仕掛けられた歯車が動き始めた
五
一月二七日
調査対象人であった守倉議員の死亡のニュースが飛び込んできたのは、調査から五日後であった。死亡の原因は車での交通事故死。全身を強く打ったとの報道のため、バラバラ死体となったのであろう。
「事故死、ね・・・」
北条は守倉夫人が夫の不倫の怨恨のうえに殺したものだと思っていたが、どうやら違うらしい。亡くなった守倉議員に関して、北条は直接話しをしたことはないが、調査対象という立場から知らない仲ではない。そう思って、北条は、本日執り行われる守倉議員の葬儀に参列することにした。ちょっと待て。取材班として散々会話をしていたではないか。だが、そんなことなど気にも留めない北条は、礼服に身を包み守倉議員の葬儀会場に向かった。葬儀会場は世田谷の自宅近くにある公民館であった。さすがに現職の国会議員が死亡したとあって、あたりはマスコミや警察関係者でごった返していた。
北条はどのような関係ですかと聞かれ、「夫の不倫調査です」と正直に答え口を滑らせるのがまずいと察知したのか、極力目立たないように振舞っていた。そもそも正直に答えるな。悲しむ暇もないくらい忙しく動く守倉夫人の姿があった。声をかけるのは申し訳ないと思い。遠くから見守るような形で葬儀に参列した。
参列者は千人はいるだろうか。国会議員とあって、支持者や後援会などの人々が多いためか、一般の葬儀よりもスケールが遥かに大きい。中には著名人や芸能関係の人物もいた。とても全員の顔など覚えられない。北条は目立たないように一般参列者の最後方にいた。ふと隣を見ると、一〇メートルほど先に見覚えのある女性がいた。
「あれは、守倉議員とホテルで密会していた愛人だわ。へぇ、愛人が葬儀に出るなんてね、中々面白いじゃない。敵陣に単独で乗り込んでくるなんて、大した度胸じゃない」
もちろん愛人は夫人の目には見えない場所にいた。北条はお坊さんのお経そっちのけで愛人の行動に着目していた。
「おい! 何やってるんだ? お前!」
どこかで聞いたダミ声だ。とても教養があるとは思えない口調であると判断した結果、どうしようもないオヤジであると北条は察した。北条は声の方に目をやると、ガタイは若干いいがお腹が出ている。さらに髪が薄くなりつつある、いかにも中年という風貌の男性が立っていた。本当にどうしようもないオヤジであったと北条は判断した。ビンゴ!
「・・・葬儀中はお静かにお願いします」
「こら! それがかつての上司に対する扱いか!」
「かつての上司なら、あなたとはもう赤の他人だわ。なれなれしく話しかけないでくださるかしら」
「な、何を!!! もう少し礼儀というものはないのか。こう、親しき仲にも礼儀ありというだろうが!」
「あなたとは親しくなった覚えはないわ」
「(怒)(怒)(怒)(怒)」
怒りで肩が震えているこの男性は、梶 雄三という刑事だ。北条の上司であったことは正真正銘事実である。当時の梶は警部補であり、現在の階級は警部である。ただし、上司の扱いを北条は全くしてはいなかったが。北条の天真爛漫な捜査にこの上司は制御しきれなかった。
「北条さん!」
またしても声をかけられた。全くの他人の葬儀でなぜこれだけ私のことを知っている人が集まるのだろうか。北条が振り返ると、去年のクリスマスイブに会っていた男性がいた。そういう表現になると男女のカップルみたいだが、実際は警察と探偵の関係である。
「北条さん、先日はありがとうございました。おかげで、クリスマスイブの殺人事件は無事に解決できました」
「そう、それはよかったじゃない」
やや薄笑みを浮かべた北条である。
「おい、町沢! おまえ、北条を知っているのか?」
「は、はい。先日のクリスマスイブの殺人事件で市民からの有力な情報で犯人が逮捕できた件がありましたが、そのその市民がこの北条さんです」
「なんだって!? それじゃあ、北条が事件を解決したというのか?」
梶は驚愕の事実に肩を震わせていた。
「お前が警察を辞めてからというもの、ようやくお前の面倒を見る日々から解放されたと思ったら、またお前が関わってきたとは、この疫病神めが!!」
この二人は顔見知りなのか。確かに梶警部も北条さんも初対面からずけずけと物申すタイプではあるが、初対面でこれだけなぁなぁになるとは、末恐ろしい化学反応だと町沢は二人を見ていた。
「あ、あの、梶警部。北条さんとお知り合いですか?」
「あぁ、言いたくはないが、この女はかつて私の部下にいたのだ」
「えぇ!?」
「そう、聞きたくなかったけど、私の黒歴史だわ」
北条さんは元刑事だったのか。だから死体を見ても驚きもしなかったし、現場での情報収集力もずば抜けていた。今となってはうなずける事実だと町沢は納得した。
「北条さんは元々刑事だったから、あの事件が解決できたんですね」
北条は、まぁね、と言いたいばかりの表情であったが、声には出さなかった。
「ということは、こいつがあのクリスマスイブの事件を解決したというのか。ぐぬぬ、またしてもこいつに手柄をとられるとは!」
北条は、まぁね、と言いたいばかりの表情であったが、声には出した。
「ほ・う・じょ・う! お前というやつは」
北条は梶をガン無視して、町沢のほうを向いた。
「北条さんは、本当に梶警部の元で働いていたのですか?」
髪をかき上げながら、北条は遠くを見ていた。
