表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

北条の怪人二十面相張りの変化


   二


一月三日

 無事に年越しを迎えたことで町沢は安堵感であふれていた。年内にまた殺人事件があれば、年越しは間違いなく警視庁で過ごさなければならない最悪の事態となった。もっとも、紅白歌合戦を見てカウントダウンの瞬間をテレビと過ごした結果は、警視庁にいるのとどちらがよかったのだろうか。

ともあれ、管内に殺人事件がクリスマス以来発生しなかったため、ホッとしたのが正直なところである。

 町沢は、これもあの女探偵に出会ったことに感謝の気持ちでいっぱいであった。事件はその後、被害者の友人である女性が容疑者として逮捕された。動機は、彼氏を取られたことによる復讐だ。加害者の情勢は、一年前に交際していた男性と、また一年後のクリスマスに思い出を作ろうね、と約束したが、すぐに被害者と交際するようになり、加害者女性はポイ捨てされたとのこと。それも、被害者の方が男性を誘惑したとのこと。それまで友人であった二人の友情は、もろくも崩れ去った。まぁ、女の友情というものはこの程度である。

 行きついた先が、約束したクリスマスイブの日に恋人を取った友人を殺害すること。それで、容疑者が勤務するビルに被害者を呼び出し、殺害した。その左手薬指にきらりと輝くものを見つけた。婚約指輪だ。加害者は悔しさのあまり、婚約指輪を奪い取った。まぁ、よくある推理物の動機であるが、これが真実である。


「そうですか、それは事件ですね」

 年明け早々、またしても事件が発生したようである。とは言ってもここは警察ではなく北条の探偵事務所の中である。年明け早々に事件を持ってきた依頼者も正月休みなど関係ないくらいだ。よほどの事情だろうか。

 事の発端は、一月三日の一〇時を少し回ったところだ。新年早々開店していた探偵事務所は『北条みこと探偵事務所』だけであった。ちなみに、北条みこと探偵事務所は元旦から営業していた。

 呼び鈴が鳴り北条が出向くと、上品な紺色スーツに黒のハットを被った貴婦人がいた。首元のネックレスや赤い上品なカバンを見るに、それ相応の身分の人だと伺える。そんな高貴な身分の人が、なぜこの裏路地のような探偵事務所に来たのだろうか。北条はやや疑問に思いながらも、その貴婦人の話を慎重に聞くことにした。

 貴婦人の名前は守倉道子もりくら みちこ四六歳 専業主婦。

「近頃、私の夫の様子がどうも変なんです。その、近頃帰りが遅いんです。私の夫は国会議員なので、帰りが遅いことはよくあることです。ですが、どうも仕事とは別のことで遅い帰宅となっているような気がするのです」

「ふーん。それは女の勘ってところかしら」

 全然慎重ではない。

「お気持ちをわかる人といえば、女性探偵しかいないのです。男性ですと、その、デリカシーというものが・・・それで、女性探偵を探していたのです。ですが、私が自由に動ける日にちは限られているのです。夫が実家に帰省している正月三が日しか猶予がありませんでした。その時、私の友人からこの探偵事務所を紹介していただきました」

 それもそのはず。正月三が日に営業している女性探偵事務所など、世界広しといえど『北条みこと探偵事務所』くらいしかないだろう。北条からしてみても、特に予定がなかったのでかえって好都合であった。

「それで、帰りが遅いから不倫でもしているんじゃないか? ってとこかしら」

 さっきから、全然慎重ではない北条。だが、依頼人は目の前の北条しか拠り所がないためか、北条のストレートな言葉に苦ともしていない。

「まさしくその通りです。このままモヤモヤしたままでは、次の選挙では妻として、全身全霊夫を支えることなどできるはずがありません」

 正直、国会議員のことなどこれっぽっちも信用していない北条だが、その妻の身を案じて親身になって話を聞いた。やがて・・・

「わかりました。その依頼を引き受けましょう」

「本当ですか? あ、ありがとうございます」

(単なる不倫調査ね、ちょろいものだわ)

