冬と血管
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
う〜、こんな寒い日に限って、3コマ目の体育が長距離走だってさ。一年のこの時期になると、いつもやってきて嫌になっちゃうね。
そりゃ、夏場に長距離走ったら、熱中症とかで倒れる子が続出しそうさ。でも冬場は冬場で接触したときに痛いんだよね。肌に何か触れただけで鳥肌が立つのに、転んでケガなんぞした日にはもう、涙が出て跳ねまわりたいくらいだよ。
寒いと、どうして身体がこわばるんだろうね。
理科的には、酵素と細胞の温度がかかわっていると聞くね。これらは37度くらいが活発に動ける温度であり、身体もどうにかその温度を保とうとしている。
しかし寒い日はこれがうまくいかない。どうしても体温が低くなり、酵素と細胞が動きやすい温度を下回る。結果、身体が動きづらくなってしまう……とね。
ゆえにウォーミングアップで温めることが、いっそう大事になってくる、と。
けれどね。僕はこれ以外の理由があるんじゃないかと思っている。
ちょっと前に、卒業した先輩が話してくれたんだけどさ。聞いてみない?
日頃から静脈が透けて見える人、いるじゃない?
皮下脂肪が少ない人ほどこの傾向があって、運動していたり、もともとやせ型だったりと、だいたい理由が察せられると思う。
話してくれた先輩は、どちらかというとぽっちゃり型。普段の腕や手のひらを見ても、確かめられる血管は、さほど多くなかったらしい。血液検査の時も、何度か刺し直された覚えがあるようで、あまり好きじゃないと言っていたかなあ。
ただ、その血管が妙に浮き出てくる時がある。運動をしている時だ。
先輩は運動神経がいい。個人技、集団競技のいずれでも、中心となって動いたみたい。並大抵の運動量じゃなかった。
そうやって汗をだくだくかくと、静脈が浮き出る。腕にとどまらず、顔などの肌をさらしているところにも見られるほどだったようだから、薄着になりがちな夏場などはちょっとした見世物だ。
先輩の身体がほてっている間だけ、その様子は見られた。息が整ってくると、血管はおのずとまた、皮膚の内側へ引っ込んでしまう。
先輩自身、力んだりしても血管を浮き上がらせることができたらしくてね。特技のひとつに昇華して、みんなの奇異なものを見るような視線を、ウケ狙いとして流すことに成功していたみたい。
卒業を一年前に控えた、冬の体育を迎えるまでね。
その日は、僕たちのように持久走だったらしい。
男女で着替え場所を分け、いざ体操着を着ようとして先輩は気づく。
自分のインナーが、肌にすっかりひっついてしまっていることに。すそを引っ張ってみると、ぴりぴり、べりべりと湿布をはがす音と手ごたえを伴いながら、ようやく引きはがしたインナーは外から分かるくらい、黄色いシミが浮かんでいる。
脂の汚れに見えなくもないが、今朝見たときには、ここまでの汚れはなかったはず。その下の肌は、やはりかすかなぬめりと粘着力。まるで皮の代わりに、マジックテープを仕込まれたように感じたのだとか。
おそるおそる体操着を着込み、それが張り付かないよう、何度もはがす素振りを見せる先輩。汗ではない何かの存在を感じつつも、それ以外の大きな違和感は覚えない。
そのまま授業に参加。風もないのに、指から頭の先まで凍えそうな空気がかもされる中、ウォーミングアップをしたのち、持久走の時間となった。
同じグラウンドを使う関係で、まずは女子が走り、あとで男子が走る。女子が1000メートル、男子が1500メートル走ることに、身体を暖めながらぶちぶち文句を垂れる子は絶えないが、先輩はずっと体操着の張り付きを警戒していたらしい。
当初より粘着力もてかりも薄れてきている。これなら走る間も問題ないだろうと、その時は思っていたんだ。