「えぇ、それが人生で最も忌まわしい時期ね。ちょうどいいわ梶『元警部補』殿、私の貴重な二年間を返してくださるかしら?」
「おーまーえーは!!」
ここが完全に葬儀会場ということを忘れている三人である。これだけギャーギャー騒いではたとえ隅っこにいてもお坊さんのお経に支障ができる。すでに親族関係席のあたりでは、あの騒いでる三人は何者なのだと噂になっていた。そんなことはお構いなしに、北条が梶をつき放つようなことを吹っ掛けた。
「それで、なんであなたがこんなところにいるのよ。湿っぽい空気がさらに重くなるじゃない。それに、次にあなたと会う時にはあなたの葬式の時と言ったはずよ。そうだわ、せっかくの機会だから、あなたの葬式も一緒にあげてもらったらどう? 目の前にお坊さんがいることだし」
梶の肩がにわかに震えていた。ひやひやものの町沢である。
「相変わらず好き放題言いやがって。まぁ、その、あれだ。守倉議員は公務中に事故で亡くなられた。つまり、我々警察が議員を守れなかった責任がある。この事件は非常にやり切れない思いでいっぱいだ。だから、この葬儀に参列しているのだ」
「だからといって、あなたの責任ではないわ」
北条から意外な発言に、梶は一瞬きょとんとする。
「お、お前。そうか。月日が経つにつれ、お前にも思いやりというものが身についたのだな」
「はぁ? 何寝ぼけたことを言っているの。思いやりなんかあなたに向けてあるはずないわ。あなたごときの存在で警察の代表ヅラしてるのが気に食わないの」
「こ、こ、このアマがあぁぁぁぁ!! 相変わらず口だけは達者だなあぁぁ!!」
五十歩百歩である。町沢はこの第三次世界大戦に参戦できる戦闘能力と度胸など備わっていなかった。
「それで、この事件は他殺なんでしょ。だったらあんたの管轄になるんじゃないの?」
梶と町沢が凍り付いた。
「お前、なぜその事実を知っている? 報道では事故死として処理されていたはずだが?」
「探偵という職業柄、公にされていようがいまいが真実が伝わってくるのよ。私はてっきり守倉夫人が怨恨の果てに殺したものだと思ってたけど、あの様子だとどうやら違うみたいね。政治家という職業柄、何らかの過激派に恨まれて殺されたのかもね。それに、本当の事故なら、あなたがわざわざ葬儀会場になんか来るはずないわ。どうせ、あなたの管轄でこともあろうに国会議員が殺されたもんだから、すったもんだしていたんでしょ? で、お偉いさんがあたふたしていて、せめて葬儀には出ろ! で、今に至るってところかしら」
あまりに鋭い観察眼だ。町沢は北条の推理を聞いてあまりの正確さに舌を巻いた。梶はキラウエア火山のように何発も噴火していた。
「で、これから忙しくなるんじゃないの?」
「そうだ。これからが正念場になる。その決意も込めて、警察一同でこの葬儀に参加しているのだ。これは内緒だがな。ところで、お前はどうしてこの葬儀に参加しているのだ?」
「ちょっとした調査対象だったわ。守倉夫人は私の探偵事務所依頼人だった」
「それは何の依頼だ?」
「依頼人の秘密は厳守よ」
「くっ・・・」
実に五年ぶりの再会であるが、そのブランクを全く感じさせないやり取りである。横目で見ている町沢は、かつてコンビを組んでいた時は、毎日このやり取りをしていたのだろうと思うと、気が重くなった。いや、よくよく考えれば北条がまだ現役であれば、この二人が僕の上司になるところだった。恐らく身が持たないだろう。そう考えると、肩の荷が下りた町沢である。
「それで、犯人の目星はついているの?」
「「いや、まだだ」」
北条と梶が同じタイミングで答えた。
「やっぱりね、あなたの言うことは想像がつくわ」
「お・ま・え・と・い・う・に・ん・げ・ん・は!!」
「周りの人に迷惑だから静かに」
何もかもが北条の圧勝である。町沢は必死に笑いをこらえていた。まさかここまでこの鬼上司を丸め込める人間に出会えただなんて。こんな人は今の所轄内ではまずいない。町沢は感激もしていた。
北条がはっと気が付いた。それはほんの一,二分のことであったが、かつての上司や町沢に気を取られているうちに、例の愛人は姿を消していた。
「やられた・・・」
やっぱり梶は疫病神であることに変わりはないと北条は改めて判断した。早く成仏してもらいたいものだ。この葬儀が梶の葬儀であればどれほどよかったことか。いや、よくよく考えれば、私は奴の葬儀にはいかないだろう。むしろ無縁仏に葬ってやりたいと思う北条である。
「それにしても、あの愛人は一体何しにこの葬儀に来たのかしら。まったく、あの疫病神が現れなければ少しは様子を探れたのにね」
葬儀が終わって程なくして、議員の愛人は葬儀会場に戻ってはこなかった。かつての上司と町沢も、そそくさと退散した。梶はそのままこの世からも退散してくれればよかったものを。なんてことを思いつつ、北条は葬儀会場が落ち着き始めたのを見計らい、守倉夫人に声をかけた。
「この度は御愁傷様です」
「北条さん」
守倉夫人は不倫調査のビジネスライク的な付き合いしかない北条が葬儀に来ていることに驚いた。
「わざわざ来ていただけるなんて」