 頼れるものが一人しかしかいない状況で、この依頼を引き受けてくれた。依頼人にとっては、地獄から天に昇る糸が見え、その糸に捕まって天国に昇る気分であったかのようだ。

「では、これからの工程について打ち合わせをしたいと思います。私はこれからあなたの夫の尾行を開始します。期間は・・・」

「二週間で構わないわ。その二週間で何かしらの埃が出ると思いますわ」

二週間の短い期限。政治家であればこれから予算編成の時期に入るというのに、不倫をする時間などあるのだろうか。しかし、探偵であれば依頼人の意見を尊重するほかない。

「では、二週間の調査後、報告を兼ねて別途お会いしたいと思います。ご礼金については、その時にお話ししたいと思います」

「お金ならいくらでも払います。だから、この依頼を必ずやり遂げてください。そして、その証拠を必ず突きつけてください」

 落ち着いた表情ではあるが、口調がやや強くなっている。これは夫が妻を信じているか確かめる裁判だ。弱気になっている時ではない。

「夫の写真はありますか?」

 北条の問いかけに守倉夫人が応じ、写真を三枚北条に差し出した。そこには、国会の答弁をしている勇ましい政治家の姿があった。白髪のオールバックにがっしりとした体形、やや色黒の肌。いかにも政治家といった風貌である。だが、政治家であろうから顔を知っているかと思いきや、北条にとっては初めて見る顔であった。

「この写真の男性が、あなたの夫ですね」

 守倉夫人が首を縦に振る。

「わかりました。それでは、翌日から早速調査を開始します。ただし注意点があります。守倉夫人にはいつも通りの振る舞いをお願いします。少しでも夫に怪しまれたりすれば、不倫調査がお釈迦になります。夫が帰って来たときに『何か変なことはなかった?』などと、不倫調査をにおわせるようなことは言わないようお願いします」

「は、はい。わかりました」

北条の注意事項を聞いたのち、守倉夫人が帰る時であった。

「そういえば、このビルで昨年殺人事件があったと伺っていましたが、あれは本当なのですか?」

「えぇ、そこの非常階段で亡くなられていました」

 初対面の人間に対してものすごい内容を平気で口にする北条である。

貴婦人を見送ったあと、新年一発目から仕事が舞い込んできたことに北条は喜びを隠せない。だが、うかうかはしていられない。不倫調査の期限は短い。早速調査に乗り出さなくては。


   三


一月五日

 依頼から二日後。この日、北条はとっておきの変装をして永田町へと向かっていた。調査対象とは何の面識もないのに変装など意味があるのか? という質問は気にはしていない様子である。

「原子力発電所の建設反対が世論となっていますが、今回の国家予算に原子力発電所建設の予算が組み込まれている点について、どうお考えでしょうか」

 不倫の定石は、調査対象の後ろを尾行するものだ。ところが、調査対象の目の前には、なんと新聞記者となっていた北条が堂々と立っていた。それも、会話のやり取りもやっている。これだけ堂々とした尾行は今までなかったのではないだろうか。それに新聞記者も中々様になっている。ここまで演技ができるなら、探偵事務所ではなく役者となればもっと成功したのではないだろうか。

 この質問の場では、調査対象の仕草を見抜くことであった。さらに身につけているアクセサリーの類い、不倫につながるものをリサーチした。左手薬指にはめている指輪は、結婚指輪だ。左腕に巻かれているのはパティックフィリップだろうか。いかにも国会議員が好みそうな高級時計だ。スーツもアルマーニ。胸ポケットにはハンカチーフ。写真で見た印象の通り、どこからどう見ても国会議員という風貌だ。ここまでは何ら違和感がない。

 国会討論が終わり、記者質問を終えた守倉議員はそそくさとタクシーに乗り込み銀座に向かっていった。秘書を数人連れて、銀座の裏路地にある鮨屋に入っていった。まるで絵に描いたような国会議員の先生である。

 北条はよくあるパターンの電信柱に隠れて鮨屋から出てくる所を待って・・・いなかった!!

 髪をかきあげたカツラをつけ、さらには着物を着て堂々鮨屋に入っていった。確かにどこからどう見てもこれから高級クラブに出勤するママである。

「何握りましょうか?」

 坊主頭のゆうに七〇歳を超えた風貌の活きのいい大将が、変装した北条に訪ねる。

「そうね、大トロからいこうかしら。そのあと、ウニ、イクラ、カニ、アナゴ、本マグロ・・・」

 おそらく依頼人のお金で落とすのであろう。これだけのものを頼めば、三万円は軽く超える。北条はここぞとばかりに高級なネタを次々注文した。

「なぜこれだけ高いってい聞かれたら、お高い鮨屋さんに守倉議員が入ったからって言えばいいわ。お店に入らなかったら中での会話が聞けないからお鮨屋さんに入った。さらに、何も注文しなかったらお店に怪しまれるから、やむを得ず注文した。ってことにしておこう♪」