やがて女子全員がゴール。続いて男子がずらりとスタートラインへ並び立つ。
200メートルトラック7周半の旅。速い子であれば、4分そこそこで走り抜けてしまうだろう。先輩もその先頭グループに属する面子だった。
最初の一週目は控えめのペース。前を行く数人に風よけを任せる形で、体力を温存していく。特に相手と競うものではないけれど、成績を落とされかねないほど手抜きするわけにもいかない。
すでに全体は3つのダンゴ状態に分かれ、そこからこぼれる数名が、くしのように互いをつないでいる。一番後ろの集団は、このあとずるずると落ち、先頭集団に周回差をつけられていく定め。
半ばの集団は、そのままのペースを保てるなら平均タイムでゴールできる力量。もちろん、ほころびが起こればその限りじゃない。
先輩は全体で見ると4番手。先頭を切る子は陸上経験者かつ、早く持久走を終わらせたくて仕方ない子だ。最後まで逃げ切りのペースを乱すことはないだろう。
2番、3番も運動部きっての肉体派。もう全行程の半分は過ぎていたし、600メートルあまりとなった残りを、先輩は確かめた。
そのトラックのコーナーを曲がりかけて。
ふと先輩は、トラック内側から砂利を叩きつけられたような、無数の小さい痛みを覚えた。
このあたりに女子は座っていない。いたずらを仕掛けられそうな人はいない。
前を走る子も、いまや数十メートルの差があった。蹴り上げる砂が、こちらまで飛んできたとも考えづらい。
「なんだ?」と思いつつも、ストレートへ差し掛かったところで、今度は正面から同じ衝撃が来た。
不意打ちに目をやられ、とっさに腕でかばう。走るのはやめないものの、閉じたまぶたの裏側でもぞりもぞりとうごめくゴミの感触は、いつまでたっても慣れない。
完全に足止めされるほどじゃない。ただようやく薄目を開けてみる視界は、無数の砂粒が舞っているように思えたみたいなんだ。風は一切、吹いていないにもかかわらず。
いぶかしく思いながら、なおも進んだ100メートル。先輩は肩をぐっとつかまれ、無理やり走るのを止められた。
体育の先生だった。
トラックの内側へ引き込まれると、身体を打つ無数の感触は、ふっと消え去る。
何事かと、あらためてこじ開けた目に映る先生の表情は引きつっていた。先輩の体操着のすそをつかむや、へそが見えるのも構わず、引っ張り上げてみせる。
ぐっと、先輩はかたずを飲まずにはいられない。先ほどまでは黄色のシミと、わずかな城に彩られていた生地に、いまや細かい黒い粒が張り付いているのだから。
菜の花にびっしりと張り付く、アブラムシのごときだった。よくよく見ると、黒い粒はそれぞれが勝手に動きを見せ、その実、身を寄せ合った小さい虫たちのカーペットとなっていたのだから。
それだけじゃない。先生が持参していた手鏡に、先輩の顔を映す。
その肌に静脈が浮いていた。これまでのように色をたたえるばかりでなく、飛び出さんばかりに盛り上がり、じかに起伏を触れるほどになった無数の血管が、静脈を思わせる網目状にね。
その網目の中に、体操着と同じ「黒ゴマ」たちが、いくつも固まってうずうずと身を寄せ合っていたらしいのさ。
先輩はすぐ洗い落としにかかった。
大半は思惑通りにケリがついたけど、何割かは内側へ潜り込みかけていて、難儀したらしい。体操着ばかりじゃなく、皮膚の方に関してもね。爪を立てて、血を表ににじませながら、思いきり掘り出した箇所もあったとか。
いつもならすぐに引っ込む血管の浮上も、その時は何時間も引かずにいた。
それはまるで虫取り網のように見えて、先輩は自分が、あの得体のしれない虫たちを獲る網に仕立てられていたんじゃないかと、思っているらしい。
だから寒い空気が満ち満ちて、俺の身体をこわばらせ、動かさないように戒められていたんじゃないかなあ、とも。