姫の家出・前編
「キュイ!」
ある日の夕方、私は巣穴の中でとってもとっても怒っていた。
それは龍青様が、人間にいじめられた時くらいの怒りだったかもしれない。
いつもは私が悪いことをしたら、ごめんなさいしないと許してくれないのに、
自分の時はどういうことか、私にごめんなさいも言えなかったかか様に、
かか様のおバカ! もうきらいっ!!とキュイっと鳴き、
風呂敷きの中に、私の物を全部つめこんで背負いなおし、
手まりを持つと巣を飛び出した。
止めようとした、かか様の声なんてどこ吹く風だ。
もうこうなったら家出してやるんだからな! かか様とはこれでお別れだ。
私が子どもだからって、なめていると怖いんだからな!!
すんすんと泣きじゃくりながら、もうこのまま巣立とうと本気で考えた。
「ちょ、ちょっと待ちなさい桃!」
「キュ!」
やだ!
いくら私が子どもだからって、やっていいことと悪いことがあるよ。
かか様なんてきらいだ。もう口きいてあげない、
“ぜっこう”なんだから―っ!と、手まりを持ってたかたかと走り出す。
「キュイイ……!」
手まりは私の味方だよね? と手元の手まりに聞きながら、
郷の中をキュイキュイと大声で泣きながら走る。ひたすら走る。
鳴き声を聞きつけ、心配して巣からわらわらと出てきた。
郷のおじさんや、おばさんも居たけど、
さよなら! とお別れを言って、
私は引き留める声も聞かずに、足の間をささっとくぐり抜けた。
他のみんなに捕まる前に、逃げ切ってやるのだ。
ついさっき龍青様とお別れして、ここまで帰って来たばかりなのに、
私は来た道を引き返すように走り出す。もう後ろなんて振り返ることもない。
行く当てなんてまだ思いつかないけれど、
とにかく今は、かか様と一緒には居たくなかった。
「キュ」
そこへ、前の方から河童の緑王がきゅうりをかじりながら、
ぽてぽてと歩いてきたではないか。
「……お? 小娘ではないか、何をそんなにあわてて……」
「キュイ!」
緑王、どいて!
私は通りがかった緑王に見向きもせず、横を通り過ぎる。
緑王は、私の勢いに巻き込まれた形になると、
「なんじゃああっ!?」と叫びながら、
ぐるぐると回った後に、ばたっとその場に倒れこんだ
でも私はそれどころじゃない。
私はこれから巣立つのだ。群れを抜けるのだ。
そして新しい生活になるのだ。
かか様の居ない所で、これからは野生の中でたくましく生きるんだから!
そうと決まれば、今日はどこかに野宿できる場所を探そうとした私は、
前につゆ草と作っていた「ひみつのきち」なるものを思い出し、
今夜はそこで夜を明かすことにした。
かか様と言い争っているうちに、もう辺りは暗くなってきたし、
郷の中とはいえ、こういう時に出歩くのは危険だと教わっている。
こんな時にまでかか様とのことを思い出しては、ぐぐっと涙をこらえた。
本当はすぐにでも龍青様の元に行きたいけれど、
あの滝の前まで行くのは、さすがの私でもちょっと怖かったのだ。
水がある程度あれば鈴を使うことも出来るけど……。
あんまり無理させてお兄さん困らせたくないし。
だ、だいじょうぶ……だもん。
一日くらいの野宿だって、私にだって出来るもん、強いんだから。
「キュイイ……」
強い……強いんだもん。
そう言いつつも、私はすんと鼻を鳴らす。
すんすん……すんすん……。
郷を少し出た所に見つけた。大きな木の洞。
その中は子どもの私とつゆ草が入っても、十分広くて遊べる場所だった。
何かあったらここへ逃げ込もうと用意した。私達だけの居場所。
それがこんなに早く役立つ時が来るとは……つゆ草どうしているかな。
急に私が居なくなっては、心配をかけてしまうかもしれない。
でもお別れを言う時間はないし……。
「キュ……」
せっかくできた友達なのにな。
子どもだけで過ごせる場所があるのはいいねって、
二匹で枯れ葉をせっせと運んで、その辺にあった木の枝とつるをあんで、
入口の扉を作ってみたり……。
木の実をひろい、火をともせる場所を近くに作って……と、
色々やっていたので、ここで一晩だけ寝泊まりするのには十分だろう
明日、朝になったら龍青様の所に行こう、
行ってお兄さんの屋敷に住み着こう。
きっと龍青様なら、いいよって言ってくれると思うし。
中に入って、風呂敷きを下ろし、ひみつきちに置いてあった木の実を手に取る。
木の実の殻をむくのは大変だったけど、私は小さな手でもぎゅもぎゅともんで、
一つをぽりぽりと食べ始めた。
こういう時にはかか様や龍青様が食べさせてくれたな……と思いながら、
涙をぬぐい、鈴の力で水球を作り、顔からつっこんで勢いよく、
ごくごくと飲み干す。
「キュ!」
ぷはっと顔を上げて私は決心した。
早く大きくなって、かか様を見返してやらなくちゃ!!