 末恐ろしい。だが、ここが北条のすごいところで、出されたネタを上品に食べている。あくまでも、今は高級クラブのママなのだ。どん兵衛のうどんをお湯を注いでからの五分の待ち時間より早く食べる普段の姿など見せられない。

 守倉議員の様子は、さぞご機嫌なようであった。会話から翌日の質疑の打ち合わせなど、不倫の『う』の字も見当たらない。会食から一時間と少し過ぎて、守倉議員が席を立った。すぐさま、北条もお代三万八五〇〇円を払い、さらにキッチリ領収書をもらったのち、守倉議員の後を追った。

 時刻は午後九時を回ったところか。ここで、守倉議員は秘書たちと別れた。自宅に帰るのであれば、今日の業務は終了か。そう思った時、守倉議員はタクシーに乗らず、日比谷方面へと歩いていった。北条が着物姿のまま尾行すると、日本でも有数の高級ホテルへと入っていった。

 まさか! 調査初日からボロを出した。北条は高まる鼓動を抑え、ホテルに入った。服装が功を成してか、ドアマンから温かく迎えられた。

「人と待ち合わせをしています」と言って、守倉議員の後をさりげなく追う。

守倉議員はホテル一階にあるラウンジに向かった。座った横には目を見張る程の美人であった。茶色い髪にカールを巻いたパーマ。爪先には輝くばかりのネイル。冬の凍てつく寒さを守る毛皮のコート、あれはエルメスではないか。見た目からすると、まるでどこかのキャバ嬢ではないか。

「ビンゴ!!」

 少々時代が古い表現であるが、証拠を突き止めた。まさか初日にこれだけの成果を上げることができるとは、その上新年早々銀座で鮨を平らげるという、この上ないラッキーが続いていいのか。

 さすがに隣に座って会話を聞くわけにはいかない。北条は守倉議員の姿が見える位置に座って美女と話す姿を眺めていた。読唇術を使いたかったが、あてにならない。以前、『コンチクショーどもめが』と呼んだが、実際は、『私はあなたを愛しています』であった。そのおかげで、依頼人に報告した結果、当然トラブルになった。

 ラウンジにはシャンパンにケーキが並んでいた。

「ご注文は?」

 上品なボーイに言われ、「シャンパン」と答えたかったが、流石に職務に支障をきたすと察知したのか、アールグレイを頼むことにした。本来はケーキを頼みたかったが、お鮨をたらふく食べたため、もうお腹に入らなかったようだ。

「シャンパンケーキセットが七五〇〇円かぁ・・・残念だ」

 どれだけがめついのだろうか。

 守倉議員と美女の表情を見る限り、楽しそうに会話が弾んでいるように思える。その時、二人が立ち上がった。北条はトイレに行くふりをして二人をつけた。二人はホテルの客室に向かうようだ。エレベーターに乗り、そのまま最上階へと向かった。

「今日の調査はここまでね・・・」

 宿泊者専用のフロアにはさすがに踏み入れられない。北条は今日の報告書を作るべく、先ほどのラウンジに向かった。

「すみませーん。シャンパンケーキセットくださーい」

もちろん、領収書はしっかりもらった。


 それからの一三日間、同様なことを北条はやった。新聞記者、クラブのママ、仕事上がりのOL、速記者、支持者のひとりなど怪人二〇面相も真っ青変装ぶりだ。

 一四日中例の美女に密会していたのは九日。その間に食べたものはお鮨だけでなく、鉄板焼き、フランス料理、天ぷら、懐石・・・総額一八万円の食費を調査費用として経費に便乗させていた。悪どい・・・

 だが、それに見合う情報も手に入れている。不倫は確実だ。そのための証拠として、写真も撮ってある。万が一合成だろ! と突っ込まれることを想定して、動画もバッチリ撮ってある。それでも、万が一動画編集だろ! と突っ込まれることを想定して、ホテルのボーイの証言も録画してある。

これだけあれば、不倫の証拠としては十分すぎるくらいだ。そのうえ、九日間ともホテルで密会していた。会話は聞こえないが、ホテルの一室で男女がやることといえば一つしかないだろう。ホテルでの密会の後、日付が変わる頃にタクシーで自宅に帰っていた。二週間で九回も密会とは・・・なんて元気な人なのだろう。いったいどんな精力剤を服用しているのだろうか。

