姫の家出・後編
もう何度もお泊りしている、お兄さんの屋敷は居心地がいい。
龍青様の匂いがするし、美味しい食べ物も待っている。
それに、ここには私をあったかく迎えてくれる、みんなが居てくれるから。
女房のお姉さん達も、侍従のおじさんやお兄さん達も、
一度巣に帰ったはずの私がまた顔を出したので、
少し驚いていたようだったけれど、
私が元気なく、龍青様の着物にしがみ付いている姿を見て、
「公方様と離れるのが嫌で、また戻ってきてしまったんですね」
……と思ったらしく、あらあら、おやおやと笑いなら、
お帰りなさいと言って笑いかけてくれた。
「――あれ、嬢ちゃんじゃねえか、
さっき巣穴に帰ったんじゃなかったのか?」
そこで、さっきお別れしたはずのミズチおじちゃんが、
屋敷へ戻って来た私と龍青様を見つけた。
仕事を終えてこれから帰るつもりらしく、藍色の風呂敷き包みを片腕で抱え、
廊下を歩いている所に出くわしたのだ。
「どうした? 忘れ物か?」
戻って来た私を見て、不思議そうに聞いてくるので、
私は巣立ちをしたのだと、キュイっと鳴いて教えてあげた。
だから、私はもうりっぱな成体だし、今日からここに住むんだよと。
本当に巣立ちをするかは、まだ決めるなって言われているから、
おためしみたいなものだけどね。でも、私としてはもう住み着く気なの。
「あ?」
「……母君とけんかをしてしまって、巣を飛び出してきてしまったらしい」
龍青様がちょっと困った顔でそう言っていた。
「キュ!」
だってひどいんだよ。
龍青様からもらったものを勝手に捨てちゃうんだもの。
しっぽを振りながら頬をふくらませて怒っていたら、
龍青様がよしよしと頭をなでてくれた。
「……そういうわけでな、今夜は俺が預かって、
ここで泊まることになったんだ」
「キュイ!」
ちがうの、ここにずっと住むの。郷にはもう戻らないんだから。
それでもう龍青様の嫁になるんだから、決めたんだからね。
明日は「こんぎ」をするの、それで成体になるんだよ。
龍青様には、「はいはい」と言われながら床に降ろされて、
私は自分の部屋に行くことにした。
「まずはその荷物を部屋に置いておいで、誰も盗らないから」
「キュ」
私はこくりとうなずく。
もう捨てられないように、こっちにみんな持ってきたのだ。
ここならばきっと、隠さなくても大丈夫だと思ったんだ。
ミズチのおじちゃんに「また明日ね」と言ってお別れをしてから、
手まりを連れながら、とてとてと廊下を歩いていると、
前から膳を運んでいるハクお兄ちゃんが、
侍従のお兄さんを連れてやって来た。
きっと龍青様達の夕餉を運んでいる途中なのだろう。
私は「ただいま」とハクお兄ちゃんにキュイっと鳴いた。
「あれ? ちびすけ帰ったんじゃなか……って、泣いているのか!?」
「キュイイ……」
「い、一体どうした。どっかで転んだのか?
主様に言われて、おまえがはまりそうな所は全て撤去したはず……。
それとも何か変なものでも拾い食いしたのか?」
ハクお兄ちゃんに会うと、私はまた涙がじわっと浮かんだ。
ぎょっと固まるハクお兄ちゃんに私は駆け寄り、
着物の裾をつかんで顔を見上げる。
ぷるぷると震えながら、口元をぱくぱくとした私は、
また涙がぽろぽろとこぼれてきたのだ。
「ハク様……まさかまた姫様を泣かしたのですか?」
「これは後で、公方様にご報告ですかね」
「ち、ちが……っ! ぼくはまだ何もしてないぞ、だよな? なあっ!?」
龍青様のことを大すきなハクお兄ちゃんなら、
この私の気持ちを分かってくれるだろう。
私は龍青様にもらったものを、かか様に勝手に捨てられたことを話した。
その話を聞いて、ハクお兄ちゃんは持っていた膳を、
通りがかった女房のお姉さんに頼み、
しゃがみ込んで両手で顔を覆う私の頭を、そっとなでてくれた。
「……そうか、それは実の母親でも許しがたい行為だな
よりによって主様から特別に下賜されたものを、
勝手に始末するなどありえないことだ。
万死に値する。ぼくだったら噛みついてやる所だ」
「キュ!」
そうでしょ!