夫の不倫の発覚、さらに殺害のためか、初めてあった時よりもかなりやつれていたように北条の目には映った。だが、この場で夫が殺されたことを守倉夫人に伝えてはいけない。守倉夫人には夫は事故で死亡したと伝えられているはずだ。この場で『実は夫は事故死でなく殺害された』と口に出せば守倉夫人はショックで意識を失い、守倉議員の葬儀に引き続き、守倉夫人の葬儀が開始されかねない事態が想定できる。守倉夫人が一礼したのち、北条は葬儀場を去った。
「やっぱり気になるわね、あの愛人。ちょっと調査してみる価値はあるわ。調査費用は発生しないけど、元刑事の勘ってとこかしら。何か犯罪の気配があるわ」
六
一月三一日
北条は例の愛人の素行を調査することにした。探偵をしている北条にとって、愛人の素性を突き止めることは容易かった。まずは自宅を出るところから尾行を開始した。杉並区のワンルームマンションから京王井の頭線に乗り、銀座線に乗り換えた。初めてくる人には乗り換えに非常に苦慮するが、 この女性は案内掲示板を見ることなく進んでいた。銀座線で降りた先は新橋駅である。向かった先は銀座の並木通りであった。並木通りに行くには銀座駅より新橋駅の方が近い。北条のにらんだ通り、高級クラブが集うビルに入っていった。北条はエレベーターに乗らずに、先にエレベーターに乗った愛人が下りた階を確認した。ワンフロア丸々お店であり、エレベーター横にあるビル案内のテナントの看板から、なかなかの高級店であることだように想像できた。
「ここから先はお店の中に入るしかなさそうね」
だが、女性一人でクラブに入るのは怪しすぎる。さて、どうしたものか。外でたむろしているサラリーマンに一緒にお店に入ることをお願いしてもらおうか。北条がそんな考えを並木通りでしている時、どこかで見覚えのある男性が新橋駅方面からやってきた。
「あいつは・・・町沢だ」
町沢も北条の存在に気がついた。
「あなた今勤務中? まぁ、別にどーでもいーや。ちょーどよかった。ちょっと私についてきて」
「はいっ?」
この人は一体何のことを言っているのだろうか。ついてくる? どこに行くというのだろうかと不審に思う町沢である。
「な、何を言っているんですか。僕は今勤務中の身ですよ」
「事件の匂いがする場所よ」
「えっ」
事件というキーワードに、町沢の表情が変わった。
「守倉議員が殺された事件の鍵を握る人物が、この建物にいるのよ。気乗りはしないけど、あなたと知り合いという前提で、この建物に入りたいわ」
北条の差した指の先には、銀座の中でも高級クラブが集うビルを指差していた。ビルの入り口にはなにか噴水のようなものがある。
「こ、ここって、完全にクラブの店じゃないっすか」
「そうよ。女一人でこのビルの店なんか入れないわ。レズだと思われるのがオチね。だから、男のあなたに協力をお願いしているじゃない」
「だ、だからといって・・・」
「あなた、クラブで遊んだことがないの? いい歳して遊びも知らないなんて、遅れてるわね」
北条の言葉に対して、やや苛立ちを見せる町沢。だが、北条はお構い無しにクラブの入店を強要する。
「事件の鍵を握る容疑者を見逃すというの? それでも刑事?」
「わ、わかりましたよ。行きますよ」
内心呆れ顔の町沢であったが、容疑者を見つけるためという目的で、渋々クラブに入るこを決意した町沢であった。
ここで北条がとある案を出した。このままではいかにも探偵と刑事という構図だ。人間観察が得意な銀座のクラブでは、まず見抜かれる。だから、ここはある設定で忍び込むことにしようと。
「いい? あなたは青年実業家で私はあなたの秘書という設定で店に入るわよ。あなたは女遊びが好きなどすけべ社長で、私は明日のスケジュールを延々と説明するわ」
「何ですかその設定?」
「文句ある? それとも、ほかに名案でもあるかしら?」
ボキャブラリーの少ない町沢は答えられなかったため、泣く泣く北条の案を採用することにした。
「さて、お金はあなた払いね。ちなみに、こういうクラブではたぶん二人で最低でも五万円はくだらないわ」
「ご、五万円もするんですかぁ」
クラブの金額に驚く町沢である。今までは飲み会の二次会で二時間飲み放題四〇〇〇円のお店しか行っていない町沢にとっては未知の世界であった。
「銀座のクラブがどんな世界かあなたは知るわけないか。あと、お金のことは大丈夫よ。支払いはそっちの経費で落とせるから」
その発言に町沢が、またしても驚愕する。そんなもの簡単に落とせるわけがないじゃないか。町沢が叫びたかったが、こっそりと『経理の赤井に頼めば何とかなるわ。私の名前を出せば協力者になってくれるわ』と教えてくれたことで、渋々受けることにした。一体この探偵は本当に何者なのだろうか。
「ところで、梶元警部補は今この場にいない?」
「えぇ、梶警部は別件で今は警視庁にいます」
「なら問題ないわ。あのエロ親父は間違いなく事件そっちのけでクラブの女性を口説くに決まっているわ」
町沢の口元が緩くなっているのを、北条は見逃さなかった。さすが、梶のことをよく知っているだけのことはある。
「いらっしゃいませ」
上品なクラブの女性が出迎える。お店を見渡すと、天井には小さいながら高価であろうシャンデリア、煌びやかな間接照明、入り口の床は大理石であろうか。キャパはボックス席がゆったりとした二〇席程度であることから、並木通りのお店でもランクが高いようだ。数組のお客さんがいたうち一組に、殺された守倉議員の愛人が接客していた。あの風貌は間違いない。運良く北条たちは愛人のテーブルの隣に着くことができた。