 だが、北条にはひとつ気がかりなところがあった。ホテルでの会話が一切わからない。もしかしたら本当に仕事なのかもしれない。そのことが気にかかっていたが、とりあえず報告書をまとめることにした。

 調査費用八三万円(うち食費一八万円)。さすがにカッコ内の文は書けない。他の探偵事務所の三倍以上の金額であるが、調査費用はどれだけかかっても構わないとのことだったので、遠慮なく上乗せさせてもらった。国会議員の妻だ。お金は持っているに違いない。もし何か突っ込まれても、あなたの夫が入った店に行くためのお金です。と、堂々と言えばいいだけのことだ。本当に悪どい女である。


   四


一月二〇日

 打ち合わせの当日。どういうわけか、直接家に来て欲しいと二日前に電話があった。北条自身、スケジュールは真っ白であったため、問題は何もないことから、守倉邸に行くことにした。

案内された屋敷に行くと、場所は世田谷の高級住宅街の一軒家であった。世田谷に庭付き一軒家。並大抵の資金ではない。タクシーから降りた北条は一体どのようにすればこの豪邸に住めるのだろうと思った。この時、タクシーの領収書はしっかりと受け取り、交通費も依頼料として請求することにした。

 大きな門構えのインターホンを押すと、使用人と思われる家政婦が出てきて、応接室に案内された。やはり国会議員ともなれば、自宅に家政婦を雇うことができるほどの財力があるのか。応接室の壁には「フェルメール」や「ルノワール」といった、印象派の巨匠たちの絵が飾ってある。だが、レプリカであろう。東洋の国の一国会議員が、本物の「フェルメール」や「ルノワール」の絵など、買えるわけがない。「どうぞ」とテーブルに置かれたティーカップは、先日のホテルで出されたティーカップにも引けを取らないほどの高級感があった。

「やっぱりお金持ちの家は違うわね」

 北条の探偵事務所は、渋谷に探偵事務所を構えてはいるものの、実際は裏路地のぼろ雑居ビルに入居しているのが実態だ。一年もすれば雑居ビルのテナントの半分は入れ替わっているか、空きが出ている状態になる。いわゆる、いわくつきのビルだ。

 五分くらい待った頃だろうか。待てども来ない状態が続いていたが、何やら屋敷から言い争いのような声が聞こえてきた。

「分かったって言ってるんだろ!!」

 はっきりと聞こえてきた言葉は、この屋敷にはふさわしくない怒号であった。声の質的に二〇代前半といったところか。息子であろうか? お金持ちのお坊ちゃんにはふさわしくない言葉遣いである。いや、お金持ちの家だからこそ、トラブルというものが絶えないのであろう。

「親が金持ちだと子供はだらける。典型的なパターンね。親が国会議員という肩書を悪く利用して、これまで数多くの事件を警察内部でもみ消してきたところかしら。私が最も忌み嫌うタイプね」

 北条は持ち前の人間観察から察知した。推測をあれよこれよと勝手に話を膨らませていた。ドラマの脚本家にでもなれるのではないだろうか。

 守倉夫人が応接室に入ると先ほどの怒号はなかったものにしたいという空気が伝わってきたため、北条は何も言わなかった。

「わざわざお手数をおかけして申し訳ありません。どうしても所要のため本日はこの屋敷から出ることができないもので」

「いえ、特に差支えはありません」

 その点は特に構わなかった。やがて、北条は調査報告結果を話し始めた。

「まず、初日の動向ですが。国会での振る舞いは特に怪しい点はありませんでした。身につけているアクセサリーも不倫女性から送られたようなものはありませんでした。その後、ご主人は銀座のお鮨屋さんで秘書を引き連れていました」

 北条は封筒の中から、写真を数枚取り出す。

「その時の写真がこちらです。この写真の方々について、何か不審な点はありますか?」

「いえ、この方々は主人の秘書です。自宅にも何度か招き入れています」

「では・・・」

 北条は封筒から不倫の証拠となる決定的な写真を出そうとした。この瞬間が、なんともやりききれないものである。

「このお鮨屋さんでの会合の後、ご主人は日比谷方面に徒歩で移動しました。移動先は都内有数の高級ホテルです。その時の様子がこちらになります」

 写真を見た守倉夫人は、写真を一目見ただけで表情が一変した。北条も凝視はしなかったが、たまたま目に入った。その表情はこれまでの上品で冷静な振る舞いが徐々になくなっていくように見えた。