めずらしくハクお兄ちゃんと話が合って、
私は安心した。私は悪くない。
だから今日からここに住みついて、りっぱな嫁になるからねと、
決意を新たにして、ハクお兄ちゃんの横をさっと通り過ぎる。
まずはこれからのために巣作りだ。
そしたら女房のお姉さんに頼んで“こんぎ”をするの、
そうしたら、きっとすぐに成体にだってなれるんだから。
「え? ちょ、今日から住むって、主様は許可しているのか!?」
「キュ!」
まだだけど、決めたの。
だからもう龍の郷には戻らないつもりだし、
かか様がごめんなさいしても遅いんだから。
ハクお兄ちゃんはそれを聞いて、
自分の部屋に行こうとした私の後をついて来た。
「それでその風呂敷き、さっき別れたときよりも膨らんでいるのか。
この中に何が入っているんだよ? そんなに詰め込んで……」
私は「北の方の部屋」につくと、
背負ってきた風呂敷を床に降ろすため、後ろにころんと寝転がると、
結び目を解いて、ハクお兄ちゃんに中を広げて見せる。
えっとね……龍青様にもらった匂い袋でしょ、おもちゃと着物でしょ、
あと龍青様に作ってもらった花冠と女房のお姉さんにもらった椿の油に、
無事だったものぜーんぶ持ってきた。もう巣立つんだから残さないのだ。
どうせ置いて行ったらまた捨てられちゃうと思うし。
持ってくるのは大変だったけど、怒りに任せていたから、
全部持ってこられたんだ。
あんまり北の方の部屋は使っていなかったけれど、
いそいそと持ってきた物をかざって巣作りをする。
「なあ、ちびすけ……おまえの言い分も分かるし、
主様が泊まりを許していらっしゃるのなら、ぼくからは何も言わないよ。
郷でいじめられたわけでもないのなら、それでいい」
「キュ……」
「だけど、その歳で帰る場所を捨てようとする考えだけは止めろ。
ぼくみたいに、群れから追われたわけじゃないのなら尚更だ。
簡単にそんなことは考えるなよ……あとできっと後悔するから」
さっきも緑王がそんな事を言っていたけど……。
私は気持ちが高ぶっていて、その言葉を素直に聞けそうもなかった。
でも、そうか、前に私の事を心配してくれていたことがあったものね。
私が泣いていたから、郷でいじめられたのかと心配してくれたのか。
ハクお兄ちゃんは優しいねってキュイっと鳴いた。
「ぼ、ぼくはおまえの兄者だからな。
……とはいえ郷での件は、今のぼくにはさすがに介入できない。
おまえがここに居たいのなら、好きにすればいいんじゃないか?
今のうちから主様の屋敷に寝泊まりするなんて、ちょっとあれだけど。
ま、まあ……おまえは甘えん坊だし、ちょっとくらいは大目に見て……」
「キュ」
私はうなずいて龍青様の所へ戻る。だから嫁になるのだ。
そう言いながら、何か言いかけていたハクお兄ちゃんを置いて、
とてとてと廊下を歩く。それ以上、ハクお兄ちゃんは付いてこなかった。
私の事はそっとしておいてくれるようだ。
「お帰り姫」
「キュイ……」
ねえ、龍青様。私ずっとここに居ていいよね?
緑王もハクお兄ちゃんも、まだそういうことを決めるなって言うし、
ここに私が居ちゃいけないのかな。
私がそう言いながら不安になって、
座っている龍青様のお膝の上に抱き着くと、
龍青様は私の頭をそっとなでてくれた。
ふわりとお兄さんの香の匂いがする。
「……姫さえよければ、いつまでもここに居ていいよって、
前に言ったことがあるだろう?」
「キュ」
こくりとうなずきながら、私はしっぽを振る。
それは、私を保護してくれた時に、龍青様が言ってくれた言葉だ。
親や仲間とはぐれ、どこにも行くあてもなかった私に、
龍青様が居場所を作ってくれた。
膝の上で寝転ぶと龍青様を見上げる形になる。
私はここに居るのがとても好きだった。
だって、その言葉を言ってくれたのがここだったから。
「それは今でもあるよ。ここは姫の居場所なんだから、
……もし、姫が本当に母君を許せないというのであれば、
俺の婚約者に害した者として、処罰することも出来るのだけれどね」
「キュ?」
どういうこと? と目をぱちぱちさせながら起き上がったら、
龍青様は静かな声でこう言った。
「かつて白龍にかけられた呪いが解けたのは、
姫の存在があったからこそだ」
「キュ」
こくんと私はうなずく。
「その姫を白龍の生き残りである母親が、
ひどい仕打ちをして傷つけたと言うのならば、
すぐにでも、そうだな……龍の郷の加護をあの土地一切から消し去り、
神罰を与えることだって出来るんだよ。
母君に自分の立場を分からせる意味でね」
「キュ……」
龍青様の瞳が水面のような瞳から金色へと変わる。
それって、また人間に襲われやすくなっちゃうの?