「町沢。隣のテーブルに座って接客しているのが、ターゲットの女だ」
町沢がターゲットの女性を確認した。接客している隣の席を見ると、客の一人でどこかで見覚えのある顔であった。
(あ、あいつは)
「北条さん、書くものありますか」
町沢が慌てて北条に聞く。
「だったらスマホのメモ帳使えば?」
現代社会ではごもっともな答えだ。町沢がスマホのメモ帳を使って北条にメッセージを伝えた。
『ターゲットの隣にいる男、おそらく唐津組の舎弟です』
唐津組は日本最大の広域指定暴力団・松村組の傘下にある。組員は不明瞭であるが武闘派で、先日もマンション襲撃事件起こし世間をにぎわせていた。昔ながらの任侠道からは大きく道を外した組織であると、北条はテレビのニュースを通して前から感じていた。そして、北条が町沢が使っていたスマホを横取りし、メモを書く。
『別にヤクザがクラブに来ても問題ないじゃない』
町沢が北条からスマホを取り返し、再びメモをした。
『このヤクザ、国会議員を利用して、自分たちの都合のいい法案を可決させようとする事例がありました』
国会議員というキーワードに、さすがの北条も驚愕した。一見何の繋がりのない人物が、これほどまでにつながっていたとは。殺された国会議員と密会していた愛人。その愛人が接客している男性は、国会議員を脅すことを業いとしているヤクザ。そのヤクザが脅していた国会議員が殺された議員だとすれば、話が繋がることになる。
町沢がスマホのメモにまたメッセージを打ち始めた。
『あとはボイスレコーダーで記録します』
北条と町沢は、アイコンタクトで合図したのち、あとは、先ほどのふざけた設定の役を演じることに腹をくくった。
「いらっしゃいませ」
クラブの女性が、二名座席についた。
『いや~いいケツしてんね~、ね~ちゃん』
ボイスレコーダーから聞こえてくる下品な言葉に腹を抱えて笑う北条であった。
クラブでの盗聴・・・もとい、潜入捜査の結果ともいえるボイスレコーダーでヤクザの発言を盗聴した音声を聞くため、北条と町沢はタクシーで渋谷に向かい、邪魔の入らない北条の探偵事務所でボイスレコーダーを聞いていた。ところが、聞こえてくる声は町沢が女遊びが好きなエロ社長を演じていた音声しかほとんど聞こえてこなかった。
「にしても、あの恥ずかしいセリフを棒読み役者が言うことで、なんでこんなに面白いのかしら。下手なお笑い芸人よりも数倍面白いわ」
「言えって言ったのは、北条さんじゃないですか」
『よ~し、この後はホテルダ~』
「アーーーーっはっはっは」
再び下品な町沢の発言に、北条の高笑いが響く。町沢は肩がぷるぷる震えていた。
「にしても、最高だわ。『俺はIT社長だ』とか言ってたけど、クラブの女性には絶対ただの酔っ払いとしか思われてなかったわ」
町沢は人生の中で最大の汚点として捉えていた。
『守倉は事故で死んだと無事に思わせられたな』
『でも、死んだと聞かされて信じられなかったから、思わず葬儀まで行ったわ~』
「ヒット!!」
隣の音声が聞こえてきた。会話の内容から察するに、おそらく守倉議員殺しの会話であろう。会話が聞こえてくるのを聞いて、北条が高らかにガッツポーズした。
「本当に、こんなことがあるのか」
町沢は、驚きを隠せなかった。さらに、テープからは次々と重要な会話が飛び出す。
『あなたが殺したの?』
『俺は直接手出しはしないさ。あのお方の指示だとしても俺たちは下請けに任せるのさ。工事業界の元請けと下請けの関係さ』
『でも、例の案件はどうするの?』
『代役を用意させるとのことだ』
『ね~ちゃん、ホテルいこ~』
「町沢黙れ!!!」
重要な会話に突如場違いな発言が飛び出してきた。最後の発言はテープを聞いていた北条の発言である。
その後テープから聞こえてくる声は、守倉議員殺しの会話ではなかった。ボイスレコーダーから聞こえてきたキーワードは、例の案件はどうするか。それについては代役を立てるとのこと。つまりは、守倉議員は用済みということか。このクラブに来ているヤクザが殺さなくとも、組員の誰かが手を出したということか。
「この事件は、実は闇の深い事件のような気がします。こう、単純な見解ではいかないような」
『人生は単純ダ~』
「一人二役で漫才してどーするのよ」
町沢が真面目な話をしているにも関わらず、流れてくるボイスレコーダーからは、町沢のふざけた音声がタイミングよく聞こえてくる。北条はまたしても腹を抱えて笑っていた。その後、何度もテープを聞いてみたが、事件に関わる重要な発言は聞こえてこなかった。
「それでも、新展開だわ。この愛人とこの客は守倉議員殺しに深く関わっているわ。すなわち、守倉議員は事故死ではなく殺人事件として警察も放ってはおかないわ」
「確かに、これは貴重な情報です。まさか、こんな情報がたまたま北条さんが目をつけたクラブで聞けるだなんて」
北条は町沢の情報を元に、愛人とあっていたヤクザの情報収集をしていた。このヤクザはとある代議士の先生と太いパイプでつながっており、いわば、汚れ仕事を担う立場にあるようだ。それなら、殺された国会議員とは敵対している政党に属していた。つまり、目障りになったから殺された? いや、そんな単純なものではないだろう。あれこれと想像を働かせてみたものの、決定的な線はつかめなかった。