「キュ……」
あ……もうぜっこうするんだっけ。
だったらもう二度と会えないんだ……。
ぴんと立ったしっぽが、だらんと元気なく地面に落ちる。
でもさっきの出来事を思い出すだけで、私は怒りが収まらなくなった。
私のしっぽは怒りでびったんびったんと揺れている。
い、いいもん。かか様ともう二度と会えなくったって。
とと様は泣いちゃうかもしれないけど、きっと分かってくれるだろう。
「キュイイ……」
顔を覆ってすんすん泣いてしまう。
どうしてかか様は、あんなことが出来たんだ。
私だったら、ぜったいにあんな事しないのに。
「……お、おい、本当に一体何があったのだ。
龍青の奴や母君達はここへ来ることを知っておるのか?
もう日が暮れるぞ? 遊ぶのはもうやめてさっさと家に帰れ」
「キュ!」
そこへ緑王が木の枝の入口から、
恐る恐る顔をのぞかせてきたではないか。
どうやら私の後を追いかけてきたようで、
ぜえぜえと息を切らせて弱っているようだった。
ここは私とつゆ草のひみつの場所なのに、付いてきちゃだめでしょ。
そしたら、「いいから、さっさと帰れ」と言われたので、私は首を振る。
「やだ!」とキュイっと鳴いて、そっぽを向いた。
「むう……強情な娘だな」
そんな私を見て、緑王は困り顔だ。
入口の所で座り込まれて、何があったと聞かれたので、
私は手まりをぎゅっと持ってぽつぽつと話す。
「キュ……? キュ、キュイイイ」
あのね……? かか様が、私の宝物を勝手に捨てちゃったの。
私が龍青様にもらった花の冠……もう、いくつももらっていたけれど、
そのどれもが大切で、私には大事な思い出が残る物だったのだ。
だから、花が枯れて色あせてしまった後も大事に取っておいた。
寝床や、もらった行李の中にだって置いていたのだ。
それで今日は、龍青様からまた新しく花冠をつくってもらって……。
集めていたそれに合わせようと、うきうきしながら帰ったのに。
『キュ……?』
帰ったらその数が減っていたことに気づいた。
その時の私の驚きと悲しみ、焦りといったら……っ!
何せ巣に帰ってからは、その花の冠や匂い袋を使って、
龍青様の匂いを嗅いだりしてみようと思っていたのだから。
……そういえば、最近は花の冠をさわっていなかった。
でも私、数のお勉強もしているから、
もらった物がいくつあったかは、ちゃんと覚えている。
誰かが私の物をどこかにやったのは、すぐに分かったんだ。
それで震えながら、かか様に聞いたらね?
『たくさんあるから、古いのは埋めたわよ』
……って言われたの。
私に、なんの言葉もなく、勝手に、「私のもの」を……っ!!
キュイイイ!! 私はあの時の事を思い出して、
ぴょこぴょこ飛んで声を限りに叫んだ。
かか様はどうしてそんなことするのかな! ひどいよね!?
すごく大切にしていたのに、かか様は私のものを勝手に捨てちゃったんだよ?
そうしたら、緑王は私の話を聞いて変な顔をしてきた。
「……それは、母君の方が正しいのではないか?