私を育んでくれる郷じゃなくなっちゃうから?
じゃあ、かか様もとと様も、郷のみんな……もう守ってくれなくなるの?
「そうなるね。今のように食べ物は手に入りづらくなる。
人間と言う外敵にも狙われやすくなり、生活は過酷になるね。
居場所を転々としなきゃならないし、寝首をかかれるかもしれない……」
「キュ……」
「俺が助けているのは、姫が安心して暮らせる所を望んでいたからだ。
姫が思い出すほどにあの郷に居るのが辛いのなら、
何も俺の水源近くに残しておく必要もないし。理由もなくなる。
……それに、もう姫は関係なくなるんだろう?」
龍青様の水で育まれた龍の郷。
それを洗い流すように一気に水で押し流し、
すべてを無にすることも出来るらしい。
私が傷つかないよう、誰も残っていないようにするためだって。
私はぷるぷると震えて龍青様に抱き着いた。
だめっ、そんなこと私のかか様やみんなにしないで。
何度も何度も首を振り、かか様達をいじめないでってお願いする。
龍青様だってそんなことしたら、禍つ神になっちゃうんでしょ!
そう言って顔を見上げていると、龍青様は笑いかけてくれた。
「……やれやれ、俺は悪者になってしまったか。
俺はいつだって姫を守ってやりたいだけなんだが」
「キュ?」
「……でも……そうだよね。姫はまだ母君が大好きだし、
本当はけんかして、帰りづらくなってしまったんだろう?
少しこちらで過ごして、気持ちが落ち着いたら一度巣に戻って、
姫の母君とよく話しをしようね?」
「キュイ……」
やっと素直になれたねと私の頭をなでてくる龍青様。
きっとこれが聞きたくて、わざとあんないじわるな事言ったんだろうな。
……そうだよね。だっていつだって龍青様は優しい神様なんだもの。
だから私はこくんとうなずき、
「……その時は一緒に行ってくれる?」とお願いした。
「ああ、姫がそう望むのなら」
その後、龍青様と一緒に夕餉を食べ、
湯殿で体を洗ってもらい、同じ寝床に寝転がる。
いつも龍青様はだめだよって言うのに、今日はすんなりと許してくれた。
きっと私が不安げにしていたからなんだろうな。
こういう時、龍青様は私のしたいようにさせてくれる。
甘えたい時には甘えさせてくれるし、
居場所が欲しい時は作ってくれるんだ。
だから、何かあったらお兄さんの傍に居れば私は安心できた。
「キュ……」
龍青様の腕の中は、いつも私を幸せな気持ちにさせてくれる。
とっても落ち着いていい匂いがして、大好きな場所だ。
でも、ふしぎ……。
ここに来るまでは、あんなに郷に戻らないと決めていたのに、
今はかか様に会いたくて、しかたがなくて、
早く朝にならないかなって思ったんだ。
※ ※ ※ ※
「――……うちの娘を預かってくださり、ありがとうございました」
朝つゆが木々の葉をしめらしている頃、
私が朝餉をもらってから、郷へ戻りたいとぽつりと話すと、
龍青様は笑って私を抱っこし、連れて行ってくれた。
滝の前まで行くと、すぐにかか様が岩辺のふちに立っていた。
きっと、ずいぶんと前から待っていてくれたのかもしれない。
もしかして、行き先を言わなかったから、
あれからずっと探してくれていたのかな?
ちょっとお疲れ気味なお顔をしている。
「桃……いらっしゃい」
「キュ……」
名前をよばれて、びくっと肩が震える。行ってもいいのだろうか?