「僕はとりあえずこのキャバ嬢に事情聴取をしてみます」
「そうね、それがいいわ。貴重な情報は全て私に教えてね」
「もちろんです」
「だけど気を付けて。国会議員とヤクザが手を組んでいるとなると厄介だわ。恐らく警察にも関係者がいるか、上層部に圧力をかけていることも考えられるわ。この件については慎重になったほうがいいわ」
北条さんからまさか気を使う言葉をもらうなんて、と慌てふためく町沢である。だが、確かに気をつけなければいけない。下手をすれば自分の存在を消される可能性もある。町沢が一礼をして事務所を去った。
町沢が去っていくのを見て、北条は何か頼りないながらも、町沢を信頼している自分がいることに気が付いた。
七
二月一日
深夜の並木通り。酔いつぶれたサラリーマンや介抱するクラブのホステス。この界隈は昼間よりも深夜のほうが活気づいている。その中に、スーツ姿の青年が一人で寒空の中立っていた。だが、しっかりとした足取りから、お酒は飲んでいないようだ。それもそのはず、その青年は職務中だからである。そう、彼の名は町沢健斗。警視庁捜査一課に属する刑事である。
深夜の並木通りにいる目的は、守倉議員の愛人と思わしき人物、同時に唐津組と関りがあるクラブのホステスに職務質問をするためだ。二四時間前、北条と一緒にこのクラブに入ったことを町沢は回想していた。
『いや~いいケツしてんねー、ね~ちゃん』
『よ~し、この後はホテルダ~』
『ね~ちゃん、ホテルいこ~』
今すぐに記憶から消し去りたい。自分史における最も黒歴史にしたい事件だ。これだけ醜態をさらしたことなど、生まれてこのかた二〇数年なかった。いくら演技とはいえ、あれだけ醜い姿をさらした事実は、一生消えることはない。さらに、テープレコーダーは北条が管理している。あの女探偵のことだ。テープレコーダーに録音されている内容をネタにゆすることだって厭わない性格であろう。町沢は絶望していた。
午前零時を回った頃、クラブの店を閉めてからすぐにキャストたちがテナントビルから出てきた。風営法が厳しくなったせいか、どこのクラブのお店も閉まる時間は同じである。似たような顔ぶれの嬢たちが蜂の巣をつついたときの蜂のように一斉に飛び出してくる。クラブ嬢と一切接点のない町沢は、例の守倉議員殺しと接点のあるキャバ嬢の区別に苦慮していた。北条は例のキャバ嬢とは何度も顔を見ているが、町沢はほぼなかった。面と向かって顔を見たことすらなかった。北条からもらった写真(一枚千円×三枚)を頼りに、今か今かとキャバ嬢を待っていた。
「あれっ、この前の社長さん。どうも、こんにちは」
「ん?」
あっけにとられる町沢。あっ! として思い出したのが、先日、北条と一緒にキャバクラに潜入捜査した時に席に着いたキャストの一人であった。
『いや~いいケツしてんね~、ね~ちゃん』
『よ~し、この後はホテルダ~』
『ね~ちゃん、ホテルいこ~』
エロ親父の発言は、北条には自分は演技だということが承知だが、このキャストは自分のことを百パーセントエロ親父だという認識でいるに違いない。さらに、お店が終わるのを見計らってで待ちしていることを見ると、本当にホテルに連れ込もうとしているように見える。恐らく、このキャストは、俺を軽蔑しているに違いない。昨日は店で下ネタ発言をして、今日は早くも出待ちをしている男。あぁ、穴があったら入りたいとはこのことだ。いや、伝家の宝刀として警察手帳をみせるか。いや、そんなろくでもないことで桜田門の紋章を泣かせるわけはいかない。町沢があたふたしていた時だ。
「いた・・・」
町沢の目には、参考人となるキャバ嬢が見えた。写真の通りの人物だ。
「社長さん、今日はあの娘とアフターですか?」
「い、いえ、ち、ちがいます(んなわけねーだろ!! でも言えねーよなー)」
一刻も早くこの場から去りたいがための一心か、やけに足早に参考人のキャバ嬢に声をかけた。
「勤務後お疲れのところ申し訳ありません。私、こういうものです」
よく見る刑事ドラマのシーンである、警察手帳を見せる場面だ。
「あ、はい。刑事さんが、いったい私に何の用でしょうか?」
これもよく見る刑事ドラマのシーンである。だが、このキャバ嬢は肝が据わっているのか、警察だと名乗っても特に物おじせず堂々としていた。
「あなたに二,三お話したいことがあります。先日、守倉議員という国会議員が亡くなられた件について、捜査をしているんですが」
「あー、テレビで見たわ。でも、あれって事故で亡くなったのではないですか?」
「えぇ、そうです。ですが、事故としての裏付けをとるために、刑事も駆り出されている状況です」
事故か事件か。こういう微妙な時の参考人に対する職務質問は、マニュアルで心得ている。事件としての事情聴取では、かえって参考人から有力な情報が得られなくなってしまう恐れがあるためだ。
「では早速、亡くなられた守倉議員ですが、死亡する数週間前の足取りを追うと、頻繁にあなたと会っていたそうですが、間違いないですか?」
「えぇ、間違いないわ。守倉議員はよく私が勤めているクラブで接待として使っていただいてたわ」
「ですが、あなたはここ数週間のうちに、何度も守倉議員と会っています。ただのクラブの客との関係では、やけに会う回数が多くはありませんか?」
「鈍感な刑事さんね。普通これだけ会っているなら何やっているかわかるものでしょ?」
