでランニングしながら、気になっていたことを聞いてみる。
午前中は書庫、午後は訓練場が毎日のルーティンになりつつある現在。
前だったら週に何日かは家庭教師さんの授業があって、その間私は通常の近衛騎士として、王宮内の見回りを命じられていた。
大抵は王妃様に捕まって、優雅にお茶をいただきつつ、殿下の様子を報告するだけでしたけどね! 給料泥棒疑惑をかけられても言い訳ができない。
「先生は、魔術師で、遠征に、いっしょに、いくから、おやすみ中」
ちょっと息が切れ気味の殿下が途切れ途切れに答えてくれた。
家庭教師先生、魔術師だったのか。しかも魔物討伐遠征について行くくらいの腕前。さすが王太子殿下の家庭教師、護衛も兼ねてた。魔力酔いがなければ、これ以上なく優秀な護衛なんだろうな。
「魔物討伐遠征かぁ……大変そうですね」
私の他人事発言に殿下は俯いてしまった。え、変なこと言った?
「エリナは、いかない、よね?」
「私は殿下の護衛ですからね。陛下からの指示がない限りは行きませんよ」
魔物を見てみたい気持ちはあるけどね。だけど魔物はこれから先、いくらでも見る機会はある。しかし殿下の護衛として側にいられるのは、今だけだ。
だったら殿下の側にいますよ、もちろん。あ、でも魔物との戦闘経験はあった方がいいから、もしかしたら行くことになるかも? あとでグウェンさんに要確認。
「いかないで」
殿下が私を見つめて言う。縋るみたいな目で、私を引き留めようと必死になっている。懐かれたなぁ、私。おねーちゃんとっても嬉しいけど、ちょっと心配。
私はあくまでも騎士、駒のひとつ。こんなに心を寄せすぎては、将来有事の際に私を切り捨てられなくなるのでは、なんて。
本当にこの子は優しすぎる。それが将来、足を引っ張らないといいんだけど。
……変わってほしくないけれど、変わなければならない時が必ず来る。その時、私は殿下の側にいるんだろうか。
「エリナ……?」
「さっきも言いましたが、陛下の指示がない限りは」
暗に私の意思で決められることじゃないと返せば、殿下の瞳が揺れた。おっと勘違いさせそうだ。
「私が殿下の護衛騎士になったのは自分の意志で、ここにいるのも私の意志です。でも陛下が私に辞めろと言うなら、従わないと首が飛んじゃうので」
ぽーんと。下手すれば物理的に。
へらりと笑う私に対して、殿下はぐっと唇をかんだ。
「……ぼく、つよくなる、かしこくなる。だから、そばにいてね」
「はい。許される限りは、ずっといますよ」
ずっと殿下の側で、殿下の成長を見守っていけたらいいな。
穏やかな日差しの中を二人で走りながら、私はそんなことを願った。自分の思考に、なにかのフラグみたいで怖いなぁとも思いつつ。
仕事が立て込んでいるため、10/26の更新はお休みさせて頂きます。
申し訳ございません。