昨日、かか様とぜっこうしたばかりだから、怒っているかもしれないし……。
すると、戸惑っている私に龍青様が、
「行っておいで」と背中をそっと押してくれる。
そうしたら、すんと鼻が鳴って、かか様に向かって両手を伸ばした。
抱っこしてくれたかか様に顔をうずめ、しっぽがゆれる。
「キュ……」
かか様。
「桃……おかえりなさい。心配したのよ?」
私はその言葉に何度もうなずいて、すんすんと鼻を鳴らした。
大好きなかか様の匂いだ。
だから私は昨日、龍青様と話した時のように、
素直に自分の気持ちを話すことにした。
あのね。私、龍青様がくれたものはみんな宝物なんだよ。
ずっと傍に置いておきたくて、勝手に捨てられてすごく悲しかったの……。
とってもとっても嫌だったの。
すると、かか様は「ごめんね」と言った後に話してくれた。
龍は自然とともに生まれ、共存して生きていくものだから、
あの花のいくつかは大地に根付けるように、
最後はきちんと土に返してあげないといけないのだと。
「キュ?」
「あまり時が過ぎると、あの花は大地に帰れなくなるでしょう?
桃、私と一緒にいらっしゃい、ちゃんとあなたは分かっていないとね」
かか様に連れられて、私が龍青様と一緒に来たのは開けた大地。
そこにはもう、いくつかの若葉が芽吹いていた。
これ、見覚えがある……もしかして……。
「花は種を残し、次の花を芽吹かせるために必要なの。
果実もそう、食べたら種は日の当たる土に埋めなさいって、
いつもあなたに教えているでしょう?」
「キュイ……」
「私達が何かをもらった分は、大地に返さないといけないのよ。
またここから生まれてくるためにね」
龍の郷に降り注ぐ水は、龍青様の力で草花が育ちやすくなっている。
だからこんなにも早く芽が出てきたのだろう。
私はその小さな芽にそっとふれた。
「キュイ」
かか様の言いたいことが、ようやくわかった。
一度詰んだ花は土に返さない限り、新しく芽吹かない。
それを繰り返したら、もう私の好きな花は見られなくなるかもしれないって。
私がもらった花冠は、言われてみれば最後は種が出来ていたな。
「命あるものは朽ちてしまう日が必ず来るわ。
いつか私やとと様も、郷で暮らす仲間達も、
遠いその日に、みんなあなたの前から居なくなってしまう日が来てもね?
こうしていれば、花は咲き続けてくれるから……。
あなたの慰めにはなるでしょう?」
後ろで見ていた龍青様を振りかえると、お兄さんはうなずいて、
こちらに近づき、頭をなでてくれた。
「母君にもちゃんと考えがあったんだよ。
姫の思い出の花が、この大地から無くなってしまわないようにね」
そうしていれば、また新しい花冠が作ってもらえるのだと。
私がいつもかか様に見せて喜んでいたから、
それが続くように考えてくれたのか。
じゃあ、全部無くなるわけじゃないんだねって分かった。
手には残らないけれど、こうしてまた、新しい花になってくれるんだ。
「姫はまだ幼い、それをまだ分かっていなかったようだね。
確かに姫が理解するまでに待てなかったのは、早計だとは思うが」
「はい、申し訳ありません主様……」
「いや、仲直り出来たようで安心したよ」
今日はかか様の背中で寝たい。
私はキュイっと鳴きながらしっぽを振り、
かか様にぎゅっと抱き着いて甘えて見せた。
こうして私の“家出”は一日で終わった。
私とかか様のけんかに付き合わせてしまった龍青様に、
「ごめんね」ってキュイっと謝ると……。
「まあ……いつものことだからね」
笑われてしまった。しっけいな、確かに初めてじゃないけれどさ。
いつも、かか様とけんかすると龍青様の所に逃げ込むので、
これももう、何度目かのやり取りなのだ。
嫁になるのはもう少し待っていてね、
がんばって大きくなるからねと言ったら、
「ああ、それは気長に待つよ。
でも、急がなくてもいい、ここで過ごす思い出は今しか作れないからね。
今はたくさんご両親に甘えて、仲間と過ごしておくんだよ姫。
俺のように全て失ってしまう日が来た時に、後悔しないように」
そう言ってくれた龍青様。
かか様に抱っこされながら、屋敷へと帰って行く龍青様を見送って、
お兄さんに教えてもらった子守唄を歌いながら、かか様と一緒に巣へと帰る。
龍青様が別れ際に、
『母君とけんかをするのも、仲直りが出来るのも今だけだよ』と言われて、
今だけだと言う言葉が、まだ少しわからないけれど、
私は何度もうなずいて、ありがとうと応えた。
だからもう少しだけ……成体になるのは止めようと思った。
風が吹き、若草の匂いが舞い上がる。
いつかここに、私とかか様、龍青様と一緒に過ごした。
思い出の花が咲くのだろう。
その時を楽しみにしながら、私は小さなしっぽを振った。