キャバ嬢は町沢に対して呆れた口調で答える。見た感じは自分と大して年の差を感じないように見えるが、いきなり面と向かって説教をされてしまった。だが、そんなことを言われても全くピンとこない町沢も町沢だ。しかし、夜の世界にいる人は肝が据わっていなければ務まらないのかと町沢は一つ学習をした。そして、町沢の人生経験の浅い中で一つの答えを導き出す。
「その、あくまで勝手な想像ですが、守倉議員とは一線を越えた関係で・・・」
「ずいぶんドストレートに聞くものね」
すみませんと平謝りする町沢である。
「でも、答えはそんなところかしら。どうせ、どこで会っていたかだなんてすぐわかるでしょ?」
「えぇ、日比谷の高級ホテルのようですね」
「流石刑事さん。何でも知っているのね」
感心するキャバ嬢ではあるが、この調査は全て北条が突き止めた。北条から情報提供料として三万円を支払って突き止めた内容である。
「あともう一点だけ確認を。お名前は何ですか?」
「名前? 刑事さん名前知らないでここに来たの? 私の行動は知っているのに名前を知らないなんて、おかしな話ね。いいわ。私は『如月 みゅうび』という名前よ」
「あ、あの。それは源氏名ではないでしょうか。できれば、あなたの本名を教えていただきたいのですが」
町沢の指摘に驚く如月みゅうび。人生経験の浅いオタク気質な人間だと夜の世界の経験上で判断していたが、多少夜の世界のしきたりを知っているようだ。
「鈍感なくせして、源氏名だなんて知っているのね。ちょっと見直したわ。本名は『松本美幸』という名前よ」
町沢は表情を崩さず淡々と名前をメモする。内心では、北条さんの言う通りだと振り返っている。それは、北条の事務所を出る時だった。
「いい? 町沢。夜の女はいくつもの顔と名前があることを心得ることね」
「いくつもの顔と名前。なんだか怪人二〇面相みたいですね」
「あほか! 夜のキャストが名前を使う時は決まって源氏名という偽名を使うものだ。まさか、今まで夜のキャストは全員本名だと思っていたのか?」
「は、はい。やけにみんなおしゃれな名前だなって思ってました。そして、苗字も格好いい名前が多くて、佐藤とか鈴木とか、ありふれた名前の人はあまりいませんね」
町沢の発言に、北条がお腹を抱えて笑っていた。一体何のことで笑っているのか町沢には理解できなかった。
「あなたみたいな世間知らずと話していると、面白くて飽きないわ。いい? 夜のキャストは決して本名を明かさないものよ。一般人にはなおさらね。だけど、あなたの警察手帳を見せれば、さすがに本名を明かすでしょうね。とにかく、名前を確認した時に芸名や宝塚みたいな名前が出てきたら、真っ先に疑うことね。そうでないと、警察のリストを調べても永久に名前は出てこないわ」
「は、はい。わかりました。貴重な情報ありがとうございます」
「さて、授業料として・・・」
「もう勘弁してください。北条さん、オレオレ詐欺のグループよりもお金に関してがめついですよ」
「えーっと、この場合名誉棄損と侮辱罪として訴えれば、いくらになるかな?」
「・・・・・・・」
北条の助言がなければ、町沢は『如月みゅうび』という名前を延々と検索していたであろう。
「では松本さん。守倉議員のことに関して何かあれば、こちらまでお電話ください」
町沢は松本に名刺を渡した。意外に知られていないが、刑事という職業も国家公務員のため、名刺は携帯してある。松本はわかったのかわからないのか、あいまいな表情で町沢の前を後にした。
「奴は始末したが、自殺に見せることが完全にはできなかったことが、失敗だな。警察内部では殺人事件として特別捜査本部を設置するという噂も出ている」
「はっ、申し訳ありません」
「ほんとよね〜おかげで私のところにも警察が来たわ」
日本庭園が見える立派なお屋敷には似つかわしくない会話が聞こえてくる。唐津組の人間と北条が追っていたキャバ嬢の松本の会話だ。黒いオーラがどす黒く渦巻いている環境だ。まだ午前中だというのに。
「まぁ、仕方あるまい。完全犯罪というのはしょせんはフィクションの世界だけだ。少しでも異変があれば、奴らは血眼になって捜査をする人種だ。だが、それも下っ端までのこと。警察組織を動かすのは、ある種の経営と同じこと。警察・国・個人の私服になることならなんだってやるのは警察上層部の人種だ。その警察上層部にエサを与えれば、奴らなど怖くはない。現に、この事件はこの私がちょっとお願いすれば、簡単になかったことになる。ところで、なぜ警察がお前のところに来た? この件関しては警察に圧力をかけて事故に見せかけるよう、この私が警視庁の内通者に話は通してあるはずだが」
「知らねぇよ、そんなの~」
多少素が出ているキャバ嬢である。やはり客前と素性では大きく異なるようだ。
「ところでお前、その刑事の名前は聞いたんだろうな?」
「ちょ~どいいことに、名刺をもらったよ。なんだかどんくさくて幸うすそ~な男だったよ」
その名刺には『町沢』と書かれていた。
「この町沢とかいうやつを処分しますか?」
「いや、迂闊に警察官を殺すのは公になる。監視だけつけるだけに留めておこう。この町沢に監視をつけることを警察の知人にも話を通しておこう」
静粛な雰囲気が、より一層場の空気を凍らせる。
「ところで、例の計画はどうなっているんです?」