「この女性に見覚えは、ありますか」

「い、いえ。初めてお目にかかります」

 写真には二〇代後半であろう夜のナイトビジネス系の女性が写っていた。茶色くカールの巻かれたロングヘアー、エルメスのコート、爪には洗練されたネイルなど、昼職の人とはかけ離れた雰囲気を出していた。守倉夫人から見ても、ナイトビジネス系の女性であることがわかるであろう。

「ご主人はこのホテルのラウンジで話をした後、ホテルの一室へと向かいました」

 北条の一言一言が、胸を弾丸で撃ち抜かれるような感覚に守倉夫人は襲われた。ホテルの一室に男女が向かう。答えはひとつだろう。

「この後、主人はどのような行動に・・・」

 守倉夫人の声が震えているのが北条に読み取れた。

「ここから先は、私も関知できませんでした。ですが、考えられる選択肢は限られます。やはりご主人とこの女性は・・・」

 そこから先、どのような行動に出たか、守倉夫人は北条から直接伝えるまでもなく理解していたようだ。

「この二週間、密着した調査をしていましたが、実に九回もの回数で密会していました。遊びにしてもここまで頻繁に会うことは滅多にありません」

 北条の一言が、さらに追い討ちをかけた。

「主人がこんなにも女性と密会していたなんて」

「その上国会での答弁も完璧です。こんな激務な生活を続けていることが奇跡です。自宅での様子に不審な点はありませんでしたか」

「いえ、自宅ではこれまでどおりの生活と同じように振舞っていました。若干怪しいと思うことはあったとしても、まさか、ここまで行動的な生活をしていることなんて想像もつきませんでした」

探偵としての業務は全て遂行した。結末は夫の不倫が確定したという最悪な結末であった。

「それでは、本件の報酬としまして、こちらの金額をご請求させていただきたいと思います」

 北条が封筒から取り出したのは、今回の調査費用約八三万円(うち食費一八万円)であった。もちろん食費は記載されていない。普通であれば、金額の高さに驚くところであったが、夫の不倫が確定した今となっては、金額の高さなどどうでもいいことだった。いや、この守倉邸はおそらく一般市民との金銭感覚が一桁違うはずだと北条はにらんでいた。飛行機であればファーストクラスが一般市民でいうと一〇万円程度で行ける感覚であろうか。夫人はすぐさま約八三万円(北条の推測では一般家庭基準の八万円弱と同程度)を財布から差し出した。ちなみに、普通の探偵事務所に依頼すれば、半額以下の料金である。

「また、何かあればいつでも相談に乗ります」

北条は形式的な挨拶で、屋敷を後にしようとしたときだ。

「夫人、ちょっとよろしいですか?」

「あら、どうしたのかしら」

「今度の選挙のことで、ちょっとご相談がありまして」

 丁寧な言葉遣いの様子から察するに、先ほどの息子ではないようだ。声をかけてきたのは、守倉議員が面倒を見ている、市議会議員らしい。その男の見た目は恰幅のいい借り上げのオールバック。いかにも若手政治家という風貌だ。

 守倉夫人の様子は特に変わりはないように振舞った。先ほど夫の不倫が発覚した事実をまるで受け入れたかのようだ。

「夫人、こちらの方は?」

「えぇ、こちらは北条さんといいまして、先日婦人会でお会いした方です。この前の会合で意気投合したので、休日を利用してうちに招いたのです」

(よくもまぁ、そんなウソをさらっと言えるものだ。だが、ここは空気を読んで、婦人会の人として振舞うか。私としては婦人会などという田舎臭い集まりなんか出たくもないが)

「えぇ、北条と申します」

「そうですか、初めまして北条さん。私は、町田市の市議会議員である徳地隆弘とくち たかひろと申します。後ろにいるのは私の妻です。妻は、守倉夫妻の長女でもある美紀みきです」

 徳地の背後には、地味な感じでたたずんでいる美紀の姿があった。守倉夫妻の長女と結婚していれば、この徳地という男も、守倉の親族となるわけか。夫の不倫に関しては何も知らないようであると、北条は察した。

北条は邪魔をしては悪いと判断し、足早に守倉邸を後にした。

「お金持ちの貴婦人が夫の不倫を突きつけられて動揺すれば、金額の大小の区別なんかつきっこないわね」

そうして、簡単に食費一八万円を手にすることができた。悪どい。

「にしても、怪しいわね、その夫。本当に肉体関係だけであそこまで頻繁に女性と会うのかしら。それに何かが引っかかる。まぁいいわ。私にとってはこれ以上は調査の範疇外だし」

本当に悪どい。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