枯れた花なんて、後生大事に持っていてどうするのだ。
なんの役にも立たないのに……そういくつも邪魔だろう?」
「キュイ!」
ちがうもん! あれは私の宝物だったんだもん!
そこにあるだけで、私が幸せな気持ちになるんだもの。
緑王は、えっと、そう「おんなごころ」が分からないからそう言えるんだよ。
だからハゲつるぴっかで、嫁が見つからないんだよ。
「は、ハゲは関係ないではないか――っ!?」
「キュ!」
関係あるよ! ハゲやだって言われたんでしょってと言ったら、
私に背を向けるように膝を抱えて座り込んだ。
「こ、子どもに……き、傷口がえぐられた……ぐはっ」
そんな緑王を放って、私はすんと鼻を鳴らして天井を見る。
何の話していたんだっけ、ああそう、私の事だ。
私が生まれてから……いろんなことがあったけど、
あんなにきれいなお花畑に連れて行ってくれたのは、龍青様だけだった。
かか様もとと様も、郷のみんなだって生きていくだけで苦労していたから、
私にあんなにすてきな物を見せてはくれなかったんだよ。
その白い花で、初めて冠を作って頭にかざってくれたのが、
私にはすごくうれしくて。
記念に大事に取っておこうとしていたのに、
かか様が……あんな……あんな……っ!
私は手まりを離し、ころんとうつ伏せに寝転ぶ、
右へ左へころころと転がっては泣いた。泣き続けた。
手足をじたばたしたり、うつ伏せになってはキュイキュイ鳴く。
他の誰かにとってはただの枯れ草でも、私にとっては大切な思い出なんだよ。
よりによって、龍青様がくれたものを捨ててしまうなんてっ!!
「キュイ!!」
――というわけで、私はかか様と“ぜっこう”とやらをして、
今日から巣立ちをして、りっぱに暮らすのだ。決めたの。
だから巣にはもう戻らないよ。
明日になったら龍青様に迎えに来てもらって、あっちに住み着くんだ。
そしたら、かか様とはさよならで、もう会わないの。
ここにも、もう二度と帰ってこないんだから。
「……それでその大荷物か」
「キュ」
ぱんぱんに膨らんだ風呂敷きの包みは、私の気持ちの表れなのだ。
緑王は帰って川の底へ帰っていいから。
私は手を振って、緑王にお別れを告げた。私は居なくなるけど元気でねって。
もう私は郷の子どもじゃなくなるけど、たくましく生きていくから安心して。
今の緑王は田んぼの横を流れる小川の中に、
小さな祠を作って住んでいる。
これで私にもしも何かあっても、緑王が怒られることはないと思うし。
一緒に居なくても、他の誰かが緑王の面倒を見てくれるだろう……。
「いや……帰りたくてもな、おまえの周りに保護者が誰も居ないと、
余が強制的に守るよう、龍青の奴が命令してきおったからな。
まったく龍青め……いまいましい……っ!」
「キュ……?」
そうなの?
緑王は額の金冠をなでながら、
ふうとため息を吐いて立ち上がる。
「だからな、おまえの精神状態に何かがあった時は、
こうして、余がおまえの所へ駆けつけるようにされている。
余の力でどうしようもない場合に、助けを呼ぶなどの例外は出来るがな」
その上、私に何か嫌なことをしてこようものなら、
役が増えるばかりか、龍青様からきついおしおきの雷が降ってくるらしい。
……一度もそんな所を見ていないけれど、身に覚えがあるのだろうか?
さっきから、がくがくと震えながら身をちぢこませているぞ。
「と、というわけでだ。小娘。家に戻れぬというのなら余が供をしてやるから、
さっさと龍青の奴を呼び出して、奴の屋敷で体を休めよ」
「……」
送ってくれるの? そう聞いたらこくりとうなずいた。
「しかたあるまい。強制的に結ばれた縁とはいえ、
この余はおぬしの……な、仲間になったのだからな。
余は仲間となった者には寛容な性格なのだ」
「キュ?」
かんよう? よくわからないけど……もう私、郷を抜けるのに?