「あぁ、問題ない。全てはこの私の思い描いた通りに動いているよ」
「そうですか、なら問題ありませんね」
「ねぇ、例の計画ってなぁにぃ?」
「お前は気にしなくていいことだ」
やや拗ねる松本嬢。その横では唐津組の人間が電話をかけていた。どうやら、警察関係者らしい。
「どうも。警視庁捜査一課の町沢という刑事を監視してほしい。こういう青二才は組織を知らないせいか、時に私たちの脅威となりかねない。どうか、ご協力をよろしく」
八
二月六日
北条の探偵事務所でボイスレコーダーを聞いてから一週間後、町沢が再び北条の事務所を訪ねた。ここ最近、この『北条みこと探偵事務所』に通う機会が多くなり、焦りを感じ始める町沢。刑事が個人的に探偵事務所に足蹴もなく通っていいのだろうか。
渋谷の路地裏にある古びたビルのエレベーターに乗り一一階のボタンを押す。エレベーターの上昇は決してスムーズではなく、ガタゴトと何か物に当たるような感触をしながら上昇していく。きっと、いつかエレベーターが故障するであろうと町沢はにらんだ。北条の探偵事務所についたが、呼び鈴がなくドアが開いていたた。しかし、反応がないためそのまま入ると、北条がお茶を飲みながら何かしらの資料を眺めているのが見えた。
「あら、町沢。あなた、まだ生きてたのね」
何をいきなり言い出すんだこの人は。いや、相変わらずか。
「縁起でもないことを言わないでください」
「冗談よ、冗談」
北条が言うと冗談には聞こえない。だが、町沢には「嘘つけ」と言える度胸は備わっていなかった。
北条が読みかけの資料を机に置いて、町沢の方に目を向けた。
「それで、用件は何かしら? まさか、お茶を飲みに来たわけではないでしょ? 大方、例のキャバ嬢と会ってきたって報告かしら」
鋭い。やはりこの人の前では隠し事はできないと町沢は思った。いや、北条の事務所に来ている地点で用がなければまず来ないはずだが。
「は、はい、その通りです。用件は、あの後、例のあの女に職務質問をしてみました」
北条は仕事が早いと感心していた。話をしている傍ら、北条が急須と湯飲みを持ち始めた。町沢は来客者である自分のためにお茶を入れてくれるものだと思った。だが、北条は急須と湯飲みを棚の中にしまった。人の話を聞きながら片づけをするな! 町沢は突っ込みたくてうずうずしていたが、声に出す度胸はなかった。北条からしてみれば、『お前にだすお茶はねぇ!!』とでも言いたげであった。
「それで、何か収穫はあった?」
言葉に詰まる町沢を目に、ははんといったばかりの表情を見せる北条。
「大した情報はどうやら聞けなかったようね」
「な、なんでいつも鋭いことを突きつけられるんですか? まだ何も言ってないのに」
「表情を見れば、何も言わなくたってわかるわ」
人間観察のオリンピックがあれば、金メダルを取れるのではないか。改めて何者なのだろうと、町沢は思う。だが、北条にとっては、こんな単純な奴はいないという答えではあった。
「ところで、そんなことを報告するためにこの事務所に来たわけではないでしょ? 言ってみなさい、来た目的は何?」
本当に鋭い。なぜいつも人間の心理をここまで突き止められるのだろう。だが、町沢がどれだけ悩んでも答えが出ることは恐らくないだろう。
「それなんですが、あの女に職務質問をしてから数日後、何かつけられているような気がするんです」
「あなたをストーカーするだなんて、よっぽどの暇人か物好きね。せっかくだから、お相手してあげたらどうかしら?」
笑い事ではありません! と強く否定したかったが、断る理由が見つからなかった。悲しき男だと町沢は改めて思い知らされた。
「そこでお願いがあります。僕をつけている人物を突き止めてほしいのです」
「だから言っているじゃない。その人物は変質者よ」
からかわないで下さいと言わんばかりの町沢であった。
「にしても、刑事がストーカーされているからって探偵に調査依頼をするなんて、よっぽど腑抜けね。その警察手帳を使って職質かければいいじゃない」
「いや、こう・・・普通の人間じゃない気配何です」
「エイリアンとでもいうの?」
徐々に扱いが梶警部のようになってきつつあると町沢は呆れていたいたが、事の深刻さを伝えるべく、北条に真剣に話をした。
「間違いなく裏の人間の気配がします。暴力団というか、殺し屋のような感じです。単独の時に職質をかけては、間違いなく車の中に連れ込まれ殺害されます」
「じゃあ、そのまま殺されれば?」
何という暴言だ。確かにこの人であれば、あの梶警部を丸められるのも納得できる町沢である。
「でも、あんたの言う通りだとすれば、裏の人間が絡んでいるっていうわけね。それをマル暴に頼んでみるも、そんなことに時間を費やしていられるか! その警察手帳を見せて職質でもすればどうだ? って突っぱねられたってわけね。警察内部では誰も協力してくれやしない。そこで、思いついたのが私立探偵、つまり私に協力を求めにきた。ってところかしら」
「・・・・・・・」
あっけにとられる町沢。事実、北条の推理は完璧であった。だが、この北条に頼めば、何か新しい発見ができるのではないか。藁にも縋る思いでこの探偵事務所に来たのだ。
「しかし、刑事というあろうものが、一介の私立探偵に尾行してくれだ? なんて情けないんだか。去年のクリスマスの事件の時の輝きはどこに行ったのかしら」
