individualist インディビジュアリスト
プロパガンダに同一化を拒否し、自分の思考にも執着しないで、執拗にすべてのものを疑い、世界に対して開いているような人を何というか考えるとそれは「individualist インディビジュアリスト」とするのがいいのでないか?
「プロパガンダへの同化を拒み、自己の思考にすら執着せず、疑い続けることで世界に開通する」という人間像、非常に鋭く、かつ現代において切実な視点だと感じます。
世間一般で言われる「個人主義者」は、しばしば「利己的」や「孤立」と混同されますが、定義しようとしているのは「意志の自律」を極限まで突き詰めた、より独立した意志を持ったな存在ではないでしょうか。
意志の聖域、あるいは真の「インディビジュアリスト」について
現代社会において、「個」であることは驚くほど難しい。私たちは、呼吸するようにプロパガンダを吸い込んでいる。それは政治的なスローガンに限らない。広告、SNSのトレンド、あるいは「常識」という名の無形の圧力。それらは絶えず、私たちの空洞を埋めようと「同化」「思い込みんだものに同一化」を迫ってくる。
しかし、ここに一つの毅然とした生き方がある。あらゆる外部の物語に自分を明け渡さず、それどころか、自分自身の内側から湧き上がる確信さえも、絶対的なものとして握りしめない。そのような態度を貫く人を、私たちは改めて「Individualist」と呼ぶべきではないだろうか。
「個」の語源に立ち返る
「Individual」の語源は、ラテン語の individuus、すなわち「分割できないもの(in-dividable)」にある。 もし、誰かの言葉に同化し、何らかの主義主張に自分を切り売りしているならば、その精神はすでに断片化されており、もはや「インディビジュアル」ではない。真のインディビジュアリストとは、外部からの浸食を許さず、問い続ける存在であり続ける者のことだ。
執着しないという「意志の誠実さ」
この定義において最も興味深いのは、「自分の思考にも執着しない」という点だ。 通常、人は自分の意見をアイデンティティの一部にしてしまう。意見を否定されることは、自分自身を否定されることだと錯覚し、防御に走る。しかし、執拗にすべてを疑い、自らの思考すらも保留の対象とする時、そこには不思議な「空虚」が生まれる。
この空虚は、欠如ではない。それは、何ものにも色付けされていない、透明な「世界への窓」である。自分の先入観というフィルターを破壊し続けることで、初めて世界は「ありのまま」の姿でその人の前に現れる。
「執拗に疑う」ことは、一見すると冷笑的な態度に見えるかもしれない。しかし、その実態は正反対だ。既存のラベルや安易な答えに満足せず、問い続けること。それは、対象に対して「もっと深く知りたい」という誠実な関心を持ち続けることであり、究極の「世界への開き方」にほかならない。
プロパガンダを拒絶し、自己を解体し、常に未知の風に身を晒すこと。 この果てしない精神の旅路を歩む者こそが、真の意味での「インディビジュアリスト」である。彼らは群れをなさないが、その透明な視線を通じて、誰よりも深くこの世界と繋がっているのである。