「それでもだ。ただ、本気で郷抜けを考えるのは一旦は待てよ。
神の住む場所とここの時間は本来交わらぬものだ。それは知っておるな?
今はおまえに合わせてはいるが、本気で離れれば二度と戻って来られぬ」
「キュ……」
「おまえが水の底で龍青のヤツと、のほほんと暮らしている間に、
この地に残された両親は、みるみるうちに老い、朽ち果て、
ここにはおまえの知る者は誰も居なくなってしまうからな、
あの時の決断が間違っていたと、後で気づいても、そうなると二度と……。
会いたくても会えなくなる。まだ幼い身で決めるには早いぞ」
めずらしく、緑王が真面目な話をしてくる。
……でも、そんな子どもを目の前に居るヤツは連れ去ろうとしたんだよね。
まだ、子離れだってできていなかった私を。
私とあの子は忘れていないぞ、おまえにされたことを。
「キュ」
「そ、それとこれとは一旦別に考えよ! よいな!?」
そうしてあわてたように小さく差し伸べられた水かき付きの手に、
私は、えー? と思いながら自分の手を重ねて立ち上がる。
近くにホタルブクロの花が咲いていたので、中に私が光を灯し、
それを緑王が持って案内してくれることになった。
淡く紫色に光るホタルブクロの明かりで、足元を照らしながら……。
小さいお供が居るだけで、夜道は少しだけ怖くなくなった。
※ ※ ※ ※
ぽてぽて、とてとて……。
滝まで行く道は歩くごとに暗くなっていく。
何もかもが静まっていく今の時間だけは、私は苦手だった。
木々の根元をよけながら、小さな私達には坂を上るのが大変だ。
いつも歩きなれている私とは違い、
今まで陸での暮らしに慣れていない緑王は、余計に大変そうで、
ひいふうほう言いながら、なんとか坂の上まで道案内してくれた。
滝の前までようやく着いた私は、水面をじいっと見下ろす。
「また明日ね」と、お兄さんとはさっきお別れしたばかりなのに、
また呼び出すなんて、龍青様がびっくりするよね……。
ちりんちりんと二度ずつ鳴らし、龍青様に来てほしい合図を出すと、
龍青様はすぐに姿を現して、私の名前を呼んでくれた。
それがとっても安心できて……「龍青様」とキュイっと私も名前を呼ぶ。
お兄さんの姿を見たとたん、涙を浮かべる私を見て、
龍青様は何かを察してくれたのか、
腰をかがめて私に両手をさし伸べてくれた。
「……おいで?」
「キュ……!」
私は呼ばれたことで、龍青様の名前を呼び、
両手を伸ばして抱っこをねだると、お兄さんの着物に顔をうずめた。
手と足でがっしりと抱き着いた私は、龍青様に会えて安心する。
「緑王、姫が世話になったな。後は俺に任せてくれ」
「……ふ、ふん! ではさっさとその小娘を寝かしつけて来い、龍青。
余はもう直ぐにでも祠に帰って休みたいからな」
「ああ、では行こうか桃姫」
私の事をじいっと見上げている緑王に気づき、
私は手を振って滝の前でお別れする。
送ってくれてありがとう、気を付けて帰ってねとキュイっと話した。
すると、「ふ、ふん」と言いながら、少し嬉しそうな緑王の姿。
そして近くにあった葉をひとつちぎると、
それを滝の水面に流し、上に飛び乗る。
「ではな」
あっという間に川の流れによって緑王は、
川下にある郷の方へとすべるように流れて行った。
帰る時はああやるのか……便利だな。河童って。
「さあ、俺達も行こうか」
「キュ」
そうして私はお兄さんに連れられ、
水の底にある水神様の屋敷へ向かうことにした。
ちらっと後ろを振り返ると、岩肌の上からは郷の景色が少し見えた。
今は龍青様にも守られているから、人目を気にすることなく、
巣の近くで火が焚かれている様子が見える。
そのまま遠ざかっていく……私の住んでいた郷の姿。
もう二度と見ることもないと思っていたのに、
さっき、緑王に言われた言葉が頭の中でよみがえって、
今は見ていると、胸のあたりがきゅっとした気がした……。