北条の言う通りだが、この際四の五の言っていられない町沢である。どうにかしてお願いをしなくては。
「まぁいいわ。あなたが依頼主であるならこれはれっきとした商売だわ。言っておくけど、依頼料はそれ相応の物がかかるわよ。覚悟しておくことね」
町沢はこの前出たボーナスをつぎ込むしかないなと、覚悟を決めた。せっかく最新式のノートパソコンやブルーレイを購入しようとしていたが、あきらめざるを得ない。
「北条さん、絶対に僕をつけている人を見つけてくださいよ」
「はいはい、わかったわかった」
本当にわかっているのか。やっぱり赤の他人の探偵に依頼すればよかったのか。あぁ、不安でたまらない。ゆっくりと閉めたドアの音で町沢の心境が手に取るようにわかる。
「さて、思わぬところでボーナスが出たわね。せっかくだから最新式のノートパソコンやブルーレイでも購入しようかしら。だけど、町沢の身に危険が迫っていることは事実ね。ことは思っている以上に大きいわ」
そうして、北条はかつての勘を頼りに、刑事が殉職した時に発生する保険金を調べ始めた。
九
約束通り、町沢を北条がつけることにした。何か新たな情報が手に入ることを期待してのことだった。もちろん、依頼料は頂戴することにしている。それは経費で落ちるのかは、北条は一切気にしてはいない。
「いい? あなたは普段と同じ行動をすること。ちょっとでもいつもと違う行動をとれば、不審に思われるわ」
そうして、非番の町沢の行動をつけてみると、行き先はコンビニ、レンタルビデオ店と自宅の三つだけ。寂しい男である。一体何を楽しみに人生を送っているのだろうか。まぁ、お酒やパチンコに依存していないだけましか。その町沢の跡をつけてみると、特に誰も跡はつけてはいないようだ。まぁ、この男の跡をつけたところで何の意味もないと思うが。だが、北条にとっては美味しい収入だ。何もしないでお金が転がり込んでくるだなんて、これ以上の贅沢はない。
「さて、たっぷり甘い汁を吸わせてもらおうじゃない。今回は尾行と称して鉄板焼きでもたべようかしら。いや、あの男がそんなおしゃれな場所など行くわけがない。高架下の大衆食堂がいいところか。いや、牛丼チェーンか」
二日目も三日目も、町沢の公務に服している時間以外の跡をつけてはみたものの、特に誰もつけていない。行き先は、相変わらずコンビニ、レンタルビデオ店、職場だけだ。
「今日も特に収穫はないわね」
北条が両手を伸ばして帰宅しようとした時だ。町沢から五〇メートル離れたところに黒塗りの高級車が止まっているところを北条は見つけた。北条の目の前には黒塗りのベンツ、その先にいる町沢は車の存在には気が付いていないようだ。数十メートル先に町沢の警察官の宿舎がある。後ろの窓はスモークがかかっていて、中の様子を知ることができない。一般人の車ではないことは、北条には分っていた。周りは市営住宅や低価格な賃貸アパートが大半を占める地区だ。この地区にピカピカな黒塗りベンツなどあるほうがおかしい。さらに、ナンバープレートが『・・-・1』ときたものだ。明らかに一般人ではない。ここで立ち止まっては怪しまれる。北条は直進して、町沢の宿舎をやり過ごすことにした。
横の窓もやはりスモークがかかっていて、中の存在を知ることはできなかった。やがて車の前に出た北条はスマートフォンを取り出した。はたから見れば歩きスマホのように見えるが、通話ボタンの先にあるカメラを回してフロントガラス越しの様子を撮ろうとした。探偵という職業柄、この手の盗撮は簡単にできた。北条は何事もなかったかのように、突き当りの道を左に曲がった。
「町沢が言っていたつけられているって言ったのは、このベンツかしら? にしても、一体あのむさくるしい男をつけて何の得になるんだか。人生短いんだから、他にやることがたくさんあるだろうに。でも、機密を守るために殺すのであれば、可能性はあるわね。本当に警察に圧力をかけたか、警察内部の闇組織が動いているか。にしても、さっさと東京湾に沈めてしまえば話は早いのに」
町沢が宿舎に入った頃だろうか。北条の後ろからスピードの速いベンツが後ろから迫ってきた。
「まずい、バレたか?」
北条の不安をよそに、ベンツは何事もなかったかのように猛スピードで過ぎ去っていった。やや焦った北条であったが、とりあえず何事もなくホッとした。やがてスマートフォンにメッセージが来た。町沢からだ。
『北条さん、あのベンツ見ましたか? 絶対怪しいですよあの車。あんな物騒な車、このあたりでは持っている人なんていません』
ベンツ=ヤクザの車などという方程式は、一体いつの時代なのだろうか。北条は呆れていたが、北条も町沢もベンツの存在には危惧していた、腐っても刑事といったところか。北条は先ほど隠し撮りした動画を町沢に送ろうとした。動画にはばっちり中の様子をうかがい知ることができた。こわもての男二人が前列にいた。町沢も確認したところ、特に身に覚えはないそうだ。すぐに捜査四課・暴力団対策課に確認を取るとのことだった。
「これで調査は終了ね。さて、結局町沢はどこにも行かなかったわね。せっかく経費でおいしいものが食べられると思ったのに。まぁ、あの男に期待するだけ無駄なことか」
口ではそっけないが、実のところ町沢を心配している北条である。この男たちの顔が割れれば、そう簡単に町沢に手出しはできるまい